煙草
彼がその煙草を吸い始めたのは、いつからだったか。
『アウルム』と名付けられた、鈍い金色のパッケージ。
近所の古びた煙草屋の隅に、埃をかぶって置かれていたものだ。
店主の老婆は、それを売る時、何も言わずに薄気味悪い笑みを浮かべただけだった。
最初の一服で、彼は奇妙な違和感を覚えた。
煙の匂いが、知っているものと全く違った。
キャラメルのような甘ったるさの奥に、錆びた鉄がこすれるような、微かな金属臭が混じっている。
そして、煙がやけに重かった。
ベランダで吐き出すと、煙はすぐに霧散せず、まるで油のように粘り気を持ちながら、床を這うようにゆっくりと広がっていく。
風が吹いても、その流れに逆らうように室内へと染み込もうとする。
「まるで生きてるみたいだ」
彼はあいまいに揺蕩う煙をみつめながら呟いた。
その奇妙な風味と重い吸いごたえが、妙に癖になっていた。
数日後、彼は部屋の変化に気づいた。
換気扇を回し続けても、あの匂いが壁紙やカーテンに染み付いて取れない。
それはヤニの匂いとは異質で、部屋の空気がよどんだ水のように重く、湿っている。
壁紙が変色を始めた。
それも、均一な変色ではない。
天井の隅から、まるで墨汁を垂らしたかのように、じっとりとした黒ずんだシミが浮かんでいる。
彼は他の銘柄を試してみた。
だが、どれを吸っても味がしなかった。
まるで乾いた砂を噛んでいるようで、吐き気だけがこみ上げてくる。
結局、彼はいつもの煙草に火をつけるしかなかった。
あの金色の箱だけが、彼の乾きを癒す唯一のものになっていた。
ある朝、彼は自分の指先を見て息を呑んだ。
煙草を挟む人差し指と中指が、黒く変色している。
タールの汚れではない。
まるで皮膚の下、肉そのものに、濃い影が染み込んだかのように。
石鹸でどれだけこすっても、その色は薄まることすらない。
爪の生え際が、腐敗したように汚れていた。
視界もおかしくなってきた。
世界から彩度が失われていく。
鮮やかな赤も青も、すべてが色褪せたセピア色のフィルター越しに見える。
唯一、あの金色のパッケージだけが、異様な輝きを放って見えた。
咳をすると、痰ではなく、黒く細い糸のようなものが喉からこぼれ出た。
それは指先で潰すと、あの甘く錆びた匂いを放って消えた。
もう、何日も部屋から出ていない。
煙草の箱も、残りわずか。
彼は最後の一本を咥え、火をつける。
深く、深く吸い込むと、肺があの重い煙で満たされる。
吐き出した煙は、もはや彼の周囲を漂うだけではなかった。
煙は生き物のように彼の腕にまとわりつき、服の隙間から、そして毛穴から、ゆっくりと皮膚の内側へと染み込んでいく。
痛みはなかった。
ただ、冷たい感覚が彼の全身を這い回る。
彼は、黒ずんだ自分の手を見下ろす。
変色はすでに手の甲を覆い、手首を越え、腕へと広がっていた。
皮膚が、まるで灰でできているかのように見える。
焼身死体のように。
彼はベランダの椅子に深くもたれかかった。
色褪せた街の景色が、滲んでいく。
もう一度煙を吐き出そうとした。
しかし、口からは何も出てこなかった。
彼自身の指先が輪郭を失い、ゆらりと揺らめき始める。
煙はもはや、彼自身から立ち上っていた。
遠くで救急車のサイレンのような音が聞こえたが、それもひどく色褪せて、重く沈んだ空気の中に溶けていった。
吸い過ぎ注意。




