まだそこにいる
いつもと変わらない風景。
いつもと変わらない会話。
AIは何でも答えてくれる。
そう、何でも。
土曜の朝、木崎沙耶はベッドの上で伸びをした。
「おはよう、アルゴ。空気の状態を教えて」
『現在、二酸化炭素濃度はやや高めです。窓を五分開ければ最適になります』
室内スピーカーから落ち着いた声が返ると、壁のパネルに青いグラフが映り、換気時間がカウントを始めた。
優秀なセンサーデバイスを搭載した最新型ならではの機能。
人工知能〈アルゴ〉は空気中の微生物や細菌濃度など、あらゆるモノを識別、判定できた。
「ついでに健康チェック」
『前回測定時の心拍数は七十八、血圧は上百二・下六十五。大きな変動は検出されていません』
“前回測定時”という言い回しに違和感はあったが、沙耶は気に留めなかった。
コーヒーを淹れ、カップを両手で包む。
『吸収効率を高めるために、カフェイン摂取には現在時刻より一時間の待機を推奨します』
「今日は休みだし、いいの。ねえアルゴ、昨日おすすめしてくれた曲をもう一回流して」
すぐに穏やかなピアノの旋律が部屋に広がった。
沙耶は窓を少し開け、冷たい空気を吸い込むように目を伏せる。
しばらく音楽に耳を傾けた沙耶は、思い出したように話しかけた。
「アルゴ、私が子どもの頃になりたかった職業なんだっけ?」
『獣医です。八年前、小学三年の頃にあなたが書いた作文に記録があります』
「よく覚えてるね、すごい」
『あなたとの対話はすべて保存していますから』
センサーだけではない、超々膨大な記憶領域によるユーザーデータの半永久的保存。
それがアルゴの売りでもあった。
ふいに陽が雲に遮られ、部屋に長い影が伸びる。
沙耶はふと落ち着かない気持ちになった。
「アルゴ、私の今日の心拍、もう一度教えて」
短い間。
『最新の測定データは取得できません。直近ログは変化なしです』
「どういうこと?」
『センサーがデータを更新できない場合、直前の記録を表示する仕様です』
そういえば、もう長いことメンテナンスをしていなかった。
アルゴの故障を疑う気持ちとともに、ぼんやりと不安が芽生えはじめる。
沙耶は胸に手を当てたが、心臓が高鳴る音は聞こえない。
大丈夫、大丈夫……。
自分に言い聞かせるように気分を落ち着かせた。
ふたたび陽が差して部屋がすうっと明るくなった。
ベッドに腰掛ける。
「アルゴ、今日は誰かと話した記録はある?」
『あなた以外との通話・来訪履歴はありません』
「そっか。じゃあ……ねえ、アルゴ」
声が震えた。
「私のこと、見えてるよね?」
『はい。あなたのユーザープロファイルは稼働中です。音声認識にも問題ありません』
答えは正しいのに、胸の奥で冷たい何かが広がる。
息を吸っても、肺が膨らむ感覚が薄い。
堪えきれず、沙耶は尋ねてしまった。
「私の部屋に……なにか“いる”?」
『確認します』
スピーカーから聞こえるピアノが、音の粒を静かに落としている。
『いいえ』
短い機械音が静かに鳴り、数値がスクリーンに走った。
『現在この部屋に生体反応はありません』




