はなむけ
「私、明日死ぬんだ」
彼女は白いカーネーションをいけながら、僕にだけしか聞こえない声で囁いた。
「びっくり……しないよね、多分」
潮を含んだ風が、絹糸のように美しい髪をいたずらに揺らしていく。彼女の言う通り、少しピン、としたけれど特に驚くこともなかった。ただ、そうか、とその風に発声を乗せる。
「色んなとこ、二人で行ったよね。憶えてる?箱根とか。折角行ったのに寒いからって露天風呂入らなかったの、いまだに笑える」
憶えている。僕らが泊まる前日、数年に一度と言われる大寒波の影響でとんでもない降雪があり、景観は抜群だったが極度の寒がりである僕らは屋内の大浴場をそれぞれ楽しんでいた。
「なんかさ……もっと、二人で楽しいことしておけばよかったよね」
俯く彼女の睫毛は均等に長く整えられており、その毛先は窮屈そうに眼鏡のレンズを撫でている。睫毛のパーマというものがあるらしいのだが、彼女は縮毛矯正でもかけているのだろうか。どこまでもまっすぐに伸びていた。そんな睫毛が小刻みに左右に揺れる。
「ねぇ、私さ。まだ返事してなかったじゃん? プロポーズ」
とびっきりサプライズをしたくて、抱きかかえるほどのバラの花束の中に指輪を仕込んだら、指輪が花束の中に入り込んでしまい、サプライズは失敗、バラの中に手を突っ込み探ったおかげで僕の手は傷だらけになってしまった。国内でも有数の夜景が美しいホテルのレストランで、あんなに無様な姿の男はきっと、あのホテルでは後にも先にも僕だけだっただろう。
それなのに、彼女は「ああもう」と揺れる藤の花みたいにくすくす、と可憐に小さく笑うのだ。
格好がつかなくなってプロポーズどころではなくなり、自棄になり慣れないワインを1本丸々飲み干して更に醜態をさらしたため、結局僕はその場で答えを聞く余裕も記憶もなくなってしまった。
「もうその日に婚姻届、出しに行けばよかったのにね」
そうかな、と僕の言葉は零れた。あの日のこと、僕は後悔している。ずっと。
「でもどうせ、プロポーズしなければよかった、なんて考えてるんでしょ」
どうして。バレてしまうのだろうか。君の。そういうところが好きだ。
彼女は花が好きで、よく花について教えてくれた。道端に咲いているタンポポのほとんどが外来種であること、サルスベリというツルツルした幹の木があること、その話す表情すべてが愛おしくて、僕も少しずつ花に興味を持つようになった。
そして彼女は酒に酔うと「花は散るから、枯れるから美しいって言うけど、私はそう思わない」と、よく言っていた。一度どういう意味かを尋ねたことがあり、
「『枯れるから』って、儚いイメージを勝手につけているのは人間でしょ。愚かよ。花には花の生きる道があるの、花生はずっと強かで美しいの。生きとし生けるものとしての役割を全うして子孫を残して死んでいる。ルッキズムに囚われたり年収とか役職とかにこだわって子孫も残さず光合成もできない人間よりも生物としてよっぽど有能」
という、男尊女卑ならぬ強めの花尊人卑思想を語られてしまったことがある。その勢いに飲まれて、僕はそれ以降この話を聞くことはなかった。もっと、聞いておけば。
*
「……そろそろいかなきゃ」
階段の下に止まっている、黒い車に目をやる。立ち上がったスカートはショートブーツに絡まり、金具が裾に引っかかる。引き留めてるつもり、なの?
周囲を見渡して人がいない事を確認し、石に顔を寄せて口づける。かたいしつめたい。
「結婚してたら、また会えたのに」




