感謝の気持ちを込めて
圭介は、あの日のことを今でも鮮明に思い出せる。
蒸し暑い夏の日の夕暮れだった。
残業で疲れ果て、アパートへの道を死に体で歩いていたとき、ふと路地の片隅にある小さな祠が目に入った。
誰が管理しているのか、屋根は半ば崩れ、供えられた花は黒く萎びている。
魔が差した、としか言いようがない。
彼はその日、コンビニで買ったばかりのペットボトルのお茶を一口飲み、何を思ったか、その残りを祠の前にちょろちょろと垂らしたのだ。
「……お疲れさん」
誰にともなく呟き、彼はすぐにその場を立ち去った。
埃っぽい小さな善行か、あるいは、ただの気まぐれ。
圭介自身もその行為に深い意味など込めていなかった。
その翌朝。
アパートの自室、その鉄製のドアの前に何かが置かれていた。
てのひらほどの大きさの、妙に滑らかな黒い小石だった。
川底から拾ってきたような、つるりとした感触。
「……なんだ?」
圭介は首を傾げた。
カラスの仕業か、近所の子供のイタズラか。
彼はその石を拾い上げてゴミ箱に捨てた。
さらに次の日、ドアの前にあったのは、カラスのものと思しき濡れた羽根だった。
そのまた次の日は、乾燥した蝉の抜け殻が五つ、丁寧に並べられていた。
そして、その次の日には、まだ柔らかい小さなトカゲの死骸が。
これはイタズラではない。
何かもっと、得体の知れないものの気配がする。
彼はそう考えて、ドアスコープから廊下を覗いたが、人影はなかった。
しんと静まり返った、冷たいコンクリートの廊下が続いているだけ。
怪異は止まらなかった。
それどころか、贈り物は日々エスカレートしていった。
潰れたネズミ。
片方だけの、子供用の小さな靴。
どこかの家のものらしい錆びた表札の一部。
圭介は疲弊していった。
警察に相談しようかとも思ったが、何と言えばいいのか見当もつかなかった。
ドアの前にゴミを置かれる、とでも言えばいいのか。
一体、どこの誰に?
圭介は、あの日の行動を後悔し始めていた。
お茶などかけるのではなかった。
あれは何かの契約か、もしくはその合図だったのではないか。
ある朝、圭介はドアの前に置かれたものを見て、ついに短い悲鳴を上げた。
それは小さな段ボール箱。
箱の中には土が詰められており、その中央に隣の部屋の住人が連れていた、小さな犬用の首輪が置かれていた。
なにやら液体が付着しているようだったが、圭介はそれが何なのか確かめようともしなかった。
少し前、アパートの管理人に愚痴った言葉が脳裏にフラッシュバックする。
『隣の犬、夜中にうるさくて……』
思わずその場にへたり込む。
すると、ドアの向こうから何者かのかすれた声が聞こえた。
「……感謝を……」
もうやめてくれと言ったら、どうなるのだろう。
圭介は石のように固まったまま、言葉を飲み込んだ。
小さな親切、大きな……。




