1.身投げを阻まれて
足元に星空が見えるのが、不思議な感じだった。
子爵令嬢リーネニア・ティエクスタールは落ちていた。
学園の校舎に沿って、地面に向かい、真っ逆さまに落ちていた。足が上で、頭が下。だから足元に目を向けると星空が見えるのだ。
下から上へと吹きすさぶ鋭く冷たい風。はためくドレス。自分の身体がすごい速度で落ちていることを実感している。地面への到着まで、ほんのわずかな時間であるはずなのに、激突の時はまだ訪れない。人は死に瀕したとき、集中力が高まり時間が緩やかに感じるようになり、わずかな時間でそれまでの人生を振り返るという。これがそうなのかと、リーネニアは納得した。
リーネニアは落ち着いていた。落下の恐怖がある。死へのおそれもある。だが、それらのことよりも、自分を悩ませていたすべてのことが終わる――胸を満たすその解放感が、恐怖を凌駕していた。
視界の隅には、煌々と光を放つ丸い建物がある。学園内に設けられたホールだ。そこでは未だ卒業式のパーティーが執り行われているのだろう。
つい先ほど、リーネニアはその会場で婚約破棄を告げられた。それでも、パーティーは続く。
……当然ですね。
リーネニアは心の中でつぶやいた。
特別な才能を持たない、地味で目立たない子爵令嬢。それが自分だとわかっていた。死んだところで悲しむ者などいないだろう。元婚約者も少しは罪悪感を覚えるかもしれないが、すぐに忘れるに違いない。
誰からも見向きされない、無価値な人間。リーネニアは自分がそんな令嬢であると理解していた。
そんなことに思いを向けたせいか、婚約破棄に至ったこれまでの出来事が、次々と脳裏に浮かんできた。
リーネニア・ティエクスタールには姉がいた。
子爵令嬢シルカロジア。黄金のように美しい金の髪と、サファイアのようにきらめく碧の瞳を持った美しい令嬢だ。成績優秀で魔力も高く、明るい性格で人当たりもいい。それでいて礼儀作法はきちんとしており、その所作の美しさは同世代で並ぶ者はいないとまで言われた。明るい日の光の下にいるのが似合う、明るい令嬢だった。
対して、リーネニアは地味な令嬢だった。腰まで届くグレーの髪は、雨が降る直前の曇り空を思わせる。深い青色の瞳は、深い湖の冷たい水のようだ。肉付きの悪い細い体のせいで、枯れ木のようだと言われたことがある。礼儀作法は姉に劣らずきちんとしているが、消極的で人と話すのが苦手だ。日影にいるのが似合う、薄暗い令嬢だった。
そんな差のある二人だったが、決して姉妹仲が悪いわけでもない。シルカロジアは妹を大切にしてくれたし、リーネニアはそんな姉を尊敬していた。両親も姉妹を同等に扱ってくれた。
だがそれだけに、能力の差はより明確になった。同じものを与えられいるのに、シルカロジアは常に大きな功績を上げ、リーネニアは並程度の結果しか出せなかった。
リーネニアも何もしなかったわけではない。優れた姉に恥ずかしくない妹であろうと努力した。容姿が地味で魔力も並程度しかないリーネニアが力を入れたのは勉学だった。朝から晩まで机に向かい必死になって学び続けた。秀でたところの少ないリーネニアだったが、忍耐力だけは人一倍あった。
努力の甲斐あって、学園に入学してからは成績は上位にあった。しかし姉のシルカロジアは更にその上を行っていた。美しく才気に溢れたシルカロジアばかりが注目を集め、成績優秀でも華のないリーネニアに目を向ける者などほとんどいなかった。
リーネニアはそうした状況をそれほど不満に感じていなかった。優れた姉が注目を浴びることは当然で、むしろ誇らしいことだった。時折、姉に比べて地味すぎるという評判を耳にすることもある。その程度で、嫌がらせを受けるといったこともなかった。
才能のない自分は努力してようやく一人前。分相応の人生だと、諦観を抱いて過ごしてきた。
学園に入学して一年ほどたったころ。リーネニアにも婚約者ができた。伯爵子息サルフィーシス・ラクフォサート。金髪に碧の瞳の凛々しい美男子だった。
こんな素敵な上位貴族が自分の婚約相手になるなんて、リーネニアにとっては分不相応なことに思えた。しかしこの婚約は派閥間の関係をすこし強化するためという政略的なものだ。重要度は低くとも彼女の意志が介在する余地などなかった。
そうして始まった婚約関係だったが、義務以上の付き合いはなかった。リーネニアは地味な容姿だ。グレーの髪は目立たず、細い身体は男性の興味を引けないことを理解していた。勉強ばかりにしている彼女は流行りの話題もろくに話せない。サルフィーシスの方も、リーネニアのことはまるで興味が無いようだった。愛情をはぐくむ余地のない、形だけの冷めた関係だった。
結婚してもきっとこうした冷たさは変わらない。リーネニアはそれを当然のこととして受け止めていた。彼女にとって燃えるような熱い愛は、物語の中の遠い出来事にしか思えなかった。
そのことに不満はなかった。多くを望まなければ大きな不幸にはならない。リーネニアはそう思っていた。
だが、サルフィーシスの方は満足できなかったらしい。リーネニアの気づかないうちに、別の令嬢と関係を育んでいたいた。
そして卒業パーティーの会場で、高々と宣言したのだ。
「私は『真実の愛』を見つけた! 子爵令嬢リーネニア・ティエクスタール! 残念だが、君との婚約は破棄させてもらう!」
そう告げられた時、リーネニアの胸の内に悲しみも憎しみも湧かなかった。サルフィーシスは自分にはもったいない相手だった。寄り添う令嬢のことは知っていた。かわいらしくて、魔力だけでなくリーネニアより学力も高い優秀な令嬢だった。伯爵子息に相応しい相手に思えた。
やはり、サルフィーシスはリーネニアには過ぎた相手だったのだ。そのことを当然のように受け止めていた。
「承知しました。謹んで婚約破棄をお受けいたします」
リーネニアは礼儀作法に則った乱れのないカーテシーを披露した。サルフィーシスは毒気を抜かれた顔をした。そんな彼に背を向けて、リーネニアは会場を去った。
そのまま学園の校舎に行き、最上階のベランダに行った。いくつものテーブル席が置かれたそこは、日中は生徒たちの憩いの場となっている。だが今は夜だ。卒業パーティーが行われていることもあり、閑散としていた。
途中、学園内を巡回する警備の者を見かけたが、呼び止められることはなかった。婚約破棄のことが伝わって、気を使われたのかもしれない。
見上げると、満点の星空が広がっていた。
空に輝く星々を眺めた。ひときわ輝く星を見て、姉のシルカロジアのことを思い出した。姉ばかりではなく学園の他の生徒たちも、自分の意志で生きて、星々のように光り輝いている。思わず手を伸ばしたが、宙をつかんだだけだった。才能もなく、ただ流されるままに生きている自分にとって、周りの人間誰もが手の届かない存在に思えた。
気晴らしにベランダに来たというのに、かえって気が滅入ってしまった。手すりに身を預け、階下へと目を向けた。
行き来に不自由が無いよう、主要な建物や通り道には明かりがともされている。それでも明かりの届かない場所は多い。
道から外れた暗がりを見ていると、ひどく気分が落ち着いた。あそこが自分のいるべき場所に思えた。
地味な容姿で能力面でも秀でたところはない。そんなリーネニアがよりにもよって卒業パーティーで婚約破棄を告げられた。この先、伴侶にしようという物好きはそうそう現れないだろう。貴族としての利用価値は無くなったに等しい。両親も扱いに困ることだろう。不出来な妹がいては、既に有力貴族との婚約を進めている姉の迷惑になるに違いない。
だが、目の前にそうした愁いを断つ手段がある。
最上階のベランダは十分な高さがある。ここからあの暗がりに向けて飛び込めば確実に死ぬことができる。姉や両親も少しは悲しむかもしれない。元婚約者のサルフィーシスも少しは後味の悪い思いをするかもしれない。でも、それだけだ。このまま生き続けるより、ずっと迷惑をかけないで済む。
そう考えると、これが一番の解決法に思えた。むしろこれしかないと思った。明かりの届かない闇がひどく魅力的に思えた。まるでその闇に吸い込まれるようにリーネニアは動いた。ドレスが何かにに引っかかり、破れたけれど気にならなかった。そのまま手すりを乗り越えて、
リーネニアはためらうことなく地上の闇に向けて飛び込んだ。
そして、リーネニアは落ちている。死の間際の回想はつまらないものだった。何の実りも得られない人生だった。でも、それも、もう少しで終わることになる。もう何もを思い返そうともせず、リーネニアは落下に身を任せた。
そのとき、鋭い声が聞こえた。
「危ない!」
視界がまわり、落下の速度が急に穏やかになった。どうやら空中で誰かに抱き止められたらしい。背中と膝の裏を支えられている。いわゆるお姫様抱っこをされているようだ。
抱き止められた瞬間、衝撃はほとんどなかった。そして今、落下の速度もゆるやかだ。落下速度減速の魔法はそう難しいものではない。だが、身投げした人間を受け止め、二人分の落下をここまで精密にコントロールするのは並大抵のことではない。リーネニアを抱き止めた相手は、どうやら相当の魔法の使い手のようだった。
そうしてリーネニアは実に安全に地上へとたどり着いた。
「いやあ、間に合ってよかった! 危ないところだったな!」
張りのある快活な声だった。金色の髪。太い眉の下には真紅の瞳が凛々しく輝いている。貴族子息に多い優美さではなく、騎士のような精悍な顔立ちの男性だった。
だがその顔で何より目を引くのは、別のものだ。
両側のこめかみ辺りからそれぞれ一本ずつ角が生えている。複雑な筋が入ったその角は、シカや牛のそれとは別種のものだ。名工の手掛けた王族への贈答品と言っても通るほど、造形的な美しさがあった。
そんな角を持つ種族はこの世界において一つだけだ。人間より頑強な体と高い魔力を持つ別の種族、竜人だ。
竜人にして、辺境伯の嫡男。アルオバスト・レグイオン。この学園唯一の竜人を知らないはずがなかった。
「大丈夫か? ケガはないか?」
アルオバストは心配そうな顔をして問いかけてきた。
リーネニアは自分の身体を確かめた。痛むところはない。手すりを乗り越えたときにひっかけてドレスが少し破れている。それくらいで、かすり傷一つ負っていない。
それよりも今の状態が問題であることに気づいた。未婚の令嬢が婚約者でもない男性に抱きかかえられている。いくら緊急事態とは言え、これは大変礼儀に反した状況だ。
「……ケガはありません。降ろしてくださいますか?」
リーネニアがそう言うと、アルオバストは降ろしてくれた。竜人はもともと人間より身体能力が優れていると聞いている。実際、アルオバストは腕も太いし胸板も厚い。体つきもがっしりとしている。だがリーネニアをそっと降ろすその手つきに粗暴さは無い。実に丁寧で優しいものだった。彼が腕力だけの竜人でなく、紳士であることがうかがえた。
「危ないところを助けていただきありがとうございました。このことは父、ティエクスタール子爵に伝え、改めてお礼いたします」
リーネニアはカーテシーを披露すると、アルオバストに背を向けて歩き出した。落ち着いた態度だが、彼女の内心は穏やかなものではなかった。
死ぬと心に決めて飛び降りた。それなのに邪魔をされた。アルオバストに対して感謝の気持ちなどもっていない。むしろ余計なことをされたと文句を言いたいぐらいだ。
だが彼女も、先ほどの自分の行動が他人に理解されないものであることくらいはわかっている。この場は穏便にやり過ごしたほうが賢明だ。
飛び降りなどという、人に見られる可能性のある安易な方法を選んだのがよくなかった。ナイフや、縄、毒など人目に隠れて自害する手段はいくらでもある。次は失敗しない……そう考え、この場を速やかに去ろうとするリーネニアも、次の言葉には足を止めざるを得なかった。
「……待ってくれ。実は君が飛び降りるところを見ていたんだ。事故のようには見えなかった。君は、もしかしたら自分の意志で……」
リーネニアは思わず淑女らしからぬ舌打ちをしそうになった。どう言い訳しようかと振り返ると、思わず息を呑んだ。アルオバストはひどく心配そうな顔をしていたのだ。
この王国において、辺境伯であるアルオバストの家は、侯爵家に匹敵する高位貴族だ。その嫡男である彼が、無価値な自分に対してこんな顔をするなんて……リーネニアにとってはまるで理解できないことだった。
戸惑うリーネニアに、アルオバストは言葉を続けた。
「あの婚約破棄の宣言がショックだったのはわかる。愛する者に裏切られるのはつらいことだろう。だが、なにも自ら命を絶つなんて……」
「愛してなどいません!」
リーネニアは思わず言葉をさえぎって叫んでしまった。上位貴族が話している最中にこんなふうに口を挟むなど、貴族にあるまじき無作法だ。なぜそんなことをしてしまったのかわからない。だが一度口を開いてしまうと止まらなかった。
「サルフィーシス様を愛してなどいませんでした。わたしは……無価値な人間だから、死を選んだのです」
「無価値だって……? 何を言っているんだ!?」
「わたし見ての通り、地味な見た目でこれといった才能もありません。そのうえ、婚約破棄という瑕疵までついてしまいました。両親は不出来な娘の扱いに苦労することでしょう。姉の名声にも傷をつけることになります。だから、死んでしまうのが一番いいことなんです」
言葉を重ねるうちに胸が苦しくなる。
あのまま落ちていればこんな想いをすることはなかった。そうなる前に終わることができた。
恨みがましい目を向けながら、アルオバストに問いかける。
「わたしなんかを、どうして助けてしまったんですか……?」
アルオバストは信じられないと言ったふうにかぶりを振った。
「何を言っているんだ! 死ぬのが一番いいことだなんてあってたまるか!」
「子爵家の価値のない娘の生き死になど、些事に過ぎません。あなたがお気になさるようなことではありません」
「さ、些事だって!? 君は自分が何を言っているのかわかっているのか!?」
アルオバストは瞳を潤ませていた。彼はリーネニアのことを心底心配しているようだ。リーネニアからするとそこまで感情を向けられる理由がわからない。貴族というものは、必要に応じて下の立場の人間を切り捨てなければならないものだ。
そう考えると、疑問が口をついて出た。
「そもそも、あなたはなぜ、こんなところにいらしているのですか?」
口にしてみると不思議なことだった。
内気なリーネニアには親しい友人がいない。仮にいたとしても、婚約破棄を告げられたばかりの令嬢は一人にさせておくべきだと考えるだろう。実際、アルオバスト以外に誰の姿も見当たらない。
アルオバストは同学年だが違うクラスだ。リーネニアは放課後になると学園の図書室で勉強していた。その時、アルオバストの姿を見かけることはよくあった。でも話す機会はなかった。その程度の薄い関係だ。
アルオバストは実直な性格と噂に聞いている。先ほどから見せる心配そうな顔は演技とは思えない。そんな彼が、興味本位で婚約破棄された令嬢の様子を見に来たとも思えない。
リーネニアの問いかけに、アルオバストはぐっと言葉に詰まった。目をそらし、口をもごもごとさせている。何か言いづらいことがあるようだが、リーネニアにはまるで見当がつかない。
やがてアルオバストはようやく決心したようだ。真剣な目を向けると、口を開いた。
「……実はついさきほど気づいたことだが、君は……私の『運命の番』なのだ!」
「えっ?」
リーネニアは突然の告白に思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
『運命の番』とは、神が竜人に与えた特別な習性だ。竜人はある日突然、伴侶とすべき相手を見出す。その相手を『運命の番』と呼び、一生深く愛するという。
これまで交流のなかったアルオバストが、会場を後にしたリーネニアを追ってきて、身投げを救った。それらのことは、『運命の番』だというのなら、説明はつく。
しかし、婚約破棄されたタイミングで『運命の番』だと気づくなんて、そんな偶然があるだろうか。リーネニアはどうにも納得がいかず、不審の目を向けた。
アルオバストは一瞬目をそらしかけたが、ぐっとリーネニアに視線を向けると、力強く声を上げた。
「とにかく! 『運命の番』に先立たれては、私は悲しい! 悲しみのあまり、涙で辺境を沈めてしまうだろう! そんなことになれば王国の危機だ! だから君は、死んではいけないんだ!」
リーネニアは無価値な自分は周りに迷惑をかけるより前に死を選ぶしかないと思った。
しかし、彼の家が治める辺境の地は、王国にとって重要な場所だ。その危機と言われては、貴族令嬢として無視はできない。
無価値なはずのリーネニアは、どうやら命を軽んじてはいけないだけの価値を与えられてしまったようだった。




