とある会計士の日常
カチャ、カチャ、カチャ……。
小気味よい、しかし硬質な音が、深夜のオフィスに響く。
会計士の本田にとって、そのリズムは何よりの精神安定剤だった。
電卓を叩く指先は、もはや思考を介さない。
長年の実務で培われた筋肉の記憶が、資料の数字を正確にトレースしていく。
貸方、借方。資産、負債。
世界はそれらが複雑に絡み合うバランスでできている。
左と右が一致したとき、そこに真実が生まれる。
逆に言えば、一致しない数字は、彼にとってこの世にあってはならない歪みだった。
「……まただ」
本田の手が止まる。
とある中小企業の決算処理。
地味な輸入雑貨を扱う、何の変哲もないクライアントだ。
しかし、試算表の貸借が何度計算しても合わない。
わずか6円。
しかし、6円のズレ。
通常、数億円規模の売上がある企業なら、数円の誤差など端数処理で消えてしまう塵のようなものだ。
多くの同業者は雑損失という便利なゴミ箱へ放り込み、さっさとコーヒーでも飲みに行くだろう。
だが、本田は違った。
彼は数字に対して病的なまでに潔癖だった。
6円の誤差は、6円分の説明のつかない現実が存在することを意味する。
彼は分厚い証憑の束を、最初からめくり直した。
コンビニのレシート、ガソリン代、交際費……感熱紙のインクが薄れたものまで、目を皿のようにして確認する。
午前2時。
空調の音がやけに大きく聞こえる。
ふと、一枚の奇妙な領収書が指に触れた。
それは、他のレシートとは明らかに異質だった。
古びた和紙のような手触りで、文字はインクではなく、筆のようなもので書かれている。
日付は、三ヶ月前。
但し書きには、ただ一文字。
『 禊 』
金額、6円。
「……なんだこれは」
経費で落ちるはずがない。
本田は鼻で笑いそうになったが、背筋を這い上がる奇妙な寒気がそれを押し留めた。
どこの店だ?
電話番号も住所もない。
訝し気に紙を凝視しながら、本田は小さくため息をついた。
右下に社判のような赤い印が押されているが、掠れていて読めない。
本田はその6円を除外して計算し直そうとした。
しかし、何度電卓を叩いても、その6円を計上しなければ、最終的なバランスが取れないのだ。
まるで、その奇妙な出費こそがこの会社の屋台骨を支えているかのように。
不意に、オフィスの自動ドアが開く音がした。
ウィーン……という機械音だけが、静寂を引き裂く。
「どちらさまですか?」
返事はない。
本田は椅子から立ち上がり、パーテーションの向こうを覗き込んだ。
誰もいない。
ただ、廊下の非常灯が緑色にぼんやりと光っているだけだ。
席に戻ろうとしたとき、モニターの光が瞬いた気がした。
スプレッドシートの数字が、生き物のように揺らいでいる。
いや、疲れ目だ。
本田はそう思って目頭を押さえ、再び椅子に深く座り込んだ。
たかが6円。
だが、この領収書を認めなければ、決算は終わらない。
終わらなければ、彼の日常は戻ってこない。
本田はまたも溜息をつき、その領収書を雑費として計上することにした。
キーボードに手を置く。
科目の雑費欄に『6』と打ち込み、エンターキーを押そうとした瞬間。
背後の暗闇から、じっとりとした視線を感じた。
誰かが立っているわけではない。
空間そのものが、自分を凝視しているような感覚。
ふと、彼はその領収書の裏を見た。
そこには、やはりかすれた筆の走り書きがあった。
薄くて読みづらいが、本田の視力はそれを捉えてしまった。
『代償:1名』
心臓が早鐘を打つ。
どういう意味だ。
馬鹿げている。
深夜の疲労が見せる妄想だ。
本田は雑念を振り切って強引にエンターキーを叩いた。
画面上の貸借差額がゼロになり、左右が見事に一致する。
「……よし」
安堵の息を吐いたその時、けたたましく電話が鳴った。
深夜2時過ぎのオフィスに、無機質な電子音が反響する。
外線ではなく、内線。
このフロアには、今、自分しかいないはずなのに。
恐る恐る、受話器を取る。
「……はい、本田です」
「……合いましたか?」
低く、くぐもった男の声だった。
ノイズ混じりで、まるで水底から話しているかのような。
「え……あ、はい。計算は、合いました」
本田は震える声で答えた。
職業病のようなもので、相手が誰であれ、仕事の成果を報告してしまう。
「そうですか。今回は安く済みましたね」
「ど、どちら様ですか? どうして内線を……」
「前任者も、優秀な方でしたよ。彼もまた、綺麗に合わせるのが好きだった」
前任者?
本田は記憶の片隅にあった話を思い出した。
そういえばこのクライアントの前任担当者は、確か半年前に突然失踪したとか。
過労による蒸発だと噂されていて、気にも留めていなかった。
この業界ではさほど珍しくもない。
「数字は嘘をつきませんから。ズレた分は、どこかから持ってこなくてはならない」
「何を言って……」
「貸方と借方。これで帳尻が合いました」
プツン。
電話が切れると同時に、冷たい手が彼の手首を掴んだ。
「……確かに頂戴します」
耳元で誰かが囁くと、本田の意識は黒い数字の羅列の中に吸い込まれていった。
翌朝、出社した同僚たちは、本田の姿が見当たらないことに首を傾げた。
彼のデスクには、完璧に仕上げられた決算書に冷え切ったコーヒー。
そして、液晶画面に『-6』という数字が点滅している電卓だけが残されていた。
帳尻合わせはあなた自身で。




