風花の蓮
吉凶・兄弟・養父・養い子
「―――風を纏った。黒い、風を……」
薄桃色の花びらが吹雪く季節、吉凶を占う盲いた老婆が一つの答えを導き出した。
黒い風。
それは彼女ら風花の民において、凶事を運ぶ不吉の象徴とされる忌み子のこと。
過去数度に渡り生まれた黒い風を纏いし赤子は、風花の集落に破滅を齎した。
一人は風を遠ざけ、一人は花を枯らせ、一人は子を流し、一人は水を濁らせた。
今再びの凶事が集落に降り掛かるやもしれぬ。
盲いた老婆は手元のひび割れた素焼きの陶板をなぞりながら、しわがれた声で問う。
「長よ……如何するかね」
かりかりと、尖る茶色い爪の先でひび割れを引っ掻く音を老婆が立てている横で風花の集落の長は苦渋の滲む顔で俯いていた。狩りに畑仕事にと荒れた拳を握り唇を血が出るほどに噛み締めたまま、無言で。
「どうにかならないのか、セン婆っ」
長とは別、老婆の傍らに立つもう一人、長とよく似た青年が縋るように声を荒げる。
だが、老婆は静かに首を振るばかり。かりかり、かりかり、とひびを辿る指を止めぬ老婆に青年は「何故だ!」と叫び、地団太を踏んだ。
「何かの間違いだ! ウネと兄者の子が黒い風を纏うはずがないだろう!? セン婆は耄碌して読み違えてるんだ、そうに違いない!!」
口角泡を飛ばす勢いで老婆に詰め寄ろうとする青年を止めたのは長だった。
「……止めろ、デイ。セン婆の占いは絶対だ」
「兄者はそれで良いのか? 待ち望んでようやく出来た子じゃないか。兄者と、ウネの! それなのに兄者は簡単に諦めると言うのか!?」
「…………」
長を兄者と呼び、長にデイと呼ばれた青年から迸る激情が閉ざされた室に風を起こす。デイを守護する梅花藻の花びらが踊る風はデイを中心に巻き起こり、佇む長と老婆に強く吹き付ける。
「冗談じゃない、黒い風がなんだ! 何の為にあの子は産まれたのだ……何の為にウネは死んだのだ! 兄者の子を遺すために命を賭けた、あいつの想いはどうなるというのか……!!」
轟轟と吹き荒ぶデイが起こす風は嵐の様相。梅花藻の白い花びらがきしきしと周囲を傷付け二人を襲う。だがそれを、長は静かに抑え込んだ。デイの梅花藻に己の三槲の花びらを添わせ、己と老婆に害が及ばぬように弟の守護花を躍らせた。
「デイ、もう止せ」
ひゅるひゅると長の周囲からも風が生じる。デイの風とは逆相の風を起こして打ち消し始めた長は荒ぶる弟の心を鎮めようと努める。我が子のことで怒り心頭に発する弟に、お前のその怒りで十分だ、と。
「黒い風を纏う赤子は流さなければならない。それは風花の集落の絶対の掟だ。……例え俺の、長の子といえど例外は無い」
「兄者っ……」
「あの子は流す。長の決定だ、否は聞かん」
「兄者ァ!」
風を抑えられているデイは長に掴みかかり胸ぐらを両手で握り締めた。自分とよく似た……瓜二つの兄を締め上げようとするも長の風がそれを阻みデイの身体を大きく吹き飛ばす。ばたばたとはためく、室の外に通じる扉代わりの布を突き抜けたデイは満天の星空の下、無様に地に伏した。
「畜生、畜生!」
どう足掻いても叶わぬ兄との力量の差。それ故に双子でありながら長と成れなかったデイは、地面に散らばる兄の三槲の花びらを憎らしげに叩いた。
兄者はいつも自分に無いものを手にする。自分が欲しい物を全て。強い力も、長の位も、好いた女も、好いた女との子も、全部、全部!
何度も砂利の上に叩き付けるデイの拳は血が滲み、白い三槲の花びらを朱に染めていく。
狂ったかのように地を叩く弟の姿を、室から出てきた長は痛ましげに眺めていた。
長には掛ける言葉が見つからなかった。
幼い頃から比べられ、苦汁を舐めてきたのは弟の方だと長は知っている。力量のこともそう。兄弟で一人の女を好きになり、そして……。
結末は全て、弟に優しくはなかった。
ぽつり、ぽつりと天が涙を零し始めた。
雲一つない満天の星空から、灰色の雨が大地を、二人の男をねっとりと濡らす。
「……これが、此度の黒い風の禍か」
粘り気を含む灰色の雨に打たれながら長は呟き、未だ立ち上がろうとしない弟の身体を起こして室へと戻る。身体に絡み付くような雨は身に宿る力を削いでいくようだと長は思った。
「禍は始まった。最早一刻の猶予も無い。俺はあの子を流しに山に入る。その間、お前が集落を取り仕切れ」
長の肩に力無く凭れていたデイは、長の言葉に耳を疑った。
「自分の手で、流すというのか……?」
血と泥と灰色の雨に濡れた拳をデイが振るわせる。
少しの逡巡の後、長は頷いた。
「我が子に黒い風を呼び寄せた責任を取るつもりだ」
「そんなことをしたらあの子はどうなると思ってる! 親に子殺しをさせた業により二度と世界に咲き戻れなくなるんだぞ!? ……兄者だってそうだ。子殺しの罪でもう二度と……守護花が咲くことは無くなる……」
それでも良いのかとデイが問う。
長は、ああ、と答えた。
「そうなれば、お前が長となれ。俺はウネと子の墓標を抱え、ひっそりと生きよう」
それが子殺しの贖罪となるかは分からないが。
長は力無く笑い、未だ陶板の意味を紐解いている老婆に弟を預けた。
「セン婆、あの子の行く先によい風が吹くような呪いを頼む」
「…………」
「…セン婆?」
かりかり、かりかり。
占いの結果の跡をなぞっている老婆に二人の男が顔を見合わせた。
素焼きの陶板を用いて行われる老婆の占いは、本来占う事象の肯か否かをひび割れの仕方で読み取るもの。既に答えの出ている陶板を幾らなぞろうとも肯と出たならそれ以外の答えなど無いはずなのに、老婆は盲いた目で中空を睨み付けながら、震えの走る指先で何度も何度もひび割れを辿る。
一心不乱という言葉に相応しい様子の老婆に男たちはこれ以上の言葉を挟む余地が無かった。
「……スイや」
位ではなく名を呼ばれた長は「ここに」といって老婆の隣に膝をつく。
「よくお聞き。お前とウネの子は黒い風を纏った。それは変わらぬ事実」
「……はい」
再びの宣告に長の胸が軋む。どうあがいても覆ることの無い我が子を思い、長は固く、痛むほどにこぶしを握りしめた。
「だがね、おかしいのだよ……」
「なにがです」
「お前の手をお寄越し。……ほら、ここだ。二重に割れているのが分かるだろう」
枯れ枝のような老いて萎びた指が力強く長の手を取り陶板の上を滑らせる。ひび割れの意味を紐解くことができるのは老婆だけだが、言われた通りの場所は確かに二重になっていた。
「黒い風を纏ったと風花の子に下すことの重大さを私は理解しているよ。だから何度も何度も確かめた。お前たちが知る通り、私はお前たちが生まれるずっとずっと前からこうしてこの集落の行く末を占ってきた。だが、こんなことは初めてだ……」
「この二重のひび割れは何を意味する」
「……」
「おい、セン婆!」
押し黙る老婆に堪らず声を荒げたのはデイだった。普段なら直情な弟をすぐに諌める兄も、この時ばかりは彼を止めることなく老婆の顔を食い入るように見つめていた。
「……吉凶の分かれ道」
ようやく発した老婆の言葉に、二人の男たちは息をのんだ。
「占いの答えが肯か否のどちらかだけではないというのか」
「……一度の占いで示される答えが複数出るのは初めてなこと。私もこれをどう読むべきか非常に苦慮している。黒い風は等しく凶事であるはずなのに……吉事の分かれ目が出るなんて……」
「だが、既に灰色の雨が降り出した。これは凶事ではないのか」
「そうだセン婆。雲も無いのに、ひどく粘った雨が降ってきたのはどういうことだ」
震える指先で二重に割れているひびを往復する老婆は、重い息を吐き出して片手で顔を覆ってしまう。
読んでも読んでも答えが割れる。黒い風を纏った長の子が里に齎すものが凶事であるのか吉事であるのか確信を持って断言出来ぬ、と老婆は呟いた。
「私もやはり、歳かねえ……」
「それはそうだろう。齢百三十を超える妖怪が何を今更」
「デイ!」
「いってえな兄者! 抓らずとも良いだろうが」
「そういうことは心で思っていても口には出さぬのが礼儀だ。セン婆とて仮にも女性なのだから傷付くこともあるだろうに」
「仮にも…って、兄者も大概失礼だろ」
「ああ全く、お前たち兄弟は本当に賑やかしくて悩むことも出来やしないよ。茶でも飲みたい気分だねぇ……なあウネや」
老婆が発したその名を聞いて、やんやと言い争いをしていた二人がぴたりと止まる。さすが双子と言うべき同じ仕草で顔を背け、同じ仕草で頭の後ろをがりがりと掻いた。
「おやおや、私も耄碌したもんだ。……ウネはもういないというのに」
ふっふと吐息を漏らす老婆は次代の占師として大切に育ててきた養い子の死に切なく笑う。そして「……のう、スイにデイ」と小声を潜ませた。
「あの子を生かす道を模索してみんか」
それは占師にあるまじき禁断の誘惑。
黒い風を身に纏う赤子を流さずおけばどうなるか、人よりも長く生きて彼らの知らぬことを知り尽くしている老婆の口から出る言葉ではなかった。老婆の真意を測りかねる長が「セン婆……」と呟いた。
「あの子は黒い風を纏ったが、我が弟子ウネが遺した子だ。私に劣らぬ占師としての才有るあの子が多くを語らず逝ったことが、ひとつの希望のように思えるんだよ」
「希望……」
「老いた私の占いには吉凶二つの答えが出た。まだ若いウネの占いには、もしかしたら吉しか出ていなかったかもしれないだろう? それはまあ、今はいないあの子にしか分からんことだが、夫たるスイに何も告げていないということはお前たちの子に罪は無いのかもしれん」
「……」
「……だがそれでも、黒い風を纏う者をこの集落には置いてはおけんがな。皆あの子に脅えるだろう。あの子は集落を出た先で生きていくしか道はない」
―――如何するかね、お前たち。
百三十という年月を過ごし、光を失って濁る眼差しを男たちへと向ける老婆はこの先に続く未来を二人の男たちに決断を委ねた。
***
「―――レン、降りて来い」
足下からの呼び声に答え、樹上高くからその身を躍らせた少女が宙を舞う。
ひらひらと衣を風にそよがせゆったりと降りてくる少女の身体を支えるのは、桃色の花びら舞い踊る黒い風。睡蓮を守護花とする少女レンは己を呼んだ男の腕の中へと舞い降りた。
「空の様子はどうだった」
「今日はずっと曇り。明日も雲が出る」
「そうか。雨は降りそうか?」
「ううん」
「そうか」
レンの身体を軽々と片腕で抱き上げた男は「ほら」と言って真っ赤に熟れた野苺数粒を差し出した。
「空読みのご褒美だ。狩りの途中で見付けた。甘いぞ」
「ありがとう、デイ」
「こら、父さんと呼べって言ってるだろ?」
「デイは父さんじゃない。父さんはスイ……違うの?」
「違わないが、俺もお前の父さんなんだよ」
「よく、分からない……」
赤い野苺を掌で弄びながらレンは首を傾げる。そんなレンの頭をわしわしと撫でたデイは「お前には父さんが二人いるってことだよ」と、不思議がる表情のままの少女を抱えて歩き出した。
―――……‥
レンが産まれた日。産まれたばかりのレンを連れたデイは風花の集落を出た。
長の弟たるデイは黒い風を纏う赤子を集落から遠い遠い場所へ流しに行ったと長は民に伝え、占師の老婆が口添える。
「これで風花の集落に凶事は起こらん」
長の子が黒い風を纏ったことに恐れを抱いていた人びとにようやく安堵が広がった。
一時だけ降った灰色の雨も、その後は一粒たりと降りはしなかった。あれはやはりあの子のせいなのかと長の親心に楔を穿つが老婆はそれを否定した。
「あの雨が降る前の日に大地が大きく揺れただろう。カラン山が噴火したせいさ。火山灰が雨に混じり、泥雨となった。それだけさ」
「……だがあの夜、空に雲は……」
長の子が産まれた日、灰色の雨をその身に浴びたのは長とデイの二人だけ。民たちは皆各々の室に居たため雨が降ったのは知っているが空の様子は見ていない。それは無論、盲いた老婆も見ていない光景。
「……ただの泥雨だよ」
「そう、だな……」
あの子を生かすと決めたのは長自身。弟があの子の生涯を見届ける役を自ら志願し夜の内に集落を出るのを許したのも長自身だった。多くを欺くことが、果たしてどう転がっていくことになるのか長には分からない。
だがこのまま空続き同じ風吹く大地のどこかで穏やかに暮らせることを願う親心を胸に、長も生涯を賭して集落を守ることを誓った。黒い風を纏う子を生かすと決断した己の命は全て風花の集落の為に使おうと。
二度と戻らぬ我が子と弟を思い、長は胸から下げた妻の形見たる金茶色の御髪飾りをそっと撫でた。
‥……―――
細い枝木で組んだ骨組みに目立たぬ色合いの布を被せた簡素な天幕がデイとレン、二人の住まい。
赤子の頃から今日まで人目を忍んで生きてきたレンにとって、父の兄弟たるデイのいるこの天幕の中だけが唯一安らぎを覚える空間だった。
「おいで、レン。髪を梳いてやろう」
天幕の中いっぱいに敷き詰めた毛氈の上に胡坐を掻いたデイがレンを呼ぶ。少女を自分の前に座らせたデイはつげの櫛を用いて少女の髪を梳った。
「大分伸びたな」
赤が混じる金茶色の豊かな髪に優しく櫛を通し、毛先まで滑らかにしていく。レンは頭皮を擽られるような心地よさにうっとりと目を閉じて「風を起こすときに少し邪魔」と言った。
守護花の助けを借りて風を起こすことの出来る風花の民の髪は男は短く、女は丸く括るもの。レンは生まれてこの方髪を括ったことが一度もない。それはデイという男手一人で育てられたせいだが、これまでレン自身があまり気にしていなかったせいでもある。だが背中の中腹まで伸びた今、やはりどうにも風に煽られる髪が気になるらしい。
「邪魔か。切りたいのか?」
俺の様に、とデイは己の赤い髪を指し示すとレンは少し、嫌そうな顔をした。
「……切りたくない」
「そうだよな。お前は女だし、男の様に短いのはまずいだろう」
ううむと唸るデイが櫛を置き、滑らかな指通りになったレンの髪を一つに纏める。それを武骨な指先で何とか丸い団子の形にしようと試みるも、するすると解けてあっという間に背中に流れた。
「参ったな」
散髪の技術は男の身嗜みとして覚えたデイも、女の髪の括り方までは覚えていない。
さらりさらりと指先でレンの髪を弄び、暫く沈黙してから「よし」と呟いた。
「こうしよう」
「……?」
デイは胸に下げていた御髪飾りの組紐をぷつりと引き千切るとそれを口に銜え、櫛を取りレンの髪を頭の高い位置で一つにする。綺麗に纏めたところで根本に組紐をくるくると掛けて縛り、馬の尾のような髪型にしてみせた。
「これならどうだ」
まとめた房を肩の前に流してやると、レンはおずおずとそれに触れる。これまでざんばらであった髪が一つに纏まり、首の後ろが何やらすっきりしている、とレンは擽ったそうに笑った。
「こうしておけば風を呼んでも邪魔にならないだろう」
「ありがとう、デイ」
「だから父さんと呼べって」
「デイはデイだもの。……でもこれ、大事なものなんじゃ」
レンがそう言ってそっと触れる髪の根元。色味が少し違う御髪飾りがレンの髪に目立たぬ彩りを添えている。
デイが肌身離さず持っていた御髪飾りを、たかが髪を括るためだけに使ってしまって良いものか。レンは新しい髪型に浮かれる気持ちを抑え、後ろに座る養父を窺い見る。
「良いんだ。元々それは俺の物じゃないからな」
「そうなの?」
「ああ」
何の毛を使っているのかをレンは聞いたことが無かったが、人の髪の毛だろうと薄々レンは思っていた。そして今それは確信へと変わる。遠いものを見るような、どこか懐かしみを覚えているような眼差しでレンの髪を括る御髪飾りを見ているデイに、よほど大切な人のものなのだろうと理解した。
「俺の物じゃないが、持ち主はもういないし。それはお前にやるよ」
ぽふと大きな掌がレンの頭を覆う。折角綺麗に纏めた髪をくしゃりとまぜられてレンは「もう!」と怒った。
例によってここまでです。
遠い目になるような昔に書いた話。
記憶では養父×養い子にしたかったけれど当時の脳内倫理委員会(ヘタレ属性)によりここで終了。




