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ワイパーが扇状に雨を弾くたび、黒い視界が一瞬だけクリアになる。

その反復だけが、この空間における唯一の秩序だった。


深夜の山道は生き物の内臓のようにうねっている。

ヘッドライトが切り裂く闇の先には、苔むした擁壁と、錆びついたガードレールが交互に現れては消えるだけだ。


アクセルを踏む右足に、微かな違和感があった。

なんとなく車の挙動が重い。

トランクに荷物は積んでいない。

後部座席も空だ。

それなのに、まるで湿った布団を何枚も積み込んだかのように、エンジンの唸りが苦しげな低音を響かせている。


ヘアピンカーブを曲がりきった先に、人影があった。


こんな時間に、こんな場所で?


そいつは傘もささず、路側帯の白線を踏んで立っていた。

ハイビームがその姿を白日の下に晒した。

灰色の作業着を着た男だ。

顔は俯いていて見えない。

男は親指を立てるわけでもなく、助けを求めるように手を振るわけでもない。

ただ、走行してくるこちらの車両に対し、へそのあたりを向けて直立している。


俺は瞬時に、無視することに決めた。

ハンドルを右に切り、速度を落とさないまま男の横を通過する。

すれ違う瞬間、横目で見た男の輪郭が、雨粒の向こうでぼやけた。


直後、車体がガクリと沈んだ。

タイヤがホイールハウスの内側を擦って、すぐに嫌な音が鼓膜を打つ。

思わずバックミラーに目をやる。

赤いテールランプが濡れたアスファルトを染めているだけで、後部座席には誰もいない。


はずだ。


だが、重力だけがそこにあった。

見えない鉛がシートに沈み込んだかのような、確かな質量。

サスペンションが悲鳴を上げ、ステアリングが泥に嵌ったように鈍くなる。


冷房を効かせているはずの車内が、急激に生温かくなったような気がした。

助手席の窓ガラスが内側から白く曇り始める。

まるで、隣に座る誰かの激しい呼吸が、ガラスに触れているかのように。


曇りは指のような形をとって、ゆっくりと広がっていく。


焦燥が喉元までせり上がる。

早くこの峠を抜けなければならない。

頂上を越えて明かりが見える場所まで下りれば、この不条理な物理法則も解除されるはずだ。

俺はアクセルを床まで踏み込む。

にもかかわらず、速度計の針は意志を持ったように左側へと傾いでいく。


二つ目のカーブで、また。


今度は女。

絵にかいたような白いワンピースが雨に濡れ、肌に張り付いている。

やはり通過する車両を待ち受けるように、路肩で静止している。


通り過ぎる。

通り過ぎようとした。


とたんに、車体の底がアスファルトを削る金属的な絶叫が響いた。

火花が散る気配がする。

車は今や、定員を遥かに超えた重量を背負わされているかのような挙動を示していた。

エンジンルームから焦げたような臭いが漂ってくる。


「……降りろ」


口から出た声は、あまりにも掠れていて、自分のものとは思えなかった。

返事はない。

かわりに、耳元のすぐ後ろ、ヘッドレストの裏側あたりから布が擦れるような衣擦れの音が聞こえる。

濡れた何かが、シートの革に吸い付く音。

俺は泣きそうになりながら、それでも車をなんとか走らせた。


三つ目のカーブが見えた。

やはり人影が並んでいる。


しかも、一人ではない。三人……いや、四人?

老人もいれば、子供もいる。

彼らは一列に並び、ただじっと、こちらを見据えている。


車が悲鳴を上げ、完全に停止する。

エンジンは唸り続けているが、タイヤは空転し、摩擦熱で白煙を上げているだけだ。

これ以上の積載は不可能だというのに、外にいる彼らはゆっくりと、重力に引かれる水のようにこちらへ歩み寄ってくる。


「入ってくるな!」


ロックを確認しようとドアノブに手を掛けた瞬間、俺は指先を止めた。


内側のドアノブが、ひとりでに小さく動いたからだ。

ガチャリ、という解錠の音が、狭い車内に過剰に響き渡る。

最初から乗っていた何かが、仲間を招き入れようとしているかのように。


雨音が遠くなっていく。


代わりに、車内を埋め尽くすほどの湿った呼吸音が、私の鼓膜を内側から圧迫し始めた。

運命が乗り込んでくる。乗車拒否はできない……。

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