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マラソン

スタートの号砲が、乾いた空気を震わせた。

一斉にアスファルトを蹴る無数の靴音。

俺もその一人だった。

高揚感と、これから始まる四十二キロの苦行への覚悟が入り混じる。


最初の五キロは、いつも通りだった。

集団はまだ固まっている。

沿道には、まばらだが応援の姿もある。


「頑張れー!」

「気合入れろ!」


甲高い声援が、風に乗って耳を通り過ぎていく。


十キロ地点。

少しずつ集団がばらけてくる。

俺は練習通りのペースを刻んでいた。

妙だ、と思ったのはその時だ。


さっきから、同じ形のビルが視界の端に見え隠れしている。

気のせいか。


マラソン中は、思考が鈍る。

集中が途切れると余計なことを考えてしまう。


十五キロ。

給水所が見当たらない。

フルマラソンで、こんなことはあり得ない。


喉が焼けるように渇き始めている。

ふと、隣を走る男を見た。

ゼッケン番号、305番。

痩せて頬骨の浮き出た男だ。

男は、一切の汗をかいていなかった。

その目は虚ろで、焦点が合っていない。

ただ足を機械のように正確なリズムで前へ、前へと動かしている。


俺は恐ろしくなって速度を落とした。

男は気づく様子もなく、同じペースで遠ざかっていく。


二十キロ。

中間地点。

沿道の応援がいつの間にか消えていた。

代わりに、道端に等間隔で立つ何かがいる。


人ではない。


古びた、服を着せられたマネキンだ。

何十体、いや、何百体も。

そのプラスチックの目は、俺たちランナーを追っている。

笑顔のまま、首がゆっくりと、俺の動きに合わせて、回る。

回る。

回っている。


足を止めたい。

リタイアしたい。


だが、足が止まらない。

まるで俺の意思とは無関係に、見えない糸で引っぱられているように。


前に進むしかない。


「おい」


俺は肺から声を絞り出した。

前を走る、赤いウェアの女に。

だが女は振り返らない。


「聞いてんのかって」


肩を掴もうと手を伸ばす。

その距離がどれだけ必死に腕を伸ばしても、縮まらない。

届かない。


なんだこれは。


三十キロ。

苦しいはずだ。

乳酸が溜まり、呼吸は限界。


なのに、体は奇妙なほど楽だった。

楽というか、感覚が麻痺しているような。

足裏がアスファルトを掴む感触も、肺が酸素を求める苦しさも、感じるようで感じない。


ただ、走らされている感覚。

一体何のために?


三十五キロ。

景色は、スタート地点からほとんど変わっていない。

灰色のビル群に曇天の空、無音の世界。


ランナーは減っていない。

むしろ、増えているようにさえ感じる。

みんな揃って、305番の男と同じ目をしていた。


四十キロ。

もうすぐだ。

もうすぐこの悪夢から解放される。


ゴールゲートが見えてきた。

『FINISH』の文字が、やけに滲んで見える。

安堵で、膝が笑いそうになる。


ゲートをくぐった瞬間、そこに広がっていたのは、ゴールテープでもタオルを渡すスタッフでもなかった。


スタートラインだ。

俺が数時間前に立っていた、あの場所。


ただ呆然と周囲を見渡す。

虚ろな目をしたランナーたちが、次々とゲートをくぐってスタートラインに整列していく。

305番の男も、赤いウェアの女もいる。

全員が、まるで最初からそうだったかのように、静かに前を向いて。


乾いた号砲が、間もなく空気を震わせた。


俺の足が意思に反して、弾かれるように一歩目を踏み出す。

アスファルトを蹴る、無数の靴音。

高揚感など、どこにもない。


また始まる。

永遠に終わらない、四十二キロが。

ランナーズハイ!

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