あと一センチ
築四十年を過ぎたこのアパートの建具が歪んでいることは、入居した当初から知っていた。
湿気を吸った柱が傾き、鴨居が下がる。
畳の目がささくれ立つ。
そういった古い建物特有の呼吸のような劣化は、生活の一部として許容していたはずだった。
けれど、あの襖だけはどうしても無視できなかった。
寝室と居間を仕切る、色褪せた山水画の襖。
それを閉め切ろうとすると、最後の最後で何かに反発するように止まってしまう。
柱と襖の縁の間に、三センチメートルの隙間が残るのだ。
定規で測ったわけではない。
だが、私の人差し指を差し込むと、第一関節までが吸い込まれるようにぴったりと収まる。
その感覚が、三センチという数値を私の脳裏に焼き付けていた。
最初は、溝にゴミが詰まっているのだと思った。
私は爪楊枝を持ち出し、敷居の溝を丁寧にさらった。
埃の塊や乾いた米粒がいくつか出てきたが、それを取り除いても状況は変わらなかった。
襖の滑りは滑らかで、スルスルと音もなく動く。
しかし、柱に当たる寸前になると、見えないゴムの塊にぶつかったかのように押し返される。
ガン、と当たる硬質な音ではない。
なにやら柔らかいような、どこか有機的な弾力。
一度、力任せに押し込んだことがある。
襖はミシミシと悲鳴を上げ、柱に密着した。
閉まった、と思った瞬間、手を離すとまたスルスルと戻る。
まるで、そこにある空間が、自分自身の領分を主張しているかのように。
それ以来、私はその隙間が気になって仕方なくなった。
夜、布団に入ると、その黒い縦線が視界の端にちらつく。
隣の居間の電気は消してあるから、襖の向こうもこちら側も、同じ闇だ。
それなのに、隙間にある闇だけが周囲よりも一段階濃く、ねっとりと澱んでいるように見えた。
ある晩、私は妙な音で目を覚ました。
シュッ、シュッ、という布が擦れるような微かな音。
それは枕元ではなく、あの隙間から聞こえていた。
私は身じろぎもせず、薄目を開けて闇を見つめた。
黒い帯の幅は変わっていないが、隙間の闇が揺らいでいる気がした。
「……いい加減にしろ」
恐怖よりも、神経症的な苛立ちが勝った。
私は布団を跳ねのけ、起き上がると、襖の前に立った。
確かめるように指を差し込むと、ひやりとした空気が指先を撫でた。
私は両手を襖の縁にかけ、全体重を乗せて右側へ押し込んだ。
ふに、という弾力。
構わず押し込む。
抵抗が増す。
まるで、密度のある水飴を圧縮しているようだ。
あと一センチ。
その時だった。
指先に、ぐりっ、という奇妙な感触が伝わった。
木材や建具の軋みではない。
生の軟骨を無理やりすり潰したような、鈍く湿った感触。
『う』
耳ではなく、脳の芯に直接響くような、短く乾いた音がした。
声……のようにも思えたが、空気が漏れる音に近い。
次の瞬間、襖は乾いた音を立てて柱に激突し、ぽっかり空いていた隙間が消滅した。
私は荒い息を吐きながら、手のひらを見つめた。
脂汗が滲んでいるだけで、何もついていない。
敷居を見る。
何も挟まっていない。
勝ったのだ、と私は自分に言い聞かせた。
長年の建付けの悪さを、力でねじ伏せたのだ。
私は布団に戻り、久しぶりに訪れた完全な密室の安堵感の中で眠りについた。
翌朝、目が覚めると、部屋の空気が妙に重苦しいことに気づいた。
気圧が下がっているような、耳の奥が詰まるような感覚。
私は無意識に襖を見た。
閉まっている。
昨夜と同じく、完璧に。
私は安堵の息を漏らし、起き上がろうとして――動きを止めた。
違和感の正体に気づいたからだ。
襖は閉まっていたが、昨日まではなかったはずの、おかしな歪みが生じていた。
襖の中央部分が、まるで妊婦の腹のようにこちら側へ向かって緩やかに膨らんでいる。
紙がたわんでいるというよりも、その奥にある骨組みごと、内側から強い力で圧迫されているようにぱんぱんに張り詰めている。
私は恐る恐る近づき、その膨らみに手を触れた。
紙越しに伝わるのは、木の硬さではなかった。
人肌ほどの、生温かい熱。
そして、トクトクと脈打つ、規則的な振動。
あの隙間にあった何かは、外へ追い出されたのではなかった。
行き場を失い、この薄い襖の中で押し潰されながらも留まっているのだ。
――ミシッ。
膨らみの頂点あたりで、紙が裂ける音がした。
ほんのわずかな亀裂。
そこから覗く色は、闇の黒ではなく、充血したような赤黒い色だった。
私は後ずさりをした。
亀裂がじわりと広がり、裂け目はゆっくり、ゆっくりと縦に伸びていく。
これが開いたら、中から何が覗くというのだろうか。
裂け目から、生温かい風が漏れ出した。
それは、私が昨夜聞いた『う』という音の続きのように、低く、長く、私の頬を撫で上げていく。
ああ。
あと一センチ。
何が出てくるのかは、想像にお任せします。




