私を殺人犯にした婚約破棄について、少し調べさせていただきます
「リディア・オルブライト公爵令嬢。君との婚約を、本日をもって破棄する」
王太子エドガーの声は、大広間の隅までよく通った。
楽団が演奏を止めた。
話していた者たちも口を閉じた。
百人近い視線が、一斉にリディアへ向く。
半年後には、この男と結婚するはずだった。
六歳で婚約して十二年。
十八歳になった今は週に三日、王宮へ通い、王妃から儀礼や外交、宮廷運営について学んでいる。
その十二年が終わるにしては、ずいぶん人の多い場所を選んだものだとリディアは思った。
「理由を伺っても?」
エドガーの顔が険しくなった。
「クラリス・ハーデン侯爵令嬢の件だ」
ざわめきが起きる。
三日前。
ハーデン侯爵令嬢クラリスが、王宮東棟の塔から転落して死亡した。
十八歳。
リディアと同い年だった。
「彼女の日記が見つかった」
エドガーが言った。
「君について書かれた箇所がある。『絶対に許さない』『顔を見るだけで腹が立つ』――そう記されている」
「私への?」
「ああ」
リディアは僅かに視線を逸らした。
エドガーは見逃さなかった。
「心当たりがあるようだな」
「……少し」
広間がざわつく。
「リディア」
「はい」
「何をした」
リディアは口を閉じた。
「リディア」
「今、ここで申し上げなければなりませんか」
「クラリス嬢が亡くなっている。そして日記には、君への強い怒りが残されている」
それはそうだ。
リディアは小さく息を吐いた。
「では、後ほどすべてお話しします」
「それだけではない」
エドガーが侍従へ目を向けた。
「彼女の部屋から、君宛の未投函の手紙も見つかっている」
一枚の便箋が運ばれてきた。
リディアは受け取った。
見覚えのある筆跡だった。
クラリスとは親友ではない。
だが、幼い頃から宮廷で顔を合わせてきた。互いに手紙を交わしたこともある。
間違いなく、彼女の字に見えた。
短い文章だった。
――あなたを許しません。
――あなたがしたことを、私は決して忘れないでしょう。
――次にお会いした時には、きちんとお話しさせていただきます。
署名。
クラリス・ハーデン。
「これにも心当たりが?」
「あります」
今度のざわめきは大きかった。
「何について書かれたものだ」
リディアは便箋を見つめた。
心当たりはある。
だが、本当にそのことなのか。
「分かりません」
「今、心当たりがあると言っただろう」
「私には、クラリス様に恨まれても仕方のないことをした覚えがあります。ですが、この手紙がその件について書かれたものなのかは分かりません」
「なぜだ」
「私はこの手紙を受け取っておりませんから」
当然だった。
未投函なのだから。
エドガーはしばらく黙った。
「では、後で聞こう」
「はい」
「そしてもう一つ」
まだあるらしい。
「クラリス嬢が転落した日の午後、君は東棟にいた」
「いました」
「塔へ向かう姿を見た者もいる」
「行きました」
今度は誰もざわめかなかった。
静かすぎた。
「なぜだ」
「王立図書室へ本を返しに」
「図書室は塔とは反対方向だ」
「帰りに庭へ出ようと思いましたので」
「そのために塔の前を?」
「通りました」
「クラリス嬢には会ったか」
リディアは記憶を辿った。
「いいえ」
「本当に?」
その聞き方が気に入らなかった。
「殿下」
「何だ」
「私が嘘をついていると?」
エドガーは答えなかった。
その沈黙で十分だった。
十二年間の婚約者を見る。
彼は自分を疑っているのではない。
もう、犯人だと思っている。
「分かりました」
リディアは手紙を侍従へ返した。
「婚約破棄をお受けします」
エドガーが僅かに目を見開いた。
「ただし」
リディアは続けた。
「私がクラリス様を殺したという話は、受け入れられません」
「だが証拠が――」
「ですから」
リディアは微笑んだ。
「少し調べさせていただきます」
*
人払いされた小部屋で、エドガーはリディアと向かい合った。
「それで」
「はい」
「クラリス嬢に何をした?」
やはり聞かれるらしい。
「食べました」
「何を」
「パイを」
沈黙。
「……何?」
「木苺のパイです」
エドガーはしばらくリディアを見ていた。
「なぜ」
「ほんのいたずら心で」
「クラリス嬢のものだと知っていた?」
「箱に名前がありました」
エドガーはしばらく黙った。
「それは、間違えて食べたとは言わないな」
「ええ」
「なぜ食べた」
「おいしそうだったので」
「……そうか」
一か月ほど前。
王妃主催の茶会の日だった。
クラリスは登城する途中、三週間前から予約していた菓子店へ寄り、木苺のパイを受け取ってきていた。
帰宅してから食べるつもりだったらしい。
リディアは王太子妃教育を終えたあと、クラリスの控室を訪ねた。
本人は席を外していた。
待っている間に箱を見つけた。
名前も見た。
そして食べた。
翌日、クラリスには散々文句を言われた。
それで終わったと思っていた。
「だから」
リディアは言った。
「日記や手紙があのパイについてなら、心当たりはあります」
「パイ一つで、あそこまで書くか?」
「それが分からないんです」
「他には?」
「ありません」
「本当に?」
まただ。
リディアはエドガーを見る。
「殿下」
「何だ」
「先ほどから、そのお訊き方はあまり好きではありません」
エドガーが黙る。
「私はクラリス様を殺しておりません」
「……分かった」
分かった。
信じる、ではない。
その違いくらいは分かった。
*
翌朝。
オルブライト公爵は娘の話を聞き終えると、紅茶を飲んだ。
「それで?」
「それで、とは?」
「殿下を殴ったのか」
「殴ってません」
「なぜだ」
「王太子だからです」
「婚約破棄されたんだろう」
「だからって王太子ではなくなるわけじゃありません」
「面倒だな」
「国というものは大体そうです」
父は頷いた。
「で、何を調べる」
「クラリス様が亡くなる前後のことを」
「自分で?」
「そのつもりです」
「殺人犯扱いされている人間が王宮をうろつけると思うか?」
「……無理でしょうか?」
「無理だろう」
「では、お父様」
「断る」
「まだ何も言ってません」
「顔で分かる」
「親子ですね」
「残念ながらな」
結局、公爵は協力した。
*
最初に調べたのは、クラリスの遺体だった。
遺体を確認したのは二人。
父であるハーデン侯爵。
そして兄のアルベルト。
塔から転落したため、顔は激しく損傷していた。
身につけていたドレス、首飾り、指輪は、すべてクラリスのもの。
体格も一致していた。
ハーデン侯爵が娘だと認め、アルベルトも妹だと確認した。
それ以上、疑う者はいなかった。
「妙ね」
リディアが言った。
父が書類から顔を上げる。
「何が」
「クラリス様には侍女がいたでしょう」
「三人」
「遺体を確認していないの?」
「家族が確認した後だからな」
「三人とも?」
父が別の紙を見る。
「いや」
「何?」
「一人は確認していない」
「どうして?」
「行方不明になっている」
リディアは顔を上げた。
「いつから?」
「クラリス嬢が死んだ日から」
「名前は?」
「エマ。十九歳」
「背丈は?」
父が娘を見る。
「調べるのか」
「お願いします」
その日の夕方。
答えが来た。
クラリスとエマの身長差は、指一本分ほど。
年齢も近い。
体格もよく似ていた。
リディアはしばらく黙った。
「お父様」
「何だ」
「クラリス様は、本当に死んだのかしら」
*
三日後。
一人の男がオルブライト公爵邸を訪れた。
アルベルト・ハーデン。
クラリスの兄だった。
応接室へ通された彼は、挨拶もそこそこに言った。
「妹は生きています」
リディアは驚かなかった。
「やっぱり」
今度はアルベルトが驚いた。
「ご存じだったのですか」
「クラリス様が亡くなった日に、侍女が一人消えています」
アルベルトは黙った。
「塔から落ちたのは、エマですね?」
沈黙。
それが答えだった。
「なぜそんなことを?」
アルベルトはすぐには答えなかった。
やがて。
「妹は父の秘密を知りました」
「秘密?」
「父は長年、軍務費を横領しています」
リディアは父を見る。
公爵の表情が変わった。
「どの程度だ」
「私が把握しているだけで十五年です」
部屋の空気が変わった。
軍馬の購入費。
武具の修繕費。
国境砦への輸送費。
一件ごとの金額は小さい。
帳簿を何年にも分け、複数の費目へ紛れ込ませていた。
積み上げれば莫大な額になる。
「妹が気づいたのは一年前です」
アルベルトが続ける。
「父の書斎で帳簿を見つけました。最初は何かの間違いだと思ったそうです」
「違った」
「はい」
「侯爵は、クラリス様が気づいたことを?」
「察しました」
「殺されると思った?」
「私がそう判断しました」
だから妹を死んだことにした。
クラリスが死ねば、父親が追う理由もなくなる。
少なくともアルベルトは、そう考えた。
「妹は今、国外へ向かっています」
「エマは?」
アルベルトは答えなかった。
「事故ですか?」
それでも、口を開かなかった。
「アルベルト様」
「妹を守る必要がありました」
答えになっていない。
リディアは彼を見た。
だが今は、それ以上訊かなかった。
「それで、なぜ今になって私たちのところへ?」
アルベルトの顔が強張った。
「…父に気づかれました」
「クラリス様が生きていることを?」
「おそらく、死亡を確認した直後には」
リディアは眉を寄せた。
「それなら、なぜ黙っていたの?」
「妹を探しています。ただし表立ってではありません」
「追手を?」
「はい」
アルベルトは拳を握った。
「二日前、妹を逃がしている者の一人が襲われました。父は妹がどの道を使っているか、ほぼ突き止めています」
だから来た。
自分一人では守れなくなったから。
「でも妙ね」
リディアが言った。
「何がです?」
「侯爵はクラリス様が生きていると知っている。なのに、公には死んだことにしたまま」
父が口を開いた。
「死んでいた方が都合がいいんだろう」
リディアは父を見る。
公爵はアルベルトへ訊いた。
「ハーデン侯爵は、私が次の軍務監査へ入ることを知っているか」
「はい」
そこで。
リディアにも分かった。
娘が死んだ。
その娘は、王太子の婚約者であるリディアを強く恨んでいた。
リディア宛の未投函の手紙まである。
そして死亡当日、リディアは塔の近くにいた。
すべて本当。
一つも作る必要がない。
「私に殺人の疑いがかかれば」
リディアが言った。
「お父様にも影響する」
「公爵家の娘が殺人容疑者では、私が監査責任者になることに反対する者は出るだろうな」
アルベルトが頷いた。
「父は、それを狙っています」
リディアは背筋に寒いものを感じた。
侯爵は娘の死亡偽装を見破った。
だが暴かなかった。
娘が死んだことにしておけば、裏で始末できる。
同時に。
娘が偶然残していた日記と手紙を使って、邪魔な公爵家を失脚させられる。
一つの出来事を。
二つの目的に使った。
「浅いな」
「何が?」
「計画がだ。使えるものを見つけるたびに目的を増やしている」
それには同意した。
「日記は?」
リディアが訊いた。
「本物です」
「手紙も?」
「妹が書いたものです」
「『あなたを許さない』と」
アルベルトが一瞬、妙な顔をした。
リディアは見逃さなかった。
「何?」
「いえ」
「何です?」
「……それについては、本人に訊いてください」
リディアは眉を寄せた。
「クラリス様はどこ?」
「もう国境近くまで――」
「戻ってきてもらって」
アルベルトが目を見開いた。
「無理です。父の追手が――」
「だからこそです」
「何?」
「逃げ続けても、侯爵が失脚しない限り追手は止まりません」
アルベルトが黙った。
「それに」
リディアは続けた。
「私、殺人容疑がかかっているのですけど」
「しかし――」
「死んだ本人が出てくる以上に、分かりやすい無罪証明ありまして?」
アルベルトは言葉に詰まった。
*
五日後。
王宮。
国王の前に、死んだはずのクラリス・ハーデンが立った。
エドガーは言葉を失っていた。
王妃も。
宰相も。
居並ぶ高官たちも。
ただ一人。
ハーデン侯爵だけは、娘を見てもほとんど表情を変えなかった。
「クラリス」
国王が訊く。
「リディア・オルブライトから危害を受けたことはあるか」
「ございません」
「脅されたことは?」
「ございません」
「では」
例の便箋が出された。
「これは?」
クラリスは見る。
「ああ」
少し嫌そうな顔をした。
「私が書きました」
エドガーが顔を上げる。
「では、やはりリディアを――」
「許してませんでした」
リディアはクラリスを見る。
クラリスも見る。
「何をされた?」
国王が訊いた。
クラリスは答えた。
「パイを食べられました」
国王が黙った。
王妃も。
宰相も。
エドガーも。
「……パイ?」
「木苺のパイです」
クラリスは真顔だった。
「三週間待って、ようやく予約できたんです」
リディアは少し目を逸らした。
「箱には私の名前まで書いてありました」
「見ました」
「なお悪いじゃありませんか」
「反省はしています」
「本当に?」
「少し」
「リディア様」
「ごめんなさい」
国王が額を押さえた。
「つまり、この手紙は」
「腹が立って書きました。でも一晩寝たら、さすがにパイ一つで大袈裟だと思って出しませんでした」
「日記の『絶対に許さない』という記述も?」
「パイです」
エドガーが椅子へ深く座った。
リディアは少しだけ気の毒になった。
少しだけ。
だが、そこで終わりではなかった。
クラリスが持ち出した帳簿。
アルベルトが保管していた写し。
そして、十五年間にわたる金の流れ。
国王の命で財務院が調査へ入った。
帳簿は巧妙だった。
だが調べる場所が分かっていれば、隠し通せるものではなかった。
軍馬の購入数と支払額。
存在しない武具の修繕。
実際には行われていない輸送。
一つずつ照合されていった。
ハーデン侯爵は最後まで否認した。
だが、証拠は十分だった。
爵位剥奪。
全財産没収。
終身幽閉。
十五年間築き上げたものが失われるまでには、それほど長い時間はかからなかった。
*
数日後。
エドガーは王宮の庭へリディアを呼び出した。
「すまなかった」
「何について?」
「君を信じなかった」
リディアは首を振った。
「そこではありません」
「では?」
「証拠が揃っていたなら、私を疑うのは仕方ありません」
エドガーは意外そうな顔をした。
「いいのか?」
「疑うことは」
リディアは答えた。
「でも、一度も訊きませんでしたね」
エドガーは黙った。
「十二年です」
六歳から十八歳まで。
「十二年一緒にいた人間に、あなたは一度も『やったのか』と訊かなかった」
「……」
「最初から、私がやったものとして話を進めました」
「証拠が――」
「ええ。ありました」
だからこそ。
「訊けばよかったんです」
たった一言。
『お前がやったのか』
それだけでよかった。
「私は、やっていないと答えたでしょう」
「……ああ」
「それでも信じられなければ、調べればいい」
リディアは少し笑った。
「私はそうしました」
エドガーは何も言えなかった。
「婚約破棄を撤回したい」
「……今さら?」
「もう一度考えてくれないか」
「嫌です」
「少し考える時間を――」
「殿下は、私に考える時間をくださいましたか?」
エドガーは黙った。
「でしたら、おあいこです」
リディアは席を立ち、一礼した。
そのまま退出しようと扉へ向かったが、数歩進んだところで足を止め、殿下の方へ振り返った。
「ああ、殿下」
「…何だ」
「次に婚約なさる方が何か悪いことをしたら」
エドガーが嫌そうな顔をする。
「一応、本人にも訊いてあげてください」
「……分かった」
*
クラリスが国外へ発つ日。
リディアは彼女を見送りに行った。
父の罪によってハーデン侯爵家は取り潰された。
王都に残る理由はない。
「お兄様とは一緒に行かないの?」
リディアが訊いた。
クラリスは即答した。
「まさか」
「どうして?」
クラリスは少し黙った。
「塔から落ちたエマ」
「ええ」
「あれは事故ではありません」
リディアはクラリスを見る。
「兄が殺しました」
風が吹いた。
庭の木々が揺れる。
「私を逃がすためとはいえ、私のドレスを着せた侍女を殺したんですよ」
クラリスの声は静かだった。
「簡単に人の命を奪うなんて、お父様そっくりじゃありませんか」
リディアは何も言えなかった。
父を告発した兄。
妹を救った兄。
それだけなら。
英雄に見えた。
「お兄様は?」
「自首しました」
「そう」
「私を守るためには仕方なかった、と言っていました」
クラリスは少し笑った。
「父も同じでした」
「何て?」
「家を守るためには仕方なかった、と」
しばらく二人とも黙っていた。
父は家を守った。
兄は妹を守った。
そのために。
別の誰かが犠牲になることを、仕方がないと決めた。
「…だから」
クラリスは言った。
「私は一人で行きます」
リディアは頷いた。
それ以上は訊かなかった。
クラリスは馬車へ向かいかけたが、途中で足を止め、リディアを見た。
「リディア様」
「何?」
「一つだけ」
「はい」
「パイのことは、まだ許してませんから」
リディアは目を瞬いた。
「……そこまで恨む?」
「三週間ですよ」
「ごめんなさい」
「今度会った時、同じものを買ってください」
「二つ買うわ」
クラリスは少し考えた。
「それなら許します」
そう言って馬車へ乗り込む。
扉が閉まる寸前、その口元がほんの少し緩んだように見えた。
馬車が走り出す。
リディアは、その姿が見えなくなるまで見送った。
人は。
一つの事実だけなら、簡単に善人にも悪人にもなる。
父を告発した兄。
妹を救った兄。
人を殺した兄。
すべて同じ人間だった。
そして自分も。
王太子に捨てられた令嬢。
殺人を疑われた令嬢。
無実だった令嬢。
他人のパイを、名前まで確認して食べた令嬢。
最後の一つだけは。
どうにも弁解できそうになかった。




