第087話 収穫祭:お米の名は「タカニシキ」。……そして明かされる、前世の「最期」の記憶
夜の帳が下りると、死に絶えていたはずの寒村は、かつてない熱気と歓喜に包まれた。
村の中央広場で焚かれた巨大な松明の炎が、人々の紅潮した顔を照らし出す。
乾燥してひび割れていた大地は、今は豊かな水と、何よりも「人の活気」で満ちていた。
「炊けたぞォォォッ!!」
誰かの叫び声と共に、広場の中央に据えられた、ミリア愛用の巨大な『焦げ付かぬ鍋《オリハルコン製・寸胴型》』の蓋が開けられた。
ボワァッ……!
立ち上る濃厚な湯気。そして、風に乗って広がる甘く芳醇な香り。
それはただの穀物の匂いではない。大地と水と太陽、そしてアリスの聖なる魔力とミリアの執念が凝縮された、「生命」そのものの香りだ。
「こ、これが……おらたちの田の米……?!」
「光ってる……! 米粒が、宝石みてぇに光ってるぞ!」
村人たちが鍋を取り囲み、涙を流して拝んでいる。
飢餓に苦しみ、泥水を啜って生きてきた彼らにとって、この白く輝く穀物は、黄金よりも尊い救済の象徴だった。
ミリアとアリスが、休む間もなくしゃもじを振るい、竹の皮に乗せた握り飯を次々と配っていく。
具などない。海苔もない。ただの塩むすびだ。
咀嚼が難しいほど衰弱している者には粥が配られる。
けれど、今の彼らにとって、これ以上の御馳走はこの世に存在しない。
「うめぇ……! うめぇよぉ……!」
「母ちゃん、食ってくれ……! 生き返ってくれぇ……!」
ハフハフと熱い米を頬張る音。咀嚼するたびに溢れる嗚咽。
それは、地獄の底から這い上がった者たちによる、生への賛歌だった。
その光景を見ているだけで、胸の奥が熱くなる。
わたしは一人、その喧騒から少し離れた、村はずれの静かな丘の上へと足を運んだ。
眼下に広がる祭りの明かりを見下ろす場所に、腰を下ろす。
カエデは警備を兼ねてどこかの木の上に潜んでいるのだろう。
「……レヴィーネ様」
背後から、遠慮がちな声がかかった。
振り返ると、配膳を村の女性たちに任せてきたのだろう、ミリアとアリスが立っていた。
ミリアの手には、湯気を立てる二つのおにぎりが乗った皿がある。
「……ここにおられましたか」
「ええ。少し、酔ってしまったみたい。お米の匂いにね」
わたしは苦笑して、隣の地面をポンと叩いた。二人が並んで座る。
しばらくの間、無言の時間が流れた。
ただ、炎の音と、遠くから風に乗って聞こえる村人たちの笑い声だけが響く。
心地よい静寂だった。けれど、そこには昼間の「言い間違い」によって生じた、わずかな緊張感が漂っていた。
「……ミリア。昼間のことだけれど」
わたしが切り出すと、ミリアは膝の上で手をギュッと握りしめ、緊張した面持ちで顔を上げた。
その瞳には、不安と、それ以上の「知りたい」という強い意志が宿っていた。
「はい。……お待ちしておりました」
わたしは、自分の胸に手を当てた。
ドクン、ドクン。そこにある、強く脈打つ心臓。
けれど、記憶の奥底には、いつ止まるとも知れなかった、弱々しい鼓動の記憶が焼き付いている。
「隠していたわけじゃないの。ただ……信じてもらえるか分からなかったし、言う必要もないと思っていたから」
わたしは薪を一本、火にくべた。パチリ、と火の粉が舞い上がり、満天の星空へと消えていく。
「わたしにはね、前世の記憶があるの。『ニホン』という国で生まれた……向こうでの名前は、『鷹乃』といったわ」
わたしは、もう二度と名乗ることはないと思っていたその名を、口にした。
口に出した瞬間、当時の消毒液の匂いや、無機質な機械音がフラッシュバックする。
「今のわたしとは似ても似つかない、ただの病弱な小娘だった。生まれつき身体が弱くてね、学校にも行けず、病室の白い天井ばかり見て過ごしていた」
ミリアが息を呑む気配がする。
岩をも砕く最強の筋肉を持つ主人の口から語られる、「弱者」としての過去。それは彼女にとって想像を絶するものだろう。
「ベッドの上で寝返りを打つことさえ必死だった。……唯一の楽しみは、画面の向こうで戦うプロレスラーたちの姿を見ること。彼らの強靭な肉体、不屈の闘志に憧れて……いつか自分もあんな風に自由に動きたいと願いながら、若くして生涯を閉じたの」
そこまでは、アリスにも話したことがあったかもしれない。
けれど、ここから先は、誰にも言えなかった「痛み」だ。
「最期の日々は……もう、食事をすることさえできなかった」
わたしの声が、わずかに震える。
「喉を通らないの。飲み込む力さえ残っていなかった。点滴という管で、ただ生かされているだけ。……お腹が空いているのかどうかも分からない。ただ、魂が干からびていくような感覚だけがあった」
脳裏に浮かぶ光景がある。
白い病室。消毒液の匂い。そして、面会に来た母の姿。
彼女はいつも泣き腫らした目を隠すように笑っていた。
『鷹乃。……お母さんね、今日、早起きしておにぎり握ってきたの』
母が取り出したのは、ラップに包まれた小さなおにぎりだった。
コンビニのじゃない。歪で、不格好で、でも温かいおにぎり。中身は大好きな鮭だったはずだ。
『一口でいいから……お母さんが握ったのよ。ね?』
母の震える手が、おにぎりを私の口元へ運ぶ。
海苔の香り。ご飯の香り。
食べたい。本当は食べたい。お母さんのご飯を食べて、「美味しいね」って笑いたい。
――でも、体が拒絶する。
匂いを嗅いだだけで、吐き気がせり上がってくる。飲み込むための筋肉が、動いてくれない。
わたしは、首を横に振ることしかできなかった。
あのおにぎりを残してしまった時の、母の悲しそうな顔。震える手でそれを片付ける母の背中。
「ごめんね、無理させてごめんね」と、謝っていたのは母の方だった。
それが、わたしの前世最大の後悔。
最後の親不孝。
「だから、わたしは『強さ』と『食』に執着するの。……二度と、あんな惨めな思いをしたくないから」
わたしは拳を強く握りしめた。爪が食い込むほどに。
「自分の足で立ち、自分の手で掴み、自分の歯で噛み砕いて飲み込む。……それができることが、今のわたし……いいえ、かつての『鷹乃』にとっての、一番の願いだったのよ」
沈黙が落ちた。
ミリアは、袖で目元を拭っていた。何度も、何度も。
彼女はまっすぐにわたしを見ていた。憐れみではない。共感と、深い敬愛の眼差しで。
「……そう、だったのですね。レヴィーネ様が時折見せる、どこか遠くを見るような寂しい目。そして、誰もが諦めるような運命に、あんなにも激しく立ち向かう理由が……」
彼女の中で、これまでのわたしの行動の点と線が繋がっていくのがわかった。
なぜ、あれほどまでに健康にこだわるのか。
なぜ、飢えという理不尽を許さないのか。
その根源にあるのが、英雄的な正義感などではなく、個人的で切実な「痛み」の記憶だったことに、彼女は深く納得したようだった。
わたしが話し終えると、隣にいたアリスも小さく手を挙げた。
「……私にも、あるんだ」
アリスは膝を抱え、焚き火を見つめながら寂しげに笑った。
「私にも前世があるの。レヴィちゃんと同じ、『ニホン』っていう国で生まれて、育って……死んだ記憶が」
「アリスさんも……」
「時代はね、全然違うと思う。でもね、やっぱり似ているんだ、この国は。私たちの遠い遠い、故郷の空気に。お米の匂いも、人の優しさも。……だから、放っておけないんだよ。この国が『悲劇』で終わるなんて、絶対に見たくない」
アリスの言葉に、わたしも頷いた。
そうだ。ここは異世界だ。けれど、わたしたちの魂のルーツと共鳴する場所。
味噌の香り、醤油の味、そして白米の湯気。それらは単なる食料ではなく、わたしたちがかつて失った「日常」の象徴なのだ。
「ミリア。わたしがこの国にこだわる理由。……それは、ここがわたしの『魂のふるさと』だからなの」
やがて、ミリアはゆっくりと立ち上がり、わたしの正面に座り直した。
そして、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます、レヴィーネ様。話してくださって」
顔を上げたミリアの瞳は、涙で濡れていたが、そこには揺るぎない決意の炎が燃えていた。
「私、やっと腑に落ちました。貴女様の強さの根源も、優しさの意味も。……そして、私がなすべきことも」
ミリアは、持っていた皿を恭しく差し出した。
湯気を立てる、二つの塩むすび。
具も海苔もない。ただ、ミリアが魂を込めて開発し、アリスが命を吹き込み、わたしが汗を流して育てた、結晶。
「どうぞ。……これが、レヴィーネ様の魂が求めていた味になっているか、確かめてください」
わたしはおにぎりを受け取った。
熱い。炊きたての熱が、指先から伝わってくる。
震える手で、それを口元へ運ぶ。
あの日の母の手の温もりが、重なる気がした。
「……いただきます」
ガブリ。
一口、大きく頬張る。
――瞬間。
口の中に、優しい宇宙が広がった。
噛み締めた瞬間に弾ける、お米の甘みと粘り。一粒一粒が立ち、口の中で踊るようだ。
喉を通る瞬間の、確かな質量。胃袋に落ちた瞬間に広がる、熱い活力。
拒絶はない。吐き気もない。
ただ、全身の細胞が歓喜している。
失っていたパズルのピースが、カチリとハマる音がした。
(……ああ。これだ)
わたしの目から、自然と涙がこぼれ落ちた。
悔し涙でも、怒りの涙でもない。
ただ、満たされたことへの感謝の涙。
「食べられる」ということが、こんなにも幸せなことだったなんて。
お母さん。わたし、今、食べてるよ。
美味しいよ。すごく、美味しいよ。
あの時残してしまったおにぎりの味、やっとわかった気がするよ。
「……本当に美味しいわ。ミリア」
涙が止まらなかった。
前世の母に、「美味しかったよ」と伝えられなかった後悔が、今、この味を通じて浄化されていく気がした。
あの時食べられなかったおにぎりを、今、別の形で受け取り、命に変えることができた。
「レ、レヴィーネ様……」
ミリアがもらい泣きをして、鼻をすする。アリスも目を潤ませて、自分のおにぎりを齧っている。
「……このお米に、名前をつけましょう」
わたしは涙を拭い、食べかけのおにぎりを愛おしそうに見つめて微笑んだ。
「トヨノクニの飢えを満たし、新しい活力となる、このお米に。……名を残す価値があるわ」
すると、ミリアが真剣な眼差しで、おずおずと提案した。
「……それなら……『タカニシキ』はどうでしょう?」
「え?」
「先ほど教えていただいた、レヴィーネ様の前世のお名前……『タカノ』様。……その魂の記憶を、このお米にいただけないでしょうか?」
ミリアは、わたしの目を真っ直ぐに見つめた。
「空を舞う鷹のように高く飛び、故郷に錦を飾る。……そして、過去の悲しみを乗り越えて、未来を生きる糧にする。そんな願いを込めて」
タカニシキ。
わたしの過去と、未来を繋ぐ名前。
前世のわたしへの鎮魂歌であり、今世のわたしへの応援歌。
これ以上ない名前だ。
「……フフッ。最高ね。採用よ」
わたしは心からの笑顔で頷いた。
三人の心が、本当の意味で一つになった夜だった。
わたしは、タカニシキのおにぎりをもう一口頬張った。
塩気が、涙の味と混ざって、しょっぱくて、最高に甘かった。
――そして、その光景を。
村はずれの巨木の梢から、静かに見つめる影があった。
カエデだ。
彼女は、荒れ果てた村が黄金色に染まる奇跡と、異国の令嬢が見せた涙を、その目に焼き付けていた。
それは、ただの異邦人の気まぐれではない。
この国の根幹に関わる、巨大な情熱の奔流だと、忍びの勘が告げていた。
「……なんと。……鬼神の如き強さと、菩薩の如き慈悲。……これは、ただ事ではない」
カエデは懐から一羽の小さな鳥を取り出した。伝書鳩ならぬ、忍鳥だ。
彼女は震える手で文をしたため、鳥の足に結びつけた。
『主君、急がれたし。……この国を変える風が、今まさに吹き始めました』
カエデが手を放すと、鳥は一直線に、夜空へと舞い上がった。
目指すは中央、オワリの方角。
この一通の文が、眠れる獅子を呼び覚ますことになる。
レヴィーネの根源に関わる、大切なお話でした。「タカニシキ」に込められた想い。食べることは、生きること。その幸せを噛み締めます。
彼女の過去と決意に共感してくださった方は、温かい評価をいただけますと幸いです。




