会心の一撃
その言葉は、はじめインターネットの暗い片隅でだけ使われていた。
特定の、マイナーなフォーラムサイト。
意味不明な画像が貼られ、支離滅裂なテキストが流れ続けるスレッドの、決まって100番目の書き込みに、それは現れた。
『クリティカル・ヒット』
前後の文脈はない。
ただ、その一言だけが、無機質なフォントでそこにある。
俺がそれに気づいたのは、偶然だった。
仕事で扱うデータの海を漂流している最中に、たまたまその奇妙な儀式を見つけたのだ。
最初は、ただの悪ふざけか、内輪の符丁だと思っていた。
異変に気づいたのは、同僚のササキがきっかけだ。
彼は好奇心旺盛な男で、俺からそのフォーラムの話を聞くと、面白がって頻繁に覗くようになった。
「また出てましたよ、『クリティカル・ヒット』」
ある日の昼休み、ササキはそう言って笑った。
その声が、やけに乾いて聞こえたのを覚えている。
翌日、ササキは会社を休んだ。
三日後、彼は無断欠勤のまま、アパートで発見された。
警察の聴取はあっさり終わった。
曰く、彼は部屋中の壁という壁に、爪が剥がれるのも構わず同じ言葉を刻みつけていたという。
そして最後は、自分の頭部を鈍器で、何度も、何度も――。
「まるで自分自身に、致命的な一撃を与えようとするみたいだった」
共通の友人は、青ざめた顔でそう言った。
俺は、何も言えなかった。
恐怖に駆られて、俺はその言葉を調べ始めた。
それは、ただの言葉ではなく、概念と呼ぶべき何かだった。
その言葉を認識し、その意味を思考しようとした瞬間、何かが汚染される。
それはウイルスのように、思考の回路に侵入し、自己複製を始める。
ササキが見ていたフォーラムは、すでに閉鎖されていた。
いや、最初から存在しなかったかのように、ログの痕跡ごと消え失せていた。
そして、もう遅かった。
俺は、その言葉の意味を知ってしまった。
夜、眠れずに天井を見つめていると、耳の奥で低いノイズのような音が聞こえ始める。
(クリティカル・ヒット)
違う。
俺は考えていない。
(クリティカル・ヒット)
それは思考の隙間に、水が染み込むように静かに忍び寄る。
コーヒーを淹れようと立ち上がる。
マグカップを持つ手が、わずかに震えた。
カップが床に落ち、甲高い音を立てて割れる。
破片が、奇妙な模様を描いて散らばった。
これは、駄目だ。
俺はその言葉から意識を逸らそうと、無理やり仕事のデータをモニターに映し出した。
数字とグラフの羅列。
無意味な記号の群れ。
必死に指を動かし、キーボードを叩く。
だが、指が勝手に、ある特定のパターンを刻み始めた。
不規則なリズム音が部屋に響く。
モニターのカーソルが、空白のテキストファイルの上で点滅している。
やめろ。
動くな。
俺の意志とは無関係に指が踊り、ディスプレイに文字が打ち込まれていく。
『ク』 『リ』 『テ』 『ィ』 『カ』 『ル』 『・』 『ヒ』 『ッ』 『ト』
その瞬間、世界から音が消えた。
俺の頭の中で、何かが合致した。
まるで、ずっと探していたパズルの最後のピースが、脳幹に叩き込まれたような鋭い快感。
すべてが、一本の線で繋がる。
これは、呪いなどではない。
これは、啓示だ。
世界の真の形を理解するための、最後の鍵。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
足元に散らばったカップの破片を踏みしめる。
鋭い痛みが足の裏を走るが、もはやどうでもよかった。
俺はただ、モニターに映し出されたその言葉を見つめている。
口の端が、自然と吊り上がっていくのが分かった。
さあ、渾身の一撃を。
会心の一撃を。
急所に。
世界に叩き込むのだ。
完璧な一撃ほど美しい。




