天気予報
いつもと変わらない朝。
コーヒーメーカーがゴボゴボと音を立てて黒い液体を吐き出すのと同時に、テレビ画面の中で彼女が指し棒を振るった。
「――続いて、今日の天気です」
どこのプロダクションに所属しているのかもわからない、ただのお天気お姉さん。
名前すら知らないことに、今更ながら思い至る。
彼女の笑顔は液晶のドットが欠けているかのように、微妙に不自然だった。
「本日は高気圧の張り出しにより、全般的に視線が強い一日となるでしょう」
彼女は鮮やかなオレンジ色の太陽マークを日本列島に貼り付けた。
その太陽には、気味の悪い黒目が描かれていた。
「特に午後からは、ところにより強い監視が降る見込みです。外出の際は、傘を深く差すことをお勧めします」
味噌汁の湯気が、不自然なほど垂直に立ち上っている。
画面の右上に表示されたテロップには、明朝体ではっきりと『降水確率:視線 80%』と記されていた。
リモコンを掴み、チャンネルを変えてみる。
バラエティ番組の喧騒に、歯ブラシのCM。芸能人の不倫を伝えるニュース。
どこもおかしいところはない。
今の天気予報だけが、異物のように朝のルーチンに混入していた。
そういえば、そろそろハロウィンの時期だ。
勝手に納得した私はコーヒーを喉に流し込み、ネクタイを締めた。
玄関のドアを開けた瞬間、肌にへばりつくような湿気を感じた。
アパートの共用廊下を歩く背中に、熱を帯びた重みがかかる。
すれ違った学生が、私を見た。
ゴミ捨て場のカラスが、私を見た。
向かいの家の二階、揺れるレースのカーテンの隙間から誰かが私を見た。
そんな気がした。
会社に着く頃には、ワイシャツの背中は汗でぐっしょりと張り付いていた。
オフィスに入ると、同僚たちの挨拶はいつも通りだった。
「顔色が悪いね」
隣の席の課長が声をかけてきた。
心配そうな声色とは裏腹に、彼の瞳孔は針の穴のように収縮し、瞬き一つせずに私を射抜いていた。
私が早退を申し出ると、課長は口角だけで笑って承諾した。
逃げるようにアパートへ戻り、玄関の鍵を閉め、チェーンをかけ、覗き穴にガムテープを貼った。
カーテンをすべて閉め切り、部屋を闇に沈める。
ようやく、あのまとわりつく重圧から解放された。
どれだけ時間が経ったのか。
暗闇の中で、テレビの電源ランプだけが赤く灯っている。
気がつくと夕方のニュースの時間になっていた。
私は何かに操られるように、リモコンのボタンを押した。
砂嵐が一瞬走り、すぐにあの女が現れた。
背景のセットが変わっている。
日本地図ではない。
もっと近い……これは、私の住む街の地図だ。
さらにカメラが寄る。
それはまさに、私のアパートの周辺図だった。
「夕方をお知らせします」
女の声は、朝よりも低く、湿り気を帯びていた。
「現在、この地域には侵入前線が停滞しています。大気の状態が非常に不安定になっており、屋内でも局地的な開口が発生する恐れがあります」
彼女の指し棒が、地図上の赤い点を突いた。
そこは、私の部屋だ。
「これから夜にかけて、断続的に激しいノックが降るでしょう。窓や戸締まりを厳重に行っても、隙間風のような招かざる客にご注意ください」
唐突にテレビが消えた。
リモコンには触れていない。
部屋の隅にある冷蔵庫が、ブーンと低い唸り声を上げている以外に音はない。
静寂が、鼓膜を圧迫する。
私はソファの上で膝を抱え、息を殺した。
コン。
ふいに乾いた音がした。
壁の中から。
隣の部屋との境目にある、薄い壁。
コン、コン。
音が移動する。
壁の中を、何かが這い回っている。
大きく、重く、硬質な何かが壁紙のすぐ裏側を叩いている。
コンコンコンコンコンコン。
右の壁、左の壁、天井、そして床下――全方位からのノック。
ここは三階で、床下などあるはずがない。
下の階の天井裏から叩いているのか?
それにしては、音が近すぎる。
まるで、フローリングの板一枚隔てたすぐそこに、誰かが張り付いているようだ。
「……あ」
思わず声が漏れた。
閉め切ったカーテンの向こう、窓ガラスの外側に人影が見えた。
ここは三階で、ベランダはない。
ぴたりとガラスに顔を押し付け、誰かがこちらを覗き込んでいる。
カーテン越しでも、その輪郭が歪に押し潰されているのがわかった。
テレビの女の言葉が脳裏をよぎる。
逃げ場はない。
私は再び、真っ暗なテレビ画面に目を向けた。
黒い画面に、私の青ざめた顔が映り込んでいる。
いや、違う。
私の顔をした、あのお天気お姉さんがこちらを見ている。
映り込んだ彼女の口が動いた。
「ところにより、内側からの決壊にご注意ください」
同時に、玄関の鍵が外れる音がした。
あなたの家にも。




