第8話 北の辺境「獣の穴」へ。意気揚々と乗り込んだら、初日で鼻をへし折られました
北の辺境、ハニマル領。
馬車の窓から外を見た瞬間、わたしは世界の残酷さを知った。
視界を埋め尽くすのは、白、白、白。
吹き荒れる暴風雪は、もはや「天候」というよりは、殺意を持った巨大な暴力装置だった。吐く息は瞬時に凍りつき、まつ毛に氷柱ができる。ヴィータヴェン領の冬もそれなりに厳しかったけれど、ここは次元が違う。まさしく「氷獄」だ。
そんな極寒の地に、山そのものを削って作ったような巨大な要塞――ハニマル流闘術総本山本部道場、通称『獣の穴』が鎮座していた。
「着いたぞ、レヴィーネ。ここがお前の新しい家であり、戦場だ」
祖父マラグは、分厚い毛皮の外套を羽織り、まるで春のそよ風の中を歩くような涼しい顔で馬車を降りた。わたしも慌てて後に続くが、一歩外に出た瞬間、あまりの寒さに肺が凍りつきそうになった。
(さむっ……!? うそでしょ、身体強化してるのに骨まで冷えるってどういうこと!?)
ガチガチと歯を鳴らすわたしを尻目に、祖父は道場の巨大な鉄扉を、片手で軽々と押し開けた。
中に入ると、そこは熱気と汗と、男たちの咆哮が渦巻く異空間だった。数百人はいるであろう屈強な男たちが、あるいは組み合い、あるいは武器を振るい、あるいは自らの肉体を痛めつけるような鍛錬に励んでいる。
祖父が入ってきたことに気づくと、全員が動作を止め、床が揺れるほどの声で一斉に挨拶をした。
「総帥! お帰りなさいませッ!!」
祖父は鷹揚に頷くと、わたしの背中をバンと叩いて前に押し出した。
「聞けい! 今日から入門する、ヴィータヴェン家のレヴィーネだ。……おい、師範代。こやつを『年少の部』に入れろ。まずは基礎の基礎からだ」
(……は?)
わたしは我が耳を疑った。年少の部? 基礎の基礎?
「お、お待ちください、お祖父様! 年少の部って、あっちで木刀を振ってる子供たちと一緒ですか!?」
わたしが指差した先では、五歳から十歳くらいの子供たちが、指導員に合わせて一生懸命に素振りをしていた。
「……ん? なんだその顔は。不満そうだな」
祖父がニヤリと笑う。
不満に決まっている! わたしは確かに七歳児だが、中身は前世と合わせれば四半世紀近く生きているのだ。しかも筋金入りのプロレスオタクだ。それに、生まれた時から無自覚な身体強化で鍛え上げられたこの肉体がある。脳内シミュレーションでは、大人のレスラーとだって渡り合えるはずなのだ。
「不満です! わたしは『最強』を目指しに来たのです。そんな子供遊びに付き合っている暇はありません! わたしは、そっちの大人たちとやれます!」
わたしの啖呵に、静まり返っていた道場がざわついた。生意気な新入り、それも貴族の幼女の世迷い言に、失笑や侮蔑の視線が混じる。
だが、祖父だけは面白そうに髭をさすった。
「カカッ! 面白い。威勢だけは一丁前だな。良いだろう、ならば試してみるか」
祖父が顎でしゃくると、近くにいた二十代半ばほどの、岩のような筋肉をした門下生が進み出た。
「こいつは中級の門下生だ。一撃でも入れることができれば、お前の言い分を認めてやろう。……無論、魔法の使用は許可するぞ。存分にやってみせろ」
「ええ、ありがとうございます。……後悔なさいませんように!」
わたしはドレスの裾をたくし上げ(下に動きやすいズボンを履いてきて正解だった)、前に出た。
対面の男は、わたしを見下ろし、鼻で笑っている。完全に舐めている。
(……いいわよ。その油断、最高のスパイスにしてあげる)
わたしは目を閉じ、体内の魔力回路を全開にした。
規格外と言われた膨大な魔力が、奔流となって全身の筋肉、骨格、神経を駆け巡る。身体が内側から発光するような、全能感。
「……始めッ!」
祖父の合図と同時だった。
ドンッ!!
床板が爆ぜた。わたしの姿はかき消え、次の瞬間には男の懐に潜り込んでいた。反応できていない。男の目が驚愕で見開かれている。
(もらった!)
わたしは渾身の力を込め、強化された右足で、男の腹部に前蹴りを叩き込んだ。前世のプロレスラー達が使っていたガットショットの見様見真似だ。それでも身体強化を最大限に使えば……!!
ドォォォォン!!!
凄まじい衝撃音が響き渡る。男の巨体は砲弾のように吹き飛び、十メートル後方の石壁に激突した。壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、土埃が舞い上がる。
道場が水を打ったように静まり返る。わたしは蹴り足の砂を払うフリをして、ゆっくりと、これ以上ないドヤ顔で祖父を振り返った。
(どうよ! これがわたしの力! 身体強化の才能!)
しかし。
祖父は、笑っていなかった。それどころか、呆れたように首を横に振り、視線をわたしの背後に向けていた。
(え……?)
背筋に、氷獄の風よりも冷たい戦慄が走った。振り返ろうとした、その時。
トン。
首筋に、冷たく、硬いものが添えられた。
「――そこまで」
祖父の声が響く。
わたしは、恐る恐る視線を横に向けた。そこには、今しがた壁に吹き飛ばしたはずの男が、涼しい顔で立っていた。服に埃ひとつついていない。無傷だ。
男の手刀が、わたしの頸動脈にぴったりと添えられている。彼がその気になれば、わたしの首はとっくに飛んでいた。
「な、んで……?」
わたしは呆然と呟いた。確かに蹴った。手応えもあった。壁も砕けた。それなのに、なぜ?
祖父がゆっくりと歩み寄ってきた。
「レヴィーネ。身体強化は、毒にも薬にもなる」
祖父の声は、先ほどまでの豪快なものではなく、静かで、重みのある「師」の声だった。
「魔力で肉体を強化すれば、確かに常人離れした力と速度が得られる。身体強化を使えぬ者や、弱い魔物が相手ならば、今のお前さんでも圧倒できるだろう。……だがな」
祖父は、わたしの首に手刀を当てている男を見た。男は身体強化の魔力を、一切体外に漏らしていなかった。
「魔物の中には、見かけからは想像もつかない力や速度を持つ者がいる。そして人間同士となれば、高みに行けば行くほど、身体強化は『使えて当たり前』の前提条件となる」
祖父の巨大な手が、わたしの頭に置かれた。
「身体強化ありと、身体強化あり同士の戦い。そこで勝敗を分けるのは、魔力の多寡ではない。身体強化を解いた先にある、身体の芯――鍛え上げられた筋肉と骨、流れる血の強さだ。そして何より、魂にまで焼きついた『技術』だ」
男が手刀を引き、一礼して下がった。彼がどうやってわたしの蹴りを無効化し、瞬時に背後に回ったのか、今のわたしには理解すらできなかった。
それが、技術の差。経験の差。そして、「芯」の強さの差。
「今のお前の力は、借り物の鎧のようなものだ。中身が伴っていない。……わかったら、さっさと着替えてこい。たっぷりと『年少の部』でしごいてやるからな」
祖父はニヤリと笑い、わたしを子供たちの列の方へと追いやった。
わたしは、赤くなった顔を隠すように俯き、トボトボと歩き出した。悔しい。けれど、それ以上に、胸が高鳴っていた。
(すごい……! ここには、本物がいる!)
わたしの知らなかった、魔法だけに頼らない強さの世界。「獣の穴」の洗礼は、天狗になっていたわたしの鼻をへし折り、同時に、目指すべき遥かな高みを教えてくれたのだった。
「獣の穴」での洗礼。自信を打ち砕かれてからの再起こそが、強さへの第一歩となります。
ここからの成長にご期待いただける方は、ぜひ感想や評価をお寄せください。




