第049話 邂逅:その少年は『悪役』に憧れていた。……なら、見せてあげるわ。本物のヒールを
翌日。
屋敷はまだ、弟の誕生を祝う祝祭の熱気に包まれていた。
父ユリスは親バカ全開でゆりかごにへばりつき、ミリアとアリスは厨房でお祝いの特別メニュー(ミソ仕立ての鯛の尾頭付きなどという渋いものだ)の開発に勤しんでいる。
そんな喧騒から少し離れるように、わたしは一人、屋敷の裏手へと足を向けた。
目指すのは、木立の向こうにひっそりと佇む「離れ」。
昨日、そこからこちらを見つめていた、小さな影の正体を確かめるために。
離れの庭は、綺麗に手入れされているものの、どこか寂しげな静寂に包まれていた。
色とりどりの花が咲いているのに、生命の熱量が感じられない。まるで、ここだけ時間が止まっているかのような。
その庭の片隅、大きな樫の木陰に、彼はいた。
車椅子に座り、膝に分厚い本を乗せ、じっと空を見上げている少年。
年齢は十歳くらいだろうか。けれど、その体躯はあまりに小さく、細い。
陶器のように白い肌、色素の薄い髪。触れれば折れてしまいそうな指先。
まとう空気は、生まれたばかりの弟とは対極にある――静かで、冷たい、「終わり」の予感。
わたしは、砂利を踏む音を隠さずに近づいた。
少年がビクリと肩を震わせ、ゆっくりと車椅子を回してこちらを向く。
「……あ」
わたしと目が合った瞬間、彼の虚ろだった瞳に、信じられないほどの光が宿った。
それは、恐怖でも警戒でもない。
憧れ、驚き、そして歓喜。
「本物、だ……。黒いドレスに、鉄の扇子……」
彼は震える手で車椅子の車輪を掴み、前のめりになった。
まるで、夢か幻を見ているような表情で、掠れた声を絞り出す。
「はじめまして、『北の撲殺令嬢』……。僕の、ヒーロー」
その瞬間、わたしの脳裏にフラッシュバックしたのは、かつての自分。
消毒液の匂いがする病室で、動かない体を呪いながら、それでも画面の中のプロレスラーに憧れ、焦がれていた、あの頃の「わたし」の姿だった。
(……ああ。この子は、わたしだ)
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
この子がここから動けずにいる間、どれだけの渇望を抱いて外の世界を見ていたのか。痛いほどにわかってしまう。
「……ヒーロー?」
わたしは感傷を振り払うように、パチンと鉄扇を鳴らした。
優雅に、そして傲慢に、悪役の仮面を被る。
「聞き捨てなりませんわね。わたくしはレヴィーネ・ヴィータヴェン。泣く子も黙る、天下の大悪党ですわよ?」
少年――ノアは、わたしの言葉に怯えるどころか、さらに瞳を輝かせた。
「知っています。……学園の決闘で、魔剣を椅子で叩き折ったこと。ラノリア王国で、悪い大人たちを全員投げ飛ばしたこと。……全部、知っています」
ノアは、膝の上の分厚い本を、宝物のように差し出した。
それは、本ではなかった。不器用な手つきで綴じられた、手製のスクラップブックだ。
中を見ると、帝都の新聞の切り抜きや、風の噂を書き留めたメモ、そして想像で描かれたであろう「私が大立ち回りを演じている挿絵」が、びっしりと貼られていた。
挿絵の中のわたしは、どれも凶悪な笑みを浮かべ、パイプ椅子を振り回している。
「……よく集めたものね」
「父様や母様が、お見舞いに来るたびに話してくれたんです。……『ヴィータヴェン家の娘が、また何かやらかしたぞ』って」
ノアは少しはにかんで、けれど真っ直ぐにわたしを見つめた。
「大人たちは『乱暴だ』とか『淑女らしくない』って言います。……でも、僕は違うと思います」
ノアの視線が、自分の動かない足へと落ちる。
「僕は、弱いです。病気で、歩くことも、走ることもできない。……この庭の外に出ることさえ許されない。理不尽な運命に、ただ縛られているだけです」
そして、再び顔を上げ、熱っぽい声で続けた。
「でも、レヴィーネ様は違う。……どんなに『常識』や『身分』や『数値』で縛り付けようとしても、それを全部へし折って、自分の足で立っている。……誰に何を言われても、自分の生きたいように生きている」
ノアの言葉は、確信に満ちていた。
「だから、僕にとっては……理不尽をぶっ飛ばしてくれる貴女こそが、一番強くて、一番かっこいいヒーローなんです」
――参ったわね。
そんな風に言われてしまっては、ヒールの仮面も形無しだわ。
わたしは、かつて前世で見た光景を思い出していた。
リングの上では凶器を振り回し、観客を罵倒する最凶のヒールレスラーが、難病と闘う子供たちの前では、誰よりも優しい顔で膝をつき、「お前こそが真のチャンピオンだ」とベルトを巻いてあげる姿を。
彼らは知っていたのだ。
リングの上の戦いなど、病魔という見えない敵と24時間戦い続ける彼らの苦しみに比べれば、エンターテインメントに過ぎないことを。
本当の「強さ」を持っているのは、小さな体で死の恐怖に立ち向かっている彼らなのだと。
わたしはドレスが汚れるのも構わず、ゆっくりとノアの前に片膝をついた。
目線を合わせる。
彼の瞳に映るわたしは、悪役令嬢ではなく、ただの一人の「戦友」として。
「……ノア、といったわね」
「は、はい」
「訂正してあげるわ。わたくしはヒーローではありません。……やっぱり、『悪役』よ」
わたしはニヤリと笑い、彼の手を取った。
冷たく、骨張った手。けれど、そこには確かに脈打つ命の鼓動がある。
「だって、そうでしょう? 良い子にしていれば神様が救ってくれるなら、あなたはとっくに元気になっているはずだもの」
「……!」
「理不尽な運命を押し付けてくる神様なんて、クソ喰らえよ。……そんな奴の言うことを聞く必要なんてないわ」
わたしは彼の手を、グッと強く握り返した。
「ノア。あなたは今、わたくしなんかよりもずっと過酷な場所で、たった一人で戦っているのね」
「え……?」
「見えない敵。鳴らされることのない終わりの鐘。……逃げ出すこともできない『死闘』。そんな戦いを、毎日続けている」
わたしは真剣な眼差しで、彼に告げた。
「誇りなさい。あなたは、強いわ。……わたくしが認める、立派な『戦士』よ」
ノアの目が見開かれ、やがて大粒の涙が溢れ出した。
「可哀想な子」という同情ではなく、「戦っている男」としての称賛。
それが、何よりも彼の魂を震わせたのだ。
「う、うぐっ……ひグッ……! ぼ、僕は……怖くて……いつも、泣いてばかりで……」
泣きじゃくる彼の手を離さず、わたしは言葉を継いだ。
「泣くんじゃありません、顔を上げなさい! ……戦士なら、涙を見せるな。敵に弱みを握られるわよ」
「は、はいッ……!」
ノアは必死に袖で涙を拭い、赤くなった目でわたしを睨み返そうとした。
その表情。その反骨心。
いい目だ。まだ、魂の炎は消えていない。
「気に入ったわ。……ノア、あなたと『同盟』を組んであげる」
「え……同盟、ですか?」
聞き慣れない言葉に、ノアが小首をかしげる。
わたしはニヤリと笑い、彼の手をさらに強く握りしめた。
「ええ、そうよ。でも、ただの協力関係じゃないわ。魂で繋がった、運命共同体。……私の故郷の戦場では、背中を預け合うパートナーのことを、親愛と敬意を込めてこう呼ぶの」
わたしは、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて告げた。
「――『兄弟』、とね」
「ブ、ブラザー……? 兄弟……」
「そう。血の繋がりなんて関係ない。同じ敵に立ち向かい、痛みを分かち合うなら、それはもう家族以上の絆よ。……今日から、あなたはわたしの『兄弟』だわ」
わたしは立ち上がり、ふんぞり返って宣言した。
「さあ、これからはこの『北の撲殺令嬢』が、あなたの隣につくわ。病気だか運命だか知らないけれど、そんなナメた対戦相手、最強のタッグチームでボコボコにしてやりましょう!」
「……ッ!!」
ノアの顔が、パァッと輝いた。
それは、病弱な少年の顔ではない。頼もしい相棒を得て、戦う覚悟を決めた一人の男の顔だった。
「はいッ! お願いします、姐さん!!」
「……ふふ。その呼び名も、悪くはないわね」
わたしは満足げに頷いた。
ギルベルトや道場の野郎どもと同じ、わたしの「身内」としての呼び名。
それを彼が口にしたということは、彼もまた、わたしの魂の系譜に連なる者としての覚悟を決めた証だ。
わたしは心の中で決意した。
この「兄弟」の戦いを、絶対に孤独にはさせない。
私の持てる全ての知識(前世の記憶)と、物理(筋肉と栄養)を総動員して、この理不尽なデスマッチをひっくり返してみせる。
――そう、この時のわたしはまだ、信じていたのだ。
物理は万能だと。
努力と根性と、最強のタッグさえあれば、どんな壁でも壊せるのだと。
「命の期限」という、絶対的な壁の厚さを、まだ知らなかったから。
ノアと固い握手(タッグ結成)を交わし、病室を出たわたしは、そのまま母と弟のいる寝室へと向かった。
部屋に入ると、ちょうど授乳を終えた母イリーザが、慈愛に満ちた表情で赤ん坊をあやしていた。
窓からは暖かい日差しが差し込み、新しい命を祝福するように包み込んでいる。
「あら、レヴィーネ。おかえりなさい」
「ただいま戻りました、お母様。……弟の様子は?」
わたしが覗き込むと、弟はミルクの匂いをさせて、すやすやと眠っていた。
その寝顔は、悩みも苦しみもまだ知らない、無垢な光そのものだ。
「とっても元気よ。……そうそう、お父様と相談して、この子の名前を決めたの」
母は赤ん坊の小さな手を優しく握り、告げた。
「『ソレン』。……古語で『輝く太陽』を意味する言葉よ。あなたの名前が『月』だから、二人はお互いを照らし合う存在になってほしいと願って」
「ソレン……。素敵なお名前ですわ」
わたしは弟――ソレンの頬を、指先でそっとつついた。
温かい。生命力の塊だ。
この子は、これからのヴィータヴェン家を、そして未来を照らす「太陽」になる。守られるべき、希望の象徴。
そして。
わたしは窓の外、離れの方角へと思いを馳せた。
あそこには、もう一人の「弟」がいる。
太陽のような健やかさはないかもしれない。明日をも知れぬ闇の中にいるかもしれない。
けれど、その魂は、わたしと同じリングに立ち、背中を預け合うことを誓った「戦友」だ。
(……悪くないわね)
わたしは自然と笑みをこぼした。
未来を守り、継いでいくための、血を分けた弟・ソレン。
現在という過酷なリングを共に戦い抜く、魂の弟・ノア。
二つの異なる「命」が、わたしの人生に新たな意味を与えてくれている。
「ねえ、ソレン。早く大きくなりなさい」
わたしは眠る弟に囁いた。
「あなたには、最高にかっこいい『お兄ちゃん』も紹介してあげるから」
いつか、病気という理不尽をねじ伏せて、ノアとソレンと三人で、この庭を走り回る。
そんな、物理法則を無視したような奇跡のような未来も、今のわたしなら「力ずくで手繰り寄せてやる」と思えた。
守るべき希望と、共にある闘志。
二人の「弟」を得て、最強の悪役令嬢は、かつてないほどに満たされた気持ちで、青く澄み渡る空を見上げた。
さあ、トレーニングのメニューを組み直さなくては。
これからは、二人分……いいえ、三人分だもの。
病弱な少年との出会い。かつての自分と重ね合わせる、レヴィーネの優しさと強さを描きました。
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