エコーチェンバー
防音扉が重たい音を立てて閉まると、世界は鼓膜を圧迫するほどの静寂に包まれた。
一畳ほどの広さしかない録音ブースは、壁も天井も、淡い灰色の吸音材で埋め尽くされている。
その表面の無数の凹凸が、まるで得体の知れない微生物の群れのように見えて、俺は軽く目をこすった。
深夜のナレーション収録。
疲労が視神経に悪さをしているに違いない。
ヘッドホンを装着し、マイクの前に立つ。
目の前のガラス越しに見える調整室は照明が落とされており、暗い水槽の底のようだ。
エンジニアの姿はおろか、機材のランプすらよく見えない。
手元のカフボックスにある赤いランプだけが、回線が生きていることを無機質に主張していた。
「……あー、あー。マイクテスト。本番、行きます」
俺は原稿に視線を落とした。
製薬会社の社内用ビデオのナレーションだ。
無味乾燥なテキストが並んでいる。
『副作用の報告は、直ちにデータベースへ登録してください。繰り返します。直ちに——』
読み上げた瞬間、違和感が走った。
ヘッドホンから返ってくる自分の声が、コンマ数秒だけ遅れているような気がしたのだ。
デジタル機器特有のレイテンシーだろうか。
いや、それにしては妙に粘り気がある。
俺が発した言葉が、どこか遠い場所を経由して、得体のしれない湿度を帯びて戻ってきたような感覚。
妙だなとは思いつつも、続けようとした。
『登録を怠った場合、重篤な——』
不意に、俺は言葉を詰まらせた。
「重篤」のイントネーションを噛んだ気がしたからだ。
言い直そうと息を吸い込む。
しかし、ヘッドホンの中の俺は止まらなかった。
『——重篤な健康被害が拡大する恐れがあります』
完璧な滑舌だった。
俺は口を閉ざしている。
喉も震えていない。
なのに、耳元の音声は俺の声色、俺の呼吸、俺の間合いで、原稿の続きを流暢に読み進めている。
「……おい、なんだこれ」
俺はマイクに向かって呟いた。
だが、ヘッドホンからはその呟きは聞こえない。
ヘッドホンの中の俺が、まったく別の文章を読み上げ続けている。
『あなたは、自分の声が自分だけのものだと信じていますか?』
ハッとして原稿を見る。
そこには確かに「健康被害が……」と書かれているはずだった。
だが、インクが紙の上で生き物のように滲み、文字が組み替わっていく。
『音は波です。波は反射し、干渉し、やがて元の形を失う。この部屋は完璧な反響室。あなたの言葉は壁に吸われ、選別され、正しい形になって戻ってくる』
「ふざけるな! おい、モニター! 向こうで何やってる!」
俺はガラスを叩こうと手を伸ばした。
しかし、指先がガラスに触れる寸前、動きが止まった。
暗いガラスに映っている俺の顔にある口が、動いていなかった。
俺は今、叫んでいるはずなのに。
ガラスの中の俺は、冷ややかな無表情で俺を見つめ返している。
耳元の声が、音量を増した。
『叫ぶ必要はありません。私が代わりに話しますから』
ヘッドホンを外そうと手をかける。
だが、プラスチックのイヤーパッドが、まるで皮膚と融合したかのように外れない。
側頭部に食い込み、骨と一体化していくような激痛が走る。
『不要なノイズは除去します』
ブツッ、という電子的なノイズと共に、俺の喉から音が消えた。
声が出ないのではない。
声帯が振動し、空気を震わせている感覚はあるのに、それが音として認識されないような。
この部屋の全てが、俺の発する音を瞬時に食らい尽くしているかのように。
残ったのは、ヘッドホンから脳髄へ直接注ぎ込まれる、流暢すぎる俺の声だけ。
『あなたの存在は、すべて私が最適化してアウトプットします』
俺の意識が、急速に遠のいていく。
足元の感覚がなくなる。
床の感触が消え、自分が宙に浮いているのか、それとも溶けて液体になっているのか分からなくなる。
ガラスの向こう、暗い調整室の中に誰かが立っているのが見えた。
あれはエンジニアじゃない。
マイクの前に立っているはずの、俺だ。
向こう側の俺は、満足げに頷いて手元のスイッチに手を伸ばした。
『では、本番終了です。お疲れ様でした』
プツン。
視界の中央にあった赤いランプが消えた瞬間、俺という意識の電源もまた暗い闇の底へ落ちていった。
最適化の先にあるものは。




