カミサマ
その村は、地図から意図的に削り取られたかのように、深い谷底にひっそりと存在していた。
霧が晴れるのは一日のうちで数時間だけ。
それ以外の時間は、村全体が湿った綿に包まれている。
民俗学の調査でそこを訪れた私は、早々に手詰まりを感じていた。
村人たちは極端に口が重く、視線は常にぼんやりと宙を彷徨っているようだ。
彼らは何かを隠しているというより、何か大事なものを根こそぎ抜き取られてしまったような、空虚な印象を与えた。
唯一、私に断片的な情報をくれたのは、村はずれの朽ちかけた寺の老婆だった。
「神はもう、お発ちになったよ」
老婆は焦点の合わない目で言った。
「ここは、ただの抜け殻さね……我々も、もうすぐだ」
信じられないことに、老婆の体が透けているように見えた。
不気味さはあったが、とにかく老婆の言葉が私の調査対象を決定づけた。
村人たちが『奥の院』と呼んで決して近づかない、谷の最深部。
そこに、その神の残した遺物があるという。
道なき道を進んでいく。
空気は粘性を帯び、苔の匂いと、嗅いだことのない奇妙な匂いが混じり合っていた。
それはオゾン臭のようでもあり、古びた羊水の匂いのようでもあった。
やがて、開けた場所に出た。
そこは巨大な岩が折り重なってできた、天然の洞のようになっていた。
そして遂に、私は「それ」を見たのだ。
なんとも形容しがたい、巨大な薄膜だった。
乳白色で、かすかに真珠色の光沢を放っている。
洞の天井から壁面にかけて、まるで巨大な何かが脱皮した直後のように生々しく張り付いていた。
ところどころ、粘液のようなもので濡れており、静かに水滴が落ちる音だけが響いている。
美しい、と思った。
同時に猛烈な吐き気がこみ上げた。
これが『カミサマの抜け殻』なのか?
私は、この世のものとは思えない光景に釘付けになりながら、フィールドノートを取り出した。
記録しなければ。
この存在を、この匂いを、この湿度を。
ペンを走らせようとした、その時。
指先に違和感があった。
見ると、私の右手の小指が――正確に言えば第一関節から先が――透けていた。
背景の薄暗い岩肌が、ぼんやりと指の向こうに見える。
驚愕に声も出ない。
慌ててノートを落とした。
さらにそれを拾おうとして、今度は自分の左手、手首のあたりから透明になっていることに気づく。
声を出そうとしたが、喉が震えるだけで音にならない。
恐怖ではない。
奇妙なことに、私は安堵していた。
体が軽くなっていく。
思考が、インクを水に垂らした時のように、じわりと薄まっていく。
懐かしい匂いが、鼻腔を満たす。
私は、ゆっくりと薄膜に近づいた。
あの乳白色の、美しい抜け殻に。
今なら、私も其処に辿り着けるような気がして。
成ったのか、それとも……。




