赤い傘
この季節は嫌いだ。
梅雨が始まってから、もう二週間近く経つ。
俺がアルバイトをしている古本屋は、駅前から続く寂れた商店街の、そのまた一番端にあった。
店内の空気は古い紙の匂いと湿気が混じり合い、苔のようになった埃が棚の隅に溜まっている。
その日も朝から強い雨が降り続いていた。
俺はカウンターに肘をつき、ガラス戸の向こうに広がる灰色の景色をぼんやりと眺めていた。
その時、ふと視界の端に強烈な色が差し込まれるのを感じた。
店の真向かい、今はもう誰も住んでいない、蔦の絡まった古い洋館の錆びた鉄門の前。
そこに、赤い傘をさした誰かが立っていた。
あまりにも鮮烈で強烈な赤。
このどんよりとした世界で、そこだけが別の法則で色づけられているかのようだった。
最初は、待ち合わせかと思った。
だが、その傘はピクリとも動かない。
傘の角度が深く、顔はもちろん、服装すらほとんど窺えなかった。
細身のシルエットだけが、雨の中にぼんやりと浮かんでいる。
一時間経っても、その赤い傘は動かなかった。
「あれ、気になるかい」
不意に背後から声をかけられ、俺はびくりと肩を震わせた。
いつの間にか店の奥から出てきていた店主が、俺の隣に立ち、同じ景色を見ていた。皺だらけの顔に、感情は浮かんでいない。
「……待ち合わせ、ですかね」
「雨が降ると、時々あそこにいるんだよ。随分と前からね」
店主はそれだけ言うと、また奥の薄暗がりに戻っていった。
それからだった。
雨が降る日に俺が店のカウンターに座ると、必ず赤い傘はそこにいた。
ある時は激しい土砂降りの中で、ある時は霧のような小糠雨の中。
同じ場所、同じ角度で、じっと動かずに立っている。
まるで地面から生えてきた毒々しいキノコのように。
気になり始めると、もう駄目だった。
俺の意識はカウンターの向こうの赤色に引き寄せられるようになった。
店の中の湿度が、日増しに上がっていく気がした。
古本の染み付いた匂いに混じって、微かに鉄錆のような、生臭い匂いが混じるようになったような。
蛇口をひねると、水道水が一瞬、薄赤く濁ってから透明に戻るときもあった。
何日かして、俺は豪雨の中、傘もささずに立っている夢を見た。
目の前にあの赤い傘がある。
傘がゆっくりと傾き、俺に差し出される。
受け取らなければ、と思う。
しかし体が鉛のように重く、動かない。
そして今日。
朝からバケツをひっくり返したような豪雨で、店は早々に閉めることになった。
店主は「気をつけて帰んなさい」とだけ言い残し、先に裏口から出ていった。
俺は、店の鍵を閉めて振り返る。
と、息をのんだ。
傘がいつもより、近い。
いや、そんなはずはない。
場所は同じだ。洋館の門の前。
だが、そうとしか思えなかった。
赤が昨日までよりずっと濃く、深く、ねっとりと輝いている。
雨音が、耳をつんざく。
俺は、なぜかそちらへ歩き出していた。
確かめなければならない、という強迫観念とも違う。
ただ、そこへ行かなければならない、という確信だけがあった。
ずぶ濡れになりながら、鉄門の前に立つ。
赤い傘は、俺の数メートル先で静かにそこにあった。
水滴が落ちる音が鳴る。
普通のアスファルトに落ちる音ではない。
もっと粘り気のある、何か柔らかいものに滴り落ちるような、不快な音。
傘の真下は、深い影になっていた。何も見えない。
「……誰か、待ってるんですか」
俺の声は、豪雨にかき消された。
赤い傘が、ゆっくりと音もなく、俺とは逆の方向へ傾けられる。
影がその顔を表すかのように。
生臭い、鉄の匂いが鼻をついた。
裏側には、布地であるはずの場所に無数の、何千、何万という、濡れて光る何かが集まっていた。
蠢き、重なり合い、まるでひとつの巨大な眼球のように脈打って。
雨音が、遠のいていく。
俺は自分の足元で、何かが変わっていくのを感じていた。
雨水が赤く染まっていく。
俺も。
傘は何も言わず、ただ俺がその色で満たされていくのを、静かに見守っている。
また一粒、傘の縁から滴り落ちた。
赤は美しく、目立つけれど……。




