スローモーション
その瞬間は、時間が止まったかのようにゆっくりに感じると言われている。
しかし、それがいいのか、悪いのかは……。
弾かれた薬莢の輝きが視界の隅をかすめる。
空気が層を成して押し寄せ、それが弾になって正面から私へ向かっていると悟った。
距離は数メートルのはずなのに、すべてが遅延して流れていく。
銅色の頭部が空気の粒子を押し分け、弾道の前方に淡い歪みを生む。
その歪みの縁を、私は鮮明に見ている。
おかしい、とまず考える。
人間の認知能力は極限状況で加速するというが、これは明らかに加速などという速度の話ではない。
私は一秒の内部に無限の棚を設け、その一つ一つに思考を並べ替えている。
過去の景色、未来の可能性、失われた選択肢。
大掃除のときにだけ現れる押し入れの奥の箱のように、脳の隅に沈殿していた記憶が勝手に蓋を開け始めた。
小学生の頃、山間の川で溺れかけた瞬間を思い出す。
水面へ伸ばした指先が光を掴み損ねたままにじんだ感触。
その記憶と重なるように、銃口の閃光がまだ網膜の奥で揺らめいていて。
私は生き延びた夏休みの午後と、今迫る弾丸の起源とを比較して、そこに意味を探そうとしていた。
銅色の頭部はなお減速し、さらに細部を私に示してくる。
ゆっくりと回転する鋼鉄の外殻に細かい傷が刻まれているのが見えた。
誰かが装填の際に爪で引っかいたのか、それとも工場のラインで機械が残した瑕疵か。
その由来を推理するあいだに、私は自分がなぜ撃たれているのかを考えなくなっていた。
原因より観察が優先され、観察より回想があふれる。
大学の講義室で聞いた熱力学第二法則が脳裏に浮かんだ。
『閉じた系のエントロピーは増大する』
今の私は閉じた系だろうか。
もしそうなら、この弾丸は秩序を壊し、私の内部に熱死をもたらすエージェントだ。
思考は抽象にとどまり、現実の肉体から乖離していくように消えていった。
しかし弾頭が額に近づくにつれて、視界がじわりと赤く染まる錯覚を覚える。
弾丸はいまだ私に触れていないのに、脳が先回りして出血を描いていた。
恐怖は奇妙に希薄で、そして私は異常なほどに冷静で、恐怖を測定する余地すら思考に吸収され、客観的なデータの一部に格納されていく。
弾丸の先端が私の眉間へと滑らかにめり込んで、表皮が波のように揺れた。
頭蓋骨に届くまでの数ミクロンの推進ですら、私の内的時間は展覧会の回廊ほどに引き伸ばされた。
骨伝導の震動が始まる直前、私は自分の人生を棚卸しし終えたことに気づく。
愛した人の顔が並び、嫌悪した相手も場所も、取り違えた決断も整理され、もう取り落とす物はない。
そこでようやく、私という記録媒体に不確実性の増大が到達した。
硬質な衝撃が眉間の下で爆ぜ、白い閃光が頭蓋内に満ちる。
色も、過去も未来も、まばゆい白光に飲み込まれた。
無限に拡張されていた一秒が動きだす。
そして、私は全ての言葉を失った。
いや、今こそ言葉を得たのか。
ああ、これは……。
激しい痛み。
死の音。
黒。
。