王子の秘密の恋を守った皆様へ、後始末も皆様でどうぞ
王太子アルフレッドが壇上へリリア・ベルナール男爵令嬢を伴った瞬間、エレノア・グランフェルトは、今夜の発表が約束どおりには行われないと悟った。
王太子の二十一歳を祝う広間には、国内の高位貴族だけでなく、春の大夜会に先立って王都入りした外国使節の姿もある。その全員が、アルフレッドの隣に立つ桃色のドレスの令嬢を見つめていた。
「皆に伝えたいことがある」
アルフレッドの声に、楽団の演奏が止まる。
「私はこれまで、王太子として求められる役目を果たすため、自分の心を抑えてきた。だが、人の心まで身分や慣習で縛ることが、本当に正しいとは思えない」
隣で、リリアが胸元に両手を重ねた。
緊張しているのだろう。小さく震える指先を、アルフレッドが励ますように包み込む。
「私は、リリア・ベルナール嬢を愛している」
広間がざわめいた。
驚きの声を上げる者もいれば、事情を知っていたらしく、意味ありげにうなずく者もいる。
エレノアに驚きはなかった。
アルフレッドとリリアの関係は、二年前から知っている。
婚約を解消することも、王家とグランフェルト公爵家の間ですでに合意していた。
アルフレッドがリリアを選ぶなら、エレノアは身を引く。父にも、そう伝えてある。
ただし、公表までには整えなければならないことがあった。
リリアを次の王太子妃候補として審議にかける手順。王家と公爵家の共同事業の整理。三週間後に迫る春の大夜会の変更。エレノア自身の名誉を傷つけない発表の仕方。
そのため、アルフレッドは今夜の夜会より前にエレノアと会い、公表の時期と内容を直接伝えると約束していた。
しかし、その面会はなかった。
発表は春の大夜会よりあとにするものと、エレノアは考えていた。少なくとも、今日ではない。
「リリアとの関係を公にするにあたり、エレノア・グランフェルト嬢との婚約は、両家の合意に基づき解消される」
そこまでは事実だった。
問題は、その先である。
「長い間、真実を明かせなかったことを申し訳なく思う。誰かを傷つけることを恐れ、私たちは自分の気持ちを隠してきた。だが、これ以上、自分の心に嘘はつけない」
アルフレッドの視線がエレノアへ向けられた。
誰か。
彼は名指ししなかった。
それでも、招待客の目は一斉にエレノアへ集まった。
まるでエレノアが傷つくから、二人は長く引き裂かれていたかのようだった。
「エレノア様」
リリアが涙を浮かべて呼びかける。
「本当に申し訳ありません。エレノア様を苦しめたくなくて、私たちはずっと耐えてきたのです」
王妃クラウディアの眉が、わずかに動いた。
王妃も婚約解消には同意していたが、このような美談に仕立てるとは聞いていなかったらしい。
けれど、もう止めるには遅い。
「殿下のお気持ちを、我々は以前から存じておりました」
王太子の側近、ジェラルドが声を上げた。
「リリア嬢との誠実な恋を貫かれたご決断、心より支持いたします」
彼が拍手すると、二人の関係を知っていた者たちが続いた。
「ようやく、この日を迎えられましたね」
「お二人がどれほど苦しまれていたか、私どもは存じております」
「どうか、今度こそお幸せに」
祝福の拍手が広がっていく。
二人が耐えていた二年間。
アルフレッドがリリアと会うため公務の日程を変えるたび、関係者へ頭を下げたのはエレノアだった。
リリアが社交界で孤立しないよう、自分の友人として夜会へ招いた。
王太子から直接贈り物を受け取ったと知られないよう、公爵家の名で職人へ依頼した。
二人だけの逢瀬が醜聞にならないよう、信頼できる既婚婦人を付き添わせた。
けれど壇上の二人にとって、それらはすべて、自分たちが耐え抜いた恋の背景にすぎないのだろう。
アルフレッドはエレノアを見つめていた。
拒絶されるとは思っていない顔だった。
実際、エレノアは婚約解消を拒むつもりなどなかった。
ただ、約束を破られた。
そのうえ、大勢の前で二人の恋を阻んでいた存在に仕立てられた。
それが、エレノアの知らなかった婚約解消だった。
エレノアは一歩前へ出た。
広間が静まる。
「王太子殿下のお申し出、確かに承りました」
貴族令嬢として申し分のない礼をすると、アルフレッドの肩から力が抜けた。
「エレノア。君ならば理解してくれると思っていた。私たちは立場こそ変わるが、これからも――」
「それでは」
エレノアは顔を上げた。
「私が殿下の婚約者としてお預かりしていた役目も、すべてお返しいたします」
「役目?」
「引き継ぎは整えてございます。明朝、王宮へお届けいたします」
アルフレッドは意味を測りかねるように眉を寄せた。
エレノアはその答えを待たず、リリアへも一礼する。
「お二人の選ばれた未来が、実り多きものとなりますようお祈り申し上げます」
彼女は王妃にも礼をし、広間をあとにした。
誰も引き止めなかった。
今夜の主役は、真実の愛を貫いた二人だった。
馬車へ乗り込むと、エレノアは長い息を吐いた。
向かいに座った侍女が、膝の上で握りしめられた彼女の手を見る。
「お嬢様」
「大丈夫よ」
エレノアはそう答えたが、すぐに苦笑した。
「いいえ。今夜くらいは、大丈夫でなくても構わないわね」
婚約が解消されることは、悲しくなかった。
それでも七年間、未来の王太子妃として務めてきた。最後には、一人の人間として誠実に向き合ってもらえると思っていた。
その期待だけが、今夜、静かに終わった。
◆
翌朝、王太子宮へ四冊の帳面と三つの書類箱が届けられた。
婚約解消は以前から決まっていたため、引き継ぎそのものはすでに整えられている。
ただし、エレノアは春の大夜会が終わるまで、王家と公爵家の移行を手伝う予定だった。リリアが表へ出る準備も、混乱が起きないように引き受けていた。
その協力を、今朝をもって終了したのである。
「これが、すべてか?」
執務机に並べられた帳面を見て、アルフレッドが尋ねる。
「いえ」
側近のジェラルドが、書類箱の蓋を開ける。
「大夜会の席順案、各国使節への応対、リリア嬢の衣装と教育、王太子妃側の女官候補、公爵家が負担する予定だった費用……まだございます」
「費用?」
アルフレッドが振り返る。
王室財務官は表情を変えず、一枚の明細を差し出した。
「今回の大夜会は、殿下とグランフェルト公爵令嬢の婚約を国内外へ示す場でもございました。そのため公爵家から、祝賀費用の一部を負担するとの申し出があったのです」
「婚約を解消したから、取り下げたのか」
「当然かと」
財務官の返答には一片の迷いもない。
「不足分は王室費で出せるのだろう?」
「出せなくはございません。ただし、すでに今年の予算は定められております。殿下の狩猟館の改修、夏の離宮滞在、誕生日祝賀の追加支出などを見送る必要がございます」
「私の予定ばかりではないか」
「公爵家の負担を見込んで規模を広げるよう求められたのは、殿下ですので」
アルフレッドは口を閉じた。
別の帳面を開いたジェラルドが、小さく息をのむ。
「こちらは、招待客の調整です」
「招待状は、すでに送っているはずだ」
「はい。ですが昨夜の発表を受け、出席の返事を保留したいという連絡が相次いでおります」
「なぜだ?」
「春の大夜会で、リリア嬢がどの立場に置かれるのか分からないためです。婚約解消は合意済みでも、リリア嬢を王太子妃候補として認める審議は、まだ始まっておりません」
昨夜、アルフレッドはリリアを愛していると公表した。
しかし、王太子が愛を告白しただけで、リリアが王太子妃になるわけではない。
「ならば、これから急いで審議すればよい」
「外国使節を前に立たせるには、身分と席次を先に決める必要がございます。三週間では難しいかと」
「今までは、エレノアが調整していたのだろう?」
「公爵家の令嬢として各家へ根回しをし、王家へ意向を伝えておられました。ですが、その立場は昨夜失われました」
アルフレッドは苛立ったように机を指で叩いた。
「エレノアは、何と言っている?」
「すでに合意した内容と必要な記録は、すべて王宮へ返却した。追加の質問には書面で回答するが、それ以降の交渉には関与しない、と」
「春の大夜会まで、あと三週間だぞ」
「はい」
「この時期に手を引くなど、あまりに――」
「無責任とは、申せませんわね」
入室してきた王妃クラウディアが、息子の言葉を止めた。
その後ろには侍従長と女官長が続いている。二人とも書類を抱えていた。
「エレノア嬢は、済ませた仕事を一つも取り消していません。すべて王宮へ引き渡しています」
「では母上は、これをお認めになるのですか」
「認めるも何も、婚約者でなくなった令嬢に、王太子妃の務めを続けよとは命じられません」
王妃は一番上の封書を手に取った。
宛名には、王太子の秘密の恋を守った者たちへ、とある。
お二人の恋は無事に公となり、多くの方から祝福が寄せられました。
私が婚約者としてお預かりしていた役目は、本日をもって、それぞれ本来のご担当者へお返しいたします。
お二人の未来のため、これまでと変わらぬお力添えをお願い申し上げます。
王子の秘密の恋を守った皆様へ、後始末も皆様でどうぞ。
読み終えた王妃は、目を伏せた。
怒っているのか、呆れているのか、表情からは読み取れない。
「ずいぶんと棘のある書き方だな」
アルフレッドが呟く。
「昨夜の発表よりは、よほど穏やかでしょう」
王妃の返答に、息子の顔が強張った。
◆
最初に行き先を失ったのは、リリアのドレスだった。
春の大夜会で着る予定だった純白の一着は、すでに仮縫いを終えていた。銀糸で春の花が刺繍され、裾には小粒の真珠が並んでいる。あとは胸元の調整と、ビーズの最終的な縫い付けを残すのみだった。
リリアも二度、工房で試着している。
けれど、そのドレスが王宮へ届くことはなかった。
「何か手違いがあったのではありませんか?」
代わりの衣装を見せられたリリアは、不安そうに女官長へ尋ねた。
「白いドレスは、もうすぐ完成すると聞いていました」
「工房から、公爵家へ返されたそうです」
「なぜ公爵家へ?」
「注文主がグランフェルト公爵令嬢だからです」
「でも、あれはアルフレッド様から私への贈り物で……」
「正式に贈られた記録はございません。代金も公爵家が負担しております。完成前ですので、所有者は注文主のままです」
リリアは何度か瞬きをした。
言葉の意味を飲み込めていない様子だった。
「でしたら、改めて王宮から注文してください。あと少しで完成するのですから、すぐに受け取れますよね?」
「同じドレスを、ということですか?」
「はい」
「工房は向こう一年、予約で埋まっております。エレノア様の依頼だからこそ、今回の大夜会に間に合わせたとのことです」
「そんな……」
「王宮付きの職人が、別の衣装を仕立てております。大夜会には間に合わせますので、ご安心ください」
用意された銀色のドレスも、男爵令嬢が個人で所有するには十分すぎるほど高価だった。
けれど、リリアの目には、白いドレスより簡素に映った。
アルフレッドが自分のために選んでくれたと思っていた一着が、最初から彼のものではなかったという事実の方が、ドレスそのものよりも重かった。
翌日には、教師も来なかった。
王族の儀礼を教えていた老婦人も、外国語を教えていた学者も、舞踏の教師も、何の連絡もないまま姿を見せなくなった。
三日目、リリアは待ちきれずに王妃付きの女官を呼んだ。
「先生方に、明日は必ず来てくださいと伝えていただけますか?」
「先生方と王宮との間に、契約はございません」
「では、誰がお願いしていたのですか?」
「エレノア様です」
リリアの顔に浮かんだのは、怒りではない。
純粋な戸惑いだった。
「どうしてエレノア様が?」
女官は答えなかった。
リリアは、アルフレッドへ尋ねた。
しかし、アルフレッドも詳しいことを知らない。
「私がエレノアに頼んだのだ。君が困らないよう、よい教師を用意してほしいと」
「では、先生方はアルフレッド様が雇ってくださったのですよね?」
「そうだと思っていたのだが……」
アルフレッドはジェラルドを呼んだ。
ジェラルドは王太子宮の支出を調べたが、教師への支払いは一度も見つからなかった。
「エレノア様のところへ伺います」
リリアは立ち上がった。
「何か引き継ぎに手違いがあったのだと思います。きちんとお願いすれば、先生方もドレスも戻していただけるはずです」
アルフレッドは止めなかった。
彼も心のどこかで、同じことを期待していた。
◆
エレノアは公爵家の温室で、領地から届いた報告を読んでいた。
婚約者として王宮へ通う必要がなくなり、朝から自分の仕事だけに集中できたのは七年ぶりだった。
目覚めて最初に、アルフレッドの予定を確認しなくてよい。
急な変更がないか、王太子宮からの使者を待たなくてよい。
ただそれだけで、午前の時間は思っていたより長かった。
「お嬢様。ベルナール男爵令嬢がお見えです」
侍女の知らせに、エレノアは報告を閉じた。
「お通しして」
ほどなく現れたリリアは、挨拶を終えるより先に口を開いた。
「エレノア様。お尋ねしたいことがあるのです」
「どうぞ、お座りください」
「なぜか先生方が来なくなって、ドレスも王宮へ届かないのです。引き継ぎに何か手違いがあったのでしょうか?」
責める声ではなかった。
本当に、エレノアが手違いを直してくれると思っているらしい。
「手違いではございません」
エレノアは侍女に合図した。
用意されていた薄い書類入れが、二人の間に置かれる。
エレノアはその中から、一枚の短い覚え書きを取り出した。
「これは、アルフレッド殿下から私へ届いたものです」
リリアは身を乗り出した。
そこには王太子の筆跡で、簡単な依頼だけが記されていた。
リリアに、春の大夜会で最も美しく見えるドレスを用意してほしい。
職人の名も、意匠も、予算も、納期もない。
エレノアは、次に工房との契約書を置いた。
注文主はエレノア・グランフェルト。
使用する生地と銀糸。真珠の数。仮縫いの日程。仕立て代。急な注文を受けてもらうために加算された費用。
すべてに公爵家の名がある。
「こちらは工房からの返答です。注文主の変更には応じられないため、いったん契約を終了し、仕立てかけのドレスは公爵家へ戻すと記されております」
「でも……あのドレスは、私のために作ったものです」
「はい」
「でしたら、私のものではないのですか?」
「贈られる前でございますから」
エレノアは声を荒らげなかった。
リリアは工房との契約書を取り上げると、代金の欄を見た。
表情が凍りつく。
男爵家の一年分の衣装費を軽く超える金額だった。
「こんなに……?」
エレノアは答えず、教師との契約を差し出した。
そこにもまた、公爵家の名と印が並んでいる。
「先生方も、エレノア様がお雇いになっていたのですか」
「殿下から、あなたが社交界で困らないようにしてほしいと頼まれましたので」
「費用は……」
「こちらに」
リリアの指先が震えた。
アルフレッドが何かを望み、エレノアに一言頼む。
その一言を形にするため、エレノアが人を選び、日程を整え、費用を支払っていた。
リリアが王太子から与えられたと思っていたものの奥に、いつもエレノアの名があった。
「私は、何も知りませんでした」
「そうでしょうね」
「アルフレッド様が、すべて用意してくださったのだと思っていました」
エレノアは、王太子の覚え書きを見た。
「殿下は、用意するようにと私へ頼まれました」
それ以上は説明しなかった。
リリアにも、もう十分分かったはずだった。
「エレノア様」
リリアは青ざめた顔を上げた。
「もう一度、先生方にお願いしていただけませんか? ドレスも、せめて大夜会が終わるまで貸していただければ……」
「どなたのお名前で、お願いするのでしょう」
「どなたの……?」
「私はもう、王太子殿下の婚約者ではございません。あなたを支援する理由を、先生方や工房へ何と説明すればよろしいのですか?」
「アルフレッド様のため、と」
「でしたら、殿下から王妃陛下へお願いなさってください」
エレノアは書類を戻した。
「私を間に置く必要はございません」
「でも、大夜会まで三週間しかないのです。今から知らない先生に替わったら、間に合いません」
「日程を決められたのは、殿下です」
「私が失敗したら、殿下まで笑われてしまいます」
「そうかもしれません」
「それでも、助けてくださらないのですか?」
リリアの瞳に涙が浮かぶ。
エレノアは、その涙から目をそらさなかった。
「リリア様。私はこれまで、あなたが失敗しないようにしてきました」
エレノアは、机の上にある一枚の覚え書きへ指先を置いた。
「けれど、私が何もかも整えている間に、あなたは誰が用意したものかさえ知らないまま、殿下から受け取っておられた」
リリアが唇を噛む。
「これ以上、同じことを続けるのは、あなたのためにもならないでしょう」
「では、私はどうすればよいのですか」
「王妃陛下にお尋ねください」
それは突き放す言葉だった。
同時に、本来あるべき場所へ返す言葉でもあった。
リリアは契約書から手を離し、立ち上がった。
「エレノア様は、私をお嫌いなのですね」
「いいえ」
エレノアは即座に否定した。
「好き嫌いでお断りしているのではありません」
その答えの方が、リリアには冷たく聞こえたのかもしれない。
彼女は泣きそうな顔のまま礼をし、温室を出ていった。
侍女が扉の閉まる音を聞いてから、エレノアへ尋ねる。
「よろしかったのですか?」
「ええ」
エレノアは王太子の覚え書きを書類入れへ戻した。
「泣いている方の望みをかなえることだけが、親切とは限らないもの」
◆
リリアが泣いて戻った翌日、アルフレッドは公爵家を訪れた。
応接室へ案内されると、挨拶もそこそこに本題へ入る。
「大夜会まで、リリアを支えてほしい」
「お断りいたします」
「まだ何も説明していない」
「昨日、リリア様から伺いました」
「君が怒っていることは分かっている。だが今は、互いの感情を優先している場合ではないだろう」
「感情を優先して、予定より早く関係を公表なさったのは殿下です」
「いつまでも準備を待っていれば、何も変わらないと思ったのだ」
「公表なさる前に、私へ知らせるという約束は?」
アルフレッドの声が止まった。
「君に話せば、反対されるかもしれないと……」
「私は、婚約解消に同意しておりました」
「それでも、発表は春の大夜会よりあとにすべきだと言っただろう」
「必要な審議と引き継ぎを済ませるためです。実際、今お困りではありませんか?」
アルフレッドは顔をしかめた。
「だからこそ、君に協力を求めている。私たちのためだけではない。王家の信用と、この国のためだ」
「王命であれば、従います」
エレノアは静かに答えた。
「ただし、リリア様のドレスの裾や舞踏の稽古まで、国事とは申せません」
「そんな言い方をしなくてもよいだろう」
「では、どのように申し上げればよろしいのでしょう」
アルフレッドは答えられない。
エレノアは傍らに置いていた帳面を差し出した。
「王宮へお渡ししたものの控えです」
「私は、引き継ぎを読みに来たのではない」
「お読みください」
穏やかな声だったが、拒否を許さなかった。
アルフレッドは渋々、帳面を開いた。
一つ目の日付には、王太子が晩餐会を欠席するため、グランフェルト公爵家が外国使節を迎えるとある。
その隣には、アルフレッドから届いた短い依頼が挟まれていた。
今夜、リリアに会いたい。あとのことを頼む。
次の頁には、王太子の名で贈る首飾りの手配。
添えられた伝言は一行だけだった。
彼女に似合うものを選んでほしい。
さらに頁をめくる。
離宮の使用。付き添いの手配。急な予定変更への詫び。夜会への招待。リリアの教育。
どれも、アルフレッドが覚えているよりはるかに多くの者を動かしていた。
「私は、ここまで頼んでいたのか」
「殿下が直接頼まれたものだけではございません。ジェラルド様や王妃陛下から届いた依頼もございます」
「なぜ、そのたびに言わなかった?」
エレノアは、アルフレッドを見た。
「申し上げました」
「聞いた覚えがない」
「殿下がお聞きになったのは、リリア様と会えるかどうかだけでしたから」
アルフレッドの指が止まる。
その日のことを思い出したらしい。
外国使節との晩餐会を抜けたいと告げたとき、エレノアは日程変更には多くの者の了承が必要だと説明した。
アルフレッドは途中で遮り、「では、会えるのか」と尋ねた。
エレノアが「調整いたします」と答えると、それで話は終わった。
「君は、私たちの恋を妨げていたのではなかったのだな」
ようやく出た言葉は、あまりに遅かった。
「一度も」
「ならば、なぜ昨夜、何も言わなかった」
「何を申し上げればよかったのでしょう。皆様が称賛なさっている中で、私がどれだけ苦労したかを並べればよろしかったのですか?」
「そういう意味ではない」
「殿下がご自分で選ばれた形です」
エレノアは帳面を閉じた。
「私との婚約を終わらせながら、私にだけ婚約者の務めを続けよとはお命じになれません」
「命じているのではない。頼んでいる」
「お断りしたはずです」
「大夜会まででよい」
「殿下」
エレノアはまっすぐ彼を見る。
「殿下が終わらせた婚約の続きを、私にだけ務めよと仰っているのですよ」
アルフレッドは息をのみ、黙り込んだ。
しばらくして、かすれた声で尋ねる。
「君は、私を恨んでいるのか」
「もう、殿下の選択に私が責任を持たないだけです」
それ以上、エレノアは答えなかった。
◆
春の大夜会は、半年後へ延期された。
王太子が選んだ女性を国内外へ紹介する以上、三週間で形だけを整えるわけにはいかない。外国使節と高位貴族には、アルフレッド自身の名で日程変更を詫びることになった。
王妃クラウディアは、王太子宮の会議室へ関係者を集めた。
長い机には、エレノアから返却された帳面と書類が並んでいる。
「不足する費用は王室費から補います」
王妃は財務官の作成した案を開いた。
「そのため、アルフレッドの狩猟館改修は中止。夏の離宮滞在と、今後三年間の個人的な祝宴費も削減します」
「三年間ですか?」
アルフレッドの顔が引きつる。
「公爵家からの援助がなくなった分を補うには、それでも足りません」
「しかし、大夜会は王家の行事です」
「ええ。ですから、国庫ではなく王室費から支出します。あなたの都合で生じた変更を、民の負担にはできません」
王妃は次に、ベルナール男爵へ視線を向けた。
「男爵家には、家格に応じた持参金と、リリア嬢個人の婚礼支度を負担していただきます。国家行事の費用まで求めるつもりはございません」
男爵は青い顔で頭を下げる。
それでも、当初考えていたよりはるかに大きな負担になる。王太子がすべて用意してくれると期待していたのは、リリアだけではなかったらしい。
「次に、人員です」
王妃は一冊目の帳面を自分の前へ引き寄せた。
「リリア嬢の教育について、エレノア嬢へ協力を頼んだのは私です。今後は、私が監督します」
そこで初めて、王妃の名も帳面に残されていると皆が気づいた。
クラウディアは言い逃れをしなかった。
「女官長。新たな教師を選びなさい。ただし、リリア嬢が途中で泣いても、内容を軽くしてはなりません」
「承知いたしました」
王妃は別の資料を、ジェラルドの前へ置いた。
「招待客と各国使節の調整は、ジェラルド。あなたが担当なさい」
「私が、でございますか?」
「あなたは王太子の最側近です。昨夜も、殿下の決断を支持すると公言していましたね」
「私は、お二人のお気持ちを支持したのであって、式典の調整までお引き受けしたわけでは――」
「では、王太子の選択に伴う仕事は支えられないと?」
「そのような意味ではございません。ただ、私は式典については専門外です」
「専門の者を使いなさい。それができないのであれば、側近の地位を返上して構いません」
王妃の声音は静かだった。
ジェラルドの顔から色が消える。
「……承知いたしました」
「リリア嬢の夜会での付き添いは、これまでお二人の逢瀬に協力していた女官たちへ命じます」
一人の女官が思わず顔を上げた。
「ですが、王太子妃候補のお付き添いなど、私には責任が重すぎます」
「離宮へリリア嬢をお連れする役目は引き受けられても、公の場で支える責任は負えないのですか?」
「それは、殿下から秘密にするよう命じられていたため……」
「命令に従っただけだと申すなら、今回も命令に従いなさい」
女官は言葉を失い、頭を下げた。
リリアは席の端で唇を震わせていた。
「王妃陛下。あの、私は本当に半年で覚えられるのでしょうか」
「覚えられなければ、婚姻の審議が延びます」
「そんな……」
「王太子妃となる準備が整わないうちに、婚姻だけを急ぐ理由はありません」
リリアの目に涙が浮かぶ。
アルフレッドが庇おうと身を乗り出したが、王妃は先に告げた。
「泣いても日程は変わりません。教師へ相談なさい」
会議はそれで終わらなかった。
誰がどの役目を引き受けるのか、一つずつ名が決められた。断る者には、王宮での地位を返す選択肢が与えられた。
誰も辞職を選ばなかった。
恋への拍手は一晩で終わったが、その後始末は半年続くことになった。
◆
最初の一か月は、失敗ばかりだった。
新しい教師は、リリアが泣いても授業を短くしなかった。
外国使節への挨拶を間違えれば、最初からやり直し。歩き方が崩れれば、広間の端まで戻される。
「前の先生は、もっと優しく教えてくださいました」
リリアが訴えると、教師は眼鏡越しに彼女を見た。
「前の先生が優しかったのではありません。グランフェルト公爵令嬢が、あなたの進み具合に合わせて日程を調整していたのです」
リリアは何も言えなくなった。
アルフレッドも、各国使節への謝罪で失敗した。
最初に作った文面には、自分たちの恋を理解してほしいという言葉が長々と続いていた。
王室の外交官はそれを読み、一行も残さず書き直しを命じた。
「なぜ、私の気持ちを書いてはいけない」
「先方が知りたいのは、殿下のお気持ちではございません。変更後の日程と、約束が守られるかどうかです」
アルフレッドは不満そうだったが、自分で謝罪文を書き直した。
ジェラルドが作った最初の席順案も、半日で差し戻された。
仲の悪い二家を隣り合わせにし、外国使節の席を国内の伯爵より下へ置いていたからだ。
「エレノア様は、どのように決めていたのですか」
夜更けの執務室で、ジェラルドが侍従長へ尋ねる。
「何年もかけて、それぞれの家の事情を覚えておられた」
「その一覧は残っていないのですか?」
「事情は、その都度変わる。古い記録を写せば済む仕事ではない」
ジェラルドは頭を抱えた。
二か月目、リリアとアルフレッドは初めて激しく言い争った。
「隣に立つだけでよいと仰ったではありませんか!」
「私も、そう思っていた!」
「では、どうしてこんなに覚えることがあるのです!」
「私に言われても分からない!」
二人とも黙り込んだ。
以前なら、どちらかがエレノアへ助けを求めていただろう。
けれど、もう頼れない。
「……明日の授業は、何だ」
やがてアルフレッドが尋ねた。
「北方三国の歴史です」
「私も、その時間を空ける」
「アルフレッド様も?」
「使節への謝罪で、私も何も知らないと分かった」
仲直りというには、二人とも疲れすぎていた。
それでも翌日、アルフレッドはリリアと並んで教師の講義を受けた。
◆
延期された春の大夜会は、秋の祝賀会と名を変えて開かれた。
アルフレッドとリリアの婚姻は、まだ正式には成立していない。
リリアが王太子妃候補として必要な教育を受け、アルフレッドが公務と私事を分けられるかを見極めたうえで、最終的な審議が行われる。
半年を経ても、二人は完璧にはほど遠かった。
それでも、以前のように失敗を誰かへ隠してもらおうとはしなくなっていた。
エレノアも、グランフェルト公爵家の代表として祝賀会へ招かれた。
王太子の元婚約者としてではない。
北方との新たな交易事業を立ち上げた責任者として、外国使節から出席を求められたのである。
広間へ入ると、アルフレッドとリリアが招待客を迎えていた。
リリアは緊張で顔を強張らせている。
一人目の使節への挨拶を終え、二人目へ向き直ったとき、足の位置を間違えた。
隣に立つ女官が、助けようとわずかに手を動かす。
けれどリリアは自分で気づき、一度姿勢を戻してから、もう一度礼をした。
ぎこちなかった。
それでも、やり直した。
アルフレッドも急かさず、彼女が顔を上げるのを待った。
「エレノア嬢」
声をかけられ、振り返る。
そこにいたのは、北方との交易を担当するセドリック・ヴァレイン侯爵令息だった。
「お久しぶりです」
「先日の報告は拝見しました。冬を越す前に、最初の隊商を出せそうですね」
「ええ。あとは積み荷の最終確認だけです」
二人が話していると、近くで侍従たちの慌てた声が聞こえた。
「北方使節団のお席が一つ足りない」
「名簿では十名のはずだ」
「先ほど、一名増えると連絡が届いたそうです」
エレノアは、広間を見渡した。
どの席を動かせば角が立たないか。追加の食器をどこから運び、誰へ変更を伝えるべきか。
答えはすぐに分かった。
「お気づきですね?」
セドリックが尋ねる。
「ええ」
「助けに行かなくても?」
「今日は招待客ですもの」
エレノアは席を立たなかった。
ほどなく、ジェラルドが駆けつけた。
侍従長と短く相談し、空席の位置を変え、追加の椅子を運ばせる。使節団への説明では一度言葉を詰まらせたものの、相手は苦笑して受け入れた。
「片づいたようですね」
セドリックが言う。
「そのようですわ」
「以前より、少し時間はかかりましたが」
「次は、もう少し早くなります」
楽団が輪舞曲を奏で始める。
セドリックは曲を確かめるように耳を傾けてから、エレノアへ向き直った。
「北方の交易事業について、あなたにもう一つ相談したいことがあります」
「父ではなく、私にですか?」
「はい。グランフェルト公爵令嬢だからではありません。計画を作り、各領地との交渉を進めたエレノア嬢にお願いしたいのです」
セドリックは片手を差し出した。
「まずは一曲。そのあとで、次の予定をいただけますか?」
「王太子殿下のご予定ではなく?」
「もちろん、あなたご自身の予定を」
エレノアは微笑み、その手に自分の手を重ねた。
「でしたら、喜んで」
二人が広間の中央へ進む。
開かれた窓から入る秋の風に乗って、軽やかな輪舞曲がどこまでも響いていた。




