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私を殺人犯にした婚約破棄について、少し調べさせていただきます

作者: モカ
掲載日:2026/09/14

「リディア・オルブライト公爵令嬢。君との婚約を、本日をもって破棄する」

王太子エドガーの声は、大広間の隅までよく通った。


楽団が演奏を止めた。

話していた者たちも口を閉じた。

百人近い視線が、一斉にリディアへ向く。

半年後には、この男と結婚するはずだった。

六歳で婚約して十二年。

十八歳になった今は週に三日、王宮へ通い、王妃から儀礼や外交、宮廷運営について学んでいる。

その十二年が終わるにしては、ずいぶん人の多い場所を選んだものだとリディアは思った。


「理由を伺っても?」

エドガーの顔が険しくなった。

「クラリス・ハーデン侯爵令嬢の件だ」

ざわめきが起きる。


三日前。

ハーデン侯爵令嬢クラリスが、王宮東棟の塔から転落して死亡した。

十八歳。

リディアと同い年だった。

「彼女の日記が見つかった」

エドガーが言った。

「君について書かれた箇所がある。『絶対に許さない』『顔を見るだけで腹が立つ』――そう記されている」

「私への?」

「ああ」

リディアは僅かに視線を逸らした。

エドガーは見逃さなかった。

「心当たりがあるようだな」

「……少し」


広間がざわつく。

「リディア」

「はい」

「何をした」


リディアは口を閉じた。

「リディア」

「今、ここで申し上げなければなりませんか」

「クラリス嬢が亡くなっている。そして日記には、君への強い怒りが残されている」

それはそうだ。


リディアは小さく息を吐いた。

「では、後ほどすべてお話しします」

「それだけではない」

エドガーが侍従へ目を向けた。

「彼女の部屋から、君宛の未投函の手紙も見つかっている」


一枚の便箋が運ばれてきた。

リディアは受け取った。

見覚えのある筆跡だった。

クラリスとは親友ではない。

だが、幼い頃から宮廷で顔を合わせてきた。互いに手紙を交わしたこともある。

間違いなく、彼女の字に見えた。

短い文章だった。


――あなたを許しません。

――あなたがしたことを、私は決して忘れないでしょう。

――次にお会いした時には、きちんとお話しさせていただきます。

署名。

クラリス・ハーデン。


「これにも心当たりが?」

「あります」

今度のざわめきは大きかった。

「何について書かれたものだ」

リディアは便箋を見つめた。

心当たりはある。

だが、本当にそのことなのか。


「分かりません」

「今、心当たりがあると言っただろう」

「私には、クラリス様に恨まれても仕方のないことをした覚えがあります。ですが、この手紙がその件について書かれたものなのかは分かりません」

「なぜだ」

「私はこの手紙を受け取っておりませんから」

当然だった。

未投函なのだから。

エドガーはしばらく黙った。


「では、後で聞こう」

「はい」

「そしてもう一つ」

まだあるらしい。

「クラリス嬢が転落した日の午後、君は東棟にいた」

「いました」

「塔へ向かう姿を見た者もいる」

「行きました」

今度は誰もざわめかなかった。

静かすぎた。

「なぜだ」

「王立図書室へ本を返しに」

「図書室は塔とは反対方向だ」

「帰りに庭へ出ようと思いましたので」

「そのために塔の前を?」

「通りました」

「クラリス嬢には会ったか」

リディアは記憶を辿った。


「いいえ」

「本当に?」

その聞き方が気に入らなかった。

「殿下」

「何だ」

「私が嘘をついていると?」


エドガーは答えなかった。

その沈黙で十分だった。

十二年間の婚約者を見る。

彼は自分を疑っているのではない。

もう、犯人だと思っている。


「分かりました」

リディアは手紙を侍従へ返した。

「婚約破棄をお受けします」

エドガーが僅かに目を見開いた。

「ただし」

リディアは続けた。

「私がクラリス様を殺したという話は、受け入れられません」

「だが証拠が――」

「ですから」


リディアは微笑んだ。

「少し調べさせていただきます」

  

   *


人払いされた小部屋で、エドガーはリディアと向かい合った。

「それで」

「はい」

「クラリス嬢に何をした?」

やはり聞かれるらしい。


「食べました」

「何を」

「パイを」

沈黙。


「……何?」

「木苺のパイです」


エドガーはしばらくリディアを見ていた。

「なぜ」

「ほんのいたずら心で」

「クラリス嬢のものだと知っていた?」

「箱に名前がありました」

エドガーはしばらく黙った。


「それは、間違えて食べたとは言わないな」

「ええ」

「なぜ食べた」

「おいしそうだったので」

「……そうか」


一か月ほど前。

王妃主催の茶会の日だった。

クラリスは登城する途中、三週間前から予約していた菓子店へ寄り、木苺のパイを受け取ってきていた。

帰宅してから食べるつもりだったらしい。

リディアは王太子妃教育を終えたあと、クラリスの控室を訪ねた。

本人は席を外していた。

待っている間に箱を見つけた。

名前も見た。

そして食べた。

翌日、クラリスには散々文句を言われた。

それで終わったと思っていた。

「だから」


リディアは言った。

「日記や手紙があのパイについてなら、心当たりはあります」

「パイ一つで、あそこまで書くか?」

「それが分からないんです」

「他には?」

「ありません」

「本当に?」


まただ。

リディアはエドガーを見る。

「殿下」

「何だ」

「先ほどから、そのお訊き方はあまり好きではありません」

エドガーが黙る。


「私はクラリス様を殺しておりません」

「……分かった」

分かった。

信じる、ではない。

その違いくらいは分かった。


     *


翌朝。

オルブライト公爵は娘の話を聞き終えると、紅茶を飲んだ。

「それで?」

「それで、とは?」

「殿下を殴ったのか」

「殴ってません」

「なぜだ」

「王太子だからです」

「婚約破棄されたんだろう」

「だからって王太子ではなくなるわけじゃありません」

「面倒だな」

「国というものは大体そうです」

父は頷いた。

「で、何を調べる」

「クラリス様が亡くなる前後のことを」

「自分で?」

「そのつもりです」

「殺人犯扱いされている人間が王宮をうろつけると思うか?」

「……無理でしょうか?」

「無理だろう」

「では、お父様」

「断る」

「まだ何も言ってません」

「顔で分かる」

「親子ですね」

「残念ながらな」

結局、公爵は協力した。


     *


最初に調べたのは、クラリスの遺体だった。

遺体を確認したのは二人。


父であるハーデン侯爵。

そして兄のアルベルト。


塔から転落したため、顔は激しく損傷していた。

身につけていたドレス、首飾り、指輪は、すべてクラリスのもの。

体格も一致していた。

ハーデン侯爵が娘だと認め、アルベルトも妹だと確認した。

それ以上、疑う者はいなかった。


「妙ね」

リディアが言った。

父が書類から顔を上げる。

「何が」

「クラリス様には侍女がいたでしょう」

「三人」

「遺体を確認していないの?」

「家族が確認した後だからな」

「三人とも?」


父が別の紙を見る。

「いや」

「何?」

「一人は確認していない」

「どうして?」

「行方不明になっている」

リディアは顔を上げた。

「いつから?」

「クラリス嬢が死んだ日から」

「名前は?」

「エマ。十九歳」

「背丈は?」

父が娘を見る。

「調べるのか」

「お願いします」


その日の夕方。

答えが来た。

クラリスとエマの身長差は、指一本分ほど。

年齢も近い。

体格もよく似ていた。

リディアはしばらく黙った。

「お父様」

「何だ」

「クラリス様は、本当に死んだのかしら」


     *


三日後。

一人の男がオルブライト公爵邸を訪れた。


アルベルト・ハーデン。

クラリスの兄だった。


応接室へ通された彼は、挨拶もそこそこに言った。

「妹は生きています」


リディアは驚かなかった。

「やっぱり」

今度はアルベルトが驚いた。

「ご存じだったのですか」

「クラリス様が亡くなった日に、侍女が一人消えています」


アルベルトは黙った。

「塔から落ちたのは、エマですね?」


沈黙。

それが答えだった。

「なぜそんなことを?」

アルベルトはすぐには答えなかった。

やがて。


「妹は父の秘密を知りました」

「秘密?」

「父は長年、軍務費を横領しています」

リディアは父を見る。

公爵の表情が変わった。

「どの程度だ」

「私が把握しているだけで十五年です」

部屋の空気が変わった。


軍馬の購入費。

武具の修繕費。

国境砦への輸送費。


一件ごとの金額は小さい。

帳簿を何年にも分け、複数の費目へ紛れ込ませていた。

積み上げれば莫大な額になる。

「妹が気づいたのは一年前です」

アルベルトが続ける。

「父の書斎で帳簿を見つけました。最初は何かの間違いだと思ったそうです」

「違った」

「はい」

「侯爵は、クラリス様が気づいたことを?」

「察しました」

「殺されると思った?」

「私がそう判断しました」

だから妹を死んだことにした。

クラリスが死ねば、父親が追う理由もなくなる。

少なくともアルベルトは、そう考えた。

「妹は今、国外へ向かっています」

「エマは?」


アルベルトは答えなかった。

「事故ですか?」


それでも、口を開かなかった。

「アルベルト様」

「妹を守る必要がありました」

答えになっていない。


リディアは彼を見た。

だが今は、それ以上訊かなかった。

「それで、なぜ今になって私たちのところへ?」

アルベルトの顔が強張った。


「…父に気づかれました」

「クラリス様が生きていることを?」

「おそらく、死亡を確認した直後には」

リディアは眉を寄せた。


「それなら、なぜ黙っていたの?」

「妹を探しています。ただし表立ってではありません」

「追手を?」

「はい」

アルベルトは拳を握った。

「二日前、妹を逃がしている者の一人が襲われました。父は妹がどの道を使っているか、ほぼ突き止めています」

だから来た。

自分一人では守れなくなったから。


「でも妙ね」

リディアが言った。

「何がです?」

「侯爵はクラリス様が生きていると知っている。なのに、公には死んだことにしたまま」

父が口を開いた。

「死んでいた方が都合がいいんだろう」


リディアは父を見る。

公爵はアルベルトへ訊いた。

「ハーデン侯爵は、私が次の軍務監査へ入ることを知っているか」

「はい」

そこで。

リディアにも分かった。

娘が死んだ。

その娘は、王太子の婚約者であるリディアを強く恨んでいた。

リディア宛の未投函の手紙まである。

そして死亡当日、リディアは塔の近くにいた。

すべて本当。

一つも作る必要がない。


「私に殺人の疑いがかかれば」

リディアが言った。

「お父様にも影響する」

「公爵家の娘が殺人容疑者では、私が監査責任者になることに反対する者は出るだろうな」

アルベルトが頷いた。

「父は、それを狙っています」


リディアは背筋に寒いものを感じた。

侯爵は娘の死亡偽装を見破った。

だが暴かなかった。

娘が死んだことにしておけば、裏で始末できる。

同時に。

娘が偶然残していた日記と手紙を使って、邪魔な公爵家を失脚させられる。

一つの出来事を。

二つの目的に使った。

「浅いな」

「何が?」

「計画がだ。使えるものを見つけるたびに目的を増やしている」

それには同意した。

「日記は?」

リディアが訊いた。

「本物です」

「手紙も?」

「妹が書いたものです」

「『あなたを許さない』と」


アルベルトが一瞬、妙な顔をした。

リディアは見逃さなかった。

「何?」

「いえ」

「何です?」

「……それについては、本人に訊いてください」

リディアは眉を寄せた。

「クラリス様はどこ?」

「もう国境近くまで――」

「戻ってきてもらって」


アルベルトが目を見開いた。

「無理です。父の追手が――」

「だからこそです」

「何?」

「逃げ続けても、侯爵が失脚しない限り追手は止まりません」

アルベルトが黙った。

「それに」

リディアは続けた。


「私、殺人容疑がかかっているのですけど」

「しかし――」

「死んだ本人が出てくる以上に、分かりやすい無罪証明ありまして?」


アルベルトは言葉に詰まった。


     *


五日後。

王宮。

国王の前に、死んだはずのクラリス・ハーデンが立った。


エドガーは言葉を失っていた。

王妃も。

宰相も。

居並ぶ高官たちも。

ただ一人。

ハーデン侯爵だけは、娘を見てもほとんど表情を変えなかった。


「クラリス」

国王が訊く。

「リディア・オルブライトから危害を受けたことはあるか」

「ございません」

「脅されたことは?」

「ございません」

「では」

例の便箋が出された。

「これは?」

クラリスは見る。


「ああ」

少し嫌そうな顔をした。

「私が書きました」

エドガーが顔を上げる。

「では、やはりリディアを――」

「許してませんでした」


リディアはクラリスを見る。

クラリスも見る。

「何をされた?」

国王が訊いた。

クラリスは答えた。

「パイを食べられました」


国王が黙った。

王妃も。

宰相も。

エドガーも。

「……パイ?」


「木苺のパイです」

クラリスは真顔だった。

「三週間待って、ようやく予約できたんです」


リディアは少し目を逸らした。

「箱には私の名前まで書いてありました」

「見ました」

「なお悪いじゃありませんか」

「反省はしています」

「本当に?」

「少し」

「リディア様」

「ごめんなさい」


国王が額を押さえた。

「つまり、この手紙は」

「腹が立って書きました。でも一晩寝たら、さすがにパイ一つで大袈裟だと思って出しませんでした」

「日記の『絶対に許さない』という記述も?」

「パイです」


エドガーが椅子へ深く座った。

リディアは少しだけ気の毒になった。

少しだけ。


だが、そこで終わりではなかった。

クラリスが持ち出した帳簿。

アルベルトが保管していた写し。

そして、十五年間にわたる金の流れ。


国王の命で財務院が調査へ入った。

帳簿は巧妙だった。

だが調べる場所が分かっていれば、隠し通せるものではなかった。

軍馬の購入数と支払額。

存在しない武具の修繕。

実際には行われていない輸送。

一つずつ照合されていった。

ハーデン侯爵は最後まで否認した。

だが、証拠は十分だった。

爵位剥奪。

全財産没収。

終身幽閉。

十五年間築き上げたものが失われるまでには、それほど長い時間はかからなかった。


     *


数日後。

エドガーは王宮の庭へリディアを呼び出した。


「すまなかった」

「何について?」

「君を信じなかった」

リディアは首を振った。

「そこではありません」

「では?」

「証拠が揃っていたなら、私を疑うのは仕方ありません」

エドガーは意外そうな顔をした。

「いいのか?」

「疑うことは」

リディアは答えた。

「でも、一度も訊きませんでしたね」

エドガーは黙った。

「十二年です」

六歳から十八歳まで。

「十二年一緒にいた人間に、あなたは一度も『やったのか』と訊かなかった」


「……」

「最初から、私がやったものとして話を進めました」

「証拠が――」

「ええ。ありました」

だからこそ。


「訊けばよかったんです」

たった一言。

『お前がやったのか』

それだけでよかった。

「私は、やっていないと答えたでしょう」

「……ああ」

「それでも信じられなければ、調べればいい」

リディアは少し笑った。

「私はそうしました」

エドガーは何も言えなかった。


「婚約破棄を撤回したい」

「……今さら?」

「もう一度考えてくれないか」

「嫌です」

「少し考える時間を――」

「殿下は、私に考える時間をくださいましたか?」


エドガーは黙った。

「でしたら、おあいこです」

リディアは席を立ち、一礼した。

そのまま退出しようと扉へ向かったが、数歩進んだところで足を止め、殿下の方へ振り返った。

「ああ、殿下」


「…何だ」

「次に婚約なさる方が何か悪いことをしたら」

エドガーが嫌そうな顔をする。

「一応、本人にも訊いてあげてください」

「……分かった」

 

    *


クラリスが国外へ発つ日。

リディアは彼女を見送りに行った。


父の罪によってハーデン侯爵家は取り潰された。

王都に残る理由はない。


「お兄様とは一緒に行かないの?」

リディアが訊いた。

クラリスは即答した。

「まさか」

「どうして?」


クラリスは少し黙った。

「塔から落ちたエマ」

「ええ」

「あれは事故ではありません」

リディアはクラリスを見る。


「兄が殺しました」

風が吹いた。

庭の木々が揺れる。


「私を逃がすためとはいえ、私のドレスを着せた侍女を殺したんですよ」

クラリスの声は静かだった。

「簡単に人の命を奪うなんて、お父様そっくりじゃありませんか」


リディアは何も言えなかった。


父を告発した兄。

妹を救った兄。

それだけなら。

英雄に見えた。


「お兄様は?」

「自首しました」

「そう」

「私を守るためには仕方なかった、と言っていました」

クラリスは少し笑った。

「父も同じでした」

「何て?」

「家を守るためには仕方なかった、と」


しばらく二人とも黙っていた。

父は家を守った。

兄は妹を守った。

そのために。

別の誰かが犠牲になることを、仕方がないと決めた。


「…だから」

クラリスは言った。

「私は一人で行きます」

リディアは頷いた。

それ以上は訊かなかった。


クラリスは馬車へ向かいかけたが、途中で足を止め、リディアを見た。

「リディア様」


「何?」

「一つだけ」

「はい」

「パイのことは、まだ許してませんから」


リディアは目を瞬いた。

「……そこまで恨む?」

「三週間ですよ」

「ごめんなさい」

「今度会った時、同じものを買ってください」

「二つ買うわ」


クラリスは少し考えた。

「それなら許します」


そう言って馬車へ乗り込む。

扉が閉まる寸前、その口元がほんの少し緩んだように見えた。


馬車が走り出す。

リディアは、その姿が見えなくなるまで見送った。


人は。

一つの事実だけなら、簡単に善人にも悪人にもなる。

父を告発した兄。

妹を救った兄。

人を殺した兄。

すべて同じ人間だった。


そして自分も。

王太子に捨てられた令嬢。

殺人を疑われた令嬢。

無実だった令嬢。

他人のパイを、名前まで確認して食べた令嬢。


最後の一つだけは。

どうにも弁解できそうになかった。


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