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タイムキーパー

牧村は、人生における「継ぎ目」を何よりも憎んでいた。


エレベーターが到着するまでの十数秒、コーヒーメーカーが黒い滴を落とし終えるまでの数分。

あるいは恋人が別れ話の最中に言葉を詰まらせ、鼻をすする間の沈黙。

それらは彼にとって、腐敗した果実のように無価値で、ただ捨てられるべきゴミだった。


効率こそが美徳であり、停滞は罪だ。

そう信じて疑わない牧村が、会員制のサロンでその男を紹介されたのは必然だったのかもしれない。


男は、自らを「タイムキーパー」と名乗った。

年齢不詳の怪しい人物は、整いすぎた顔立ちは蝋細工のようで、瞬きの回数が極端に少なかった。

グレーのスーツは皺ひとつなく、彼の周囲だけ空気が真空パックされているかのような静謐さがあった。


「あなたの人生から、不要な『間』を剪定して差し上げましょう」


男の声は、よく磨かれた銀食器が触れ合うような響きを持っていた。


「剪定、ですか」

「ええ。庭木と同じです。美しく伸びるためには、余計な枝葉を切り落とさねばならない。あなたの無駄を、私が代わりに引き取ります」


契約は口頭のみで成立した。

報酬は後払い、成功報酬だという。

半信半疑だった牧村の日常は、翌日から劇的に変化した。


朝、目が覚める。

ベッドから起き上がろうとして、ふと二度寝の誘惑に駆られた瞬間――。

次の瞬間には、彼はすでに洗面台の前に立ち、歯を磨き終えていた。

布団の中でうだうだする時間は、綺麗に切り取られていたのだ。


通勤電車も様変わりした。

ホームでの待ち時間はない。

改札を抜けた次の瞬間に、電車のドアが開いている。

満員電車に揺られる不快な時間は消失し、気づけばオフィスのデスクに座っていた。


仕事も同様だ。

資料作成に行き詰まり、天井を仰いでペンを回すような停滞はない。

思考が途切れそうになった瞬間、意識はジャンプし、完成した書類が目の前にある。


素晴らしい。

牧村は歓喜した。


人生が、編集された映画のように滑らかに進んでいく。

退屈も、焦燥も、徒労もない。

全ての瞬間が生産的で、意味に満ちていた。

タイムキーパーの姿はどこにも見えなかったが、牧村が「無駄だ」と認識した瞬間に、不可視のハサミが入り、世界を繋ぎ変えているのだと分かった。


しかし、良いことだけではないと気づいたのは、三ヶ月が過ぎた頃だった。


母親の葬儀でのことだ。

焼香の列に並んでいる最中、牧村はふと、足の痺れを気にした。

その瞬間、視界が切り替わった。


彼はすでに火葬場の前に立っていた。

僧侶の読経、親族の涙、棺に花を手向ける別れの儀式。

それら全てが「生産性のない時間」として剪定されていた。

悲しみに浸る間も、涙を流す時間も、彼には与えられなかった。

結果だけが手元に残る。

母はいつの間にか骨になっていた。


牧村の胸に、重たい澱のような違和感が溜まり始めた。


その夜、彼は自宅のソファでウイスキーをあおった。

酔いが回るのを待とうとしたが、グラスを傾けた直後、彼は強烈な頭痛と共に翌朝を迎えていた。

酔う過程も、まどろみもカットされたのだ。


休息がない。


肉体は休んでいるはずなのに、精神が追いつかない。


彼は常に活動し、常に成果を出し、常に前進し続けている。

息継ぎをするための無駄な時間が、彼の人生から完全に排除されていた。


「契約を解除させてくれ!」


牧村は虚空に向かって叫んだ。

すると、部屋の隅、光の届かない影の中にあの男が立っていた。

一ヶ月前と変わらぬ、蝋細工のような無表情で。


「なぜです? あなたはかつてないほどの成功を収めている」

「疲れるんだ。心が休まらない。無駄な時間も……俺には必要だったんだ」

「ふむ。人間とは実に勝手な生き物だ」


タイムキーパーは、ポケットから銀色の懐中時計を取り出した。


「しかし、途中解約には違約金が発生します」

「ああ、金なら払うよ。いくらだ」

「金銭ではありません」


男は細く長い指で、文字盤を撫でた。


「私があなたから剪定した枝葉……途中で契約を破棄するならば、それらを全てお返ししなければなりません」

「それこそ俺が望んでいるものだ。返せ、今すぐに」


牧村は苛立ち紛れに叫んだ。


「承知しました」


男がリューズを押し込んだ。

カチリ、という乾いた音が部屋に響く。


世界が、急停止した。


牧村の体は、指一本動かせなくなった。

瞬きすらできない。

視界の端で、壁掛け時計の秒針が止まっている。

だが、意識だけは鮮明だった。


エレベーターを待つ無味乾燥な時間。

信号が変わるのを待つだけの空白。

眠れぬ夜に天井の木目を数える虚無。

渋滞の車列で排気ガスを吸いながら過ごす徒労。


この一ヶ月間で切り捨ててきた膨大な「何も起きない時間」が、本来の速度で再生され始めた。


牧村は動けないまま、ただ白い壁を見つめ続けることを強いられた。

時間が無限のように感じる。

何もすることがない純粋な空白としての時間は、拷問に近い苦痛を伴っていた。

思考を逸らすことも、眠ることも許されない。

ただ、圧倒的に希薄な時間が、彼の精神をヤスリのように削っていく。


視界の隅にいるタイムキーパーは微動だにせず、ただ彼を見守っている。

その目が、楽しげに歪んだように見えた。


(違う、そういうことじゃない)


牧村は心の中で絶叫する。

彼が切り捨ててきた時間は、三ヶ月分にも及ぶ。


牧村はこの先、数百時間、あるいは数千時間にわたって、この身動きの取れない状態で過去の「暇」を消化し続けなければならなくなった。


壁の時計の秒針は、まだ一度も動いていない。

一日何時間あれば、あなたは満足ですか?

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