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スイートホーム

「味、薄いですか?」


妻の祥子が、恐る恐る尋ねてきた。

食卓を挟んだ向かい側で、彼女は椅子に浅く腰掛け、両手を膝の上できつく握りしめている。

まるで面接官の前に座る学生のように、全身が強張っていた。


「いや、ちょうどいいよ」


俺は努めて優しく答えた。

だが、祥子の表情は晴れない。

視線は俺の顔ではなく、俺の手元あたりを不安げにさまよっている。


ここ数日、家庭の空気は最悪だったような気がする。

俺が何を言っても、彼女は「はい」「申し訳ありません」と、他人行儀な敬語で返すばかりだ。

俺が微笑みかければ怯え、手を伸ばせばビクリと身をすくませる。


「そんなに緊張しなくていいだろ。夫婦なんだから」


俺は苦笑しながら、大皿の肉料理に手を伸ばした。

祥子が、ひっ、と小さく息を呑む。


「……おい、いい加減にしろよ」


カチャン、と食器を少し乱暴に置いた音が響いた。

祥子の顔から血の気が引いていく。


「なんでそんなにビクビクするんだ。俺が何をしたっていうんだよ」

「いえ、滅相もございません……。ただ、その、お気に召さなかったかと……」


また敬語だ。

俺の中で、抑え込んでいた苛立ちが沸点に達した。


「だから、その敬語をやめろと言ってるんだ!」


俺はテーブルを目いっぱい叩てから立ち上がった。

椅子が後ろに倒れ、床を派手に叩く。

祥子は悲鳴も上げず、脱力したようにその場へへたり込んだ。

涙で濡れた目で、懇願するように俺を見上げてくる。


「頼むよ、祥子。俺たちは愛し合って結婚したんだろ? 元通りの生活に戻ろうよ。な?」


俺は彼女を抱き起こそうと、ゆっくりと歩み寄った。

祥子が床を這って後ずさる。


「来ないで……お願い、乱暴はしないで……」

「乱暴なんてしない! 俺はお前の夫だろ!」


俺が叫んだ、その時。


玄関の方から、無機質な電子音が響いた。

スマートロックが解除される音だ。


俺は動きを止めた。

誰だ?

こんな時間に……合鍵を持っている親族か?


ゆっくりとドアが開く気配がする。

そして、聞き覚えのない、しかしひどくリラックスした男の声が廊下から届いた。


「ただいまー。いやぁ、ひどい雨だったよ。祥子、タオル取ってくれな……」


リビングのドアが開き、スーツ姿の男が顔を出した。

男は、へたり込む祥子と仁王立ちの俺を見て、ポカンと口を開けた。


「……え?」


時が止まったようだった。

俺も、男を凝視した。

なんだこいつは。

なんで俺の家に、俺の妻の名を呼びながら入ってきた?


「……誰だ、あんた」


俺が低く唸ると、男の顔が恐怖に歪んだ。

男の視線は、俺の顔ではなく、右手の先に釘付けになっている。


俺は誘導されるように視線を落とした。

祥子を抱き起こそうと伸ばしたその手には、いつの間にか、錆びついた刃渡り二十センチの牛刀が握りしめられていた。


「え……?」


さらに視線を下げる。

フローリングの床に、泥だらけの汚れたスニーカーが食い込んでいる。

思わず横を向くと、窓ガラスに映る自分の姿が目に入った。

伸び放題の髭に、垢じみたパーカーと、焦点の合わない、血走った目。


どこからどう見ても、指名手配犯の顔だった。


「逃げて!! あなた!!」


祥子の絶叫が、静寂を切り裂いた。

「あなた」と呼ばれたのは、もちろん俺ではない。

入り口で固まっている、あのスーツの男だ。


記憶の蓋が、ずれていく。


そうだ。

俺は腹が減っていた。

逃げて、逃げて、たまたま鍵の開いていた勝手口を見つけた。

そこにいた女を脅して、飯を作らせた。

恐怖に支配された彼女は、俺に従うしかなかったのだ。


俺の"夫婦ごっこ"に。


スーツの男が慌てて廊下へ駆け戻り、スマホを取り出す気配がする。


「け、警察! 今すぐ!」


と叫ぶ声が遠のいていく。


俺は呆然と、手の中の凶器を見つめた。

短い夢を見ていたのか。

温かい家庭、優しい妻、そんなものが自分にあるという、都合のいい夢を。


「……冷めちまった」


テーブルの上に並んだ料理を見つめる。

小さな、誰に聞かせるつもりもない独り言だった。

極限状態では、人は夢を見るそうです。

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