第070話 決戦前夜:月下で学ぶルチャの極意。関節技(ジャベ)の痛みが、少年を戦士に変える
翌朝には、スラムの壁という壁に、毒々しいポスターが貼られていた。
『緊急決定! 建国記念興行メインイベント!』
『我らが太陽エル・ソル VS 異国の魔女レヴィーネ!』
そこには、やたらと邪悪なデザインのマスクをつけた、わたしらしき絵姿と「聖地を汚す悪魔を公開処刑! その仮面を剥ぎ取り、正義の鉄槌を下す!」という煽り文句が踊っている。
「……随分好き勝手に描いてくれたものね」
「あはは! でもレヴィちゃん、これなら客入りは満員間違いなしだよ!」
教会の広場で、アリスが笑いながら手元の作業を進めている。彼女が作っているのは、わたしのための「悪魔のマスク」だ。
その傍らで、レオがじっと亡き父のマスクを見つめていた。その横には、マテオ神父が立っている。
明日の対戦相手「猛牛」はジュニア世代ながら、体格でレオを大きく上回るパワーファイターだという。
わたしは、その二人に歩み寄った。
「さて、神父様。……少し、体を動かしませんこと?」
わたしの申し出に、神父は隻腕の袖を揺らしてニカッと笑った。
「ははッ、血気盛んなお嬢さんだ。……いいだろう。この老骨でよければ、付き合おう」
◆◆◆
夕暮れの教会の裏庭で、わたしとマテオ神父は対峙していた。
木の杭を打ち込んで荒縄でロープをかけただけの急ごしらえのリング。
わたしは身体強化を切っている。神父もまた、魔力を使っていない。
純粋な技術だけのスパーリングだ。
神父は、傍らで見守るレオに、静かに声をかけた。
「レオ、よく見ておきなさい。……これから見せる技の数々は、お前の父さん……『エル・アギラ』が、伝統を受け継ぎ、アレンジを加えた、黄金よりも尊い『エスペシアリダ』だ」
「父ちゃんの……技……」
レオが息を呑む。
「行くわよ、神父様!」
わたしは踏み込み、神父の襟首を掴もうと手を伸ばした。
だが、神父の体が一瞬で視界から消える。
――いいや、消えたのではない。わたしの懐に、回転しながら潜り込んだのだ。
「甘いな、お嬢さん」
神父の左腕が、わたしの腕に蛇のように巻き付く。
同時に、彼の足がわたしの足を払い、回転の遠心力を使って、わたしの身体を宙に浮かせた。
「――っ!?」
天地が逆転する。
気づいた時には、わたしは背中から地面に叩きつけられ、神父の体で完璧に抑え込まれていた。
「巻き投げ固め」の変形。隻腕であることを利用し、自分の体重全てを一点に乗せてロックしている。動けない。
「ほら、肩がついたぞお嬢さん。――1・2・3!」
パン、パン、パン!
神父が地面を素早く三回叩く。
「……ッ! いつの間に!」
わたしは目を丸くして跳ね起きた。
パワーなら負けない。けれど、今のわたしは「流れ」の中で完全に支配されていた。
「ははッ、ルチャは力比べじゃない。『回る』ことさ。相手の力も、重さも、すべて利用して丸め込む」
神父は楽しげに笑い、手招きした。
「次はこれだ。……こんな固め方もある、抜け出せるかい?」
再開の合図と共に、今度は神父が絡みついてくる。
足が、腕が、複雑怪奇なパズルのようにわたしの関節を極めていく。
「複合関節技」。
骨が折れるような痛みはない。だが、一度ハマると、もがけばもがくほど結び目が固くなる蜘蛛の巣のようだ。
「くっ……! 構造が読めない……! 関節の可動域を、3箇所同時にロックされてる!?」
「ほう? 初見にしてはいい反応だ。だが、ここをこうすれば……」
神父がクイッと体をひねると、わたしはまたしてもコロンと転がされ、両肩をマット(草地)につけられた。
「それっ、1・2・3!」
わたしは仰向けのまま、夜空を見上げてため息をついた。
そして、心からの感嘆と、敬意を抱かずにはいられなかった。
(……美しいわ。これが、ルチャ・リブレの深奥……)
前世で映像として見ていたものとは違う。肌で感じる、洗練された技術の重み。
隻腕というハンデすら、相手の意表を突く武器に変え、力を使わずに相手を制する。
それは、相手を傷つけるための「暴力」ではない。観客を魅了し、相手の技量すら引き出す、高潔な技術体系。
(神父様の隻腕というハンデがあってなお、この完成度……! レオのお父様は、本当に素晴らしい『達人』だったのね……)
わたしのような「悪役」が輝くのは、こうした光のような技術を持つ「善玉」がいてこそだ。
喪われた名ルチャドールへの敬意が、胸の奥から湧き上がる。
「勉強になりますわ、神父様。……このリズム、『3カウント』の重み、魂に刻んだわ」
わたしが起き上がると、それまで食い入るように見ていたレオが、神父の前に駆け寄った。
「神父様……! お願いします! 俺に、今の技を教えてください!」
レオは必死な目で訴えた。
「俺、強くなりたい! あんな偽物の太陽じゃなくて……父ちゃんみたいな、神父様みたいな、本物の強さが欲しいんだ!」
神父は、レオを静かに見下ろした。その表情は、厳しかった。
「レオ。……この道は、決して楽なものではないぞ」
神父は、自分の失われた右腕の袖を握った。
「今のこの国のリングは、カルテルと魔薬に汚染され、支配されている。そこには、かつてのような希望も、誇りも見出せないかもしれない。……私のように、何かを失うことになるかもしれないのだぞ」
「それでも……!」
レオは引かなかった。
泥だらけの拳を握りしめ、真っ直ぐに神父を見つめ返した。
「それでも俺は、父ちゃんのマスクを被って戦いたい! 逃げたくないんだ!」
その瞳に宿る、小さな、けれど決して消えない炎。
神父はしばらくその目を見つめ――やがて、ふっと表情を緩めた。
「……そうか。お前も、やはり『鷲』の子か」
神父はレオの頭に、残った左手を置いた。
「いいだろう。その覚悟、私が受け取った」
神父はわたしの方を見て、ニヤリと笑った。
「どうやら、今夜は長い夜になりそうだ。……お嬢さん、すまないがパートナーを頼めるかね?」
「ええ、もちろんですわ」
神父はレオの背中をバンと叩き、草地の真ん中へ促した。
「さぁ、リングに入りなさい。……まずは受け身からだ。夜明けまで、たっぷりと叩き込んでやる!」
「はいッ!!」
既に日は沈み、月明かりの下、手作りのリングで老人と少年の特訓が始まった。
何度も投げられ、転がり、それでも立ち上がる小さな影。
その姿を見ながら、わたしはアリスとミリアに囁いた。
「……ねえ、二人とも。明日の『演出』、少し変更よ」
「え? どうするの、レヴィちゃん?」
わたしは、必死に食らいつくレオを見つめながら、ニヤリと笑った。
「もし……万が一、レオが明日の前座試合で勝利したなら。……メインイベントの後に、『ボーナス・ステージ』を用意してあげるわ」
「ボーナス・ステージ?」
「ええ。前座の勝者と、メインの勝者。……真の最強を決める『頂上決戦』よ」
ミリアが息を呑む。
アリスが「なるほどね!」と悪戯っぽく笑う。
「あの子が自分の力で前座を勝ち抜いたら、わたしが最後に『壁』になってあげる。……最高の花道を作ってあげるわ」
そのためには、わたしも絶対に負けられない。
そして、レオも絶対に勝たなければならない。
「さあ、わたしたちも仕上げにかかるわよ。アリス、ミリア。明日は会場全体を巻き込んだ大舞台よ!」
「了解! 聖女パワー全開で行くよ!」
「お任せください! 観客全員の胃袋を掴む準備は万端です!」
チームの士気は十分だ。
明日は、この国が変わる日だ。
わたしの「漆黒の玉座」が、偽りの太陽を叩き落とし、小さな鷲を羽ばたかせる。
月明かりの下での特訓。マテオ神父の技術は本物でした。レヴィが描く「最高のシナリオ」に向けて、準備は万端です。次回、国立闘技場で運命のゴングが鳴り響きます!
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