いつものヤツ
時計の短針が、もうすぐ2時を指そうとしていた。
今を満喫するフリーターの俺は、コンビニで買ったぬるい缶チューハイを片手に、ぼんやりと液晶画面を眺めていた。
安アパートの薄い壁越しに、隣室の住人が咳き込む音がかすかに聞こえる。
こんな時間まで起きているのは、何も俺だけではないらしい。
午前2時ちょうど。
ピタリと、まるで時報のように、それは来た。
コン、コン。
玄関のドアが、控えめに二度、ノックされた。
最初は驚いた。
こんな時間に誰だと、警察に通報しようかとも思った。
だが、それが毎晩毎晩、寸分違わず午前2時きっかりに繰り返されるようになると、人間というのは恐ろしいもので、慣れてしまうのだ。
「はいはい、いつものやつね」
俺は立ち上がることもせず、画面に視線を戻した。
このアパートに越してきて半年。
最初の夜からこのノックは続いているし、誰何しても返事はない。
ドアスコープから覗いても、そこにはいつも薄暗い共用廊下が広がっているだけだ。
なにも害はない。
いや、気分は悪いが。
ただノックされるだけだ。
だから俺は、これを「いつものやつ」と名付け、一種の風物詩のように、あるいは満員電車での通勤のごとくやり過ごすことに決めていた。
その夜も、いつものようにノックはそれきりだと思っていた。
コン、コン、コン。
「……え?」
思わず声が出た。液晶画面から目を離し、玄関のドアを睨みつACける。
3回?
聞き間違いか?
いや、確かに3回だった。
いつもは2回で終わるはずが、今日は1回多い。
心臓が、嫌な音を立てて脈打つのを感じた。
半年間保たれていた日常の均衡が音を立てて崩れ始めたような、そんな予感。
ゴクリと唾を飲み込む。
静寂が部屋を支配する。
隣室の咳も、今は聞こえない。
まさかな。疲れているんだろう。
そう自分に言い聞かせ、再び缶チューハイに口をつけようとした、その時。
コン、コン、コン、コン。
今度は4回だった。
しかも、さっきよりも明らかに力がこもっている。
まるで、俺が聞いていることを確かめるかのように。
「……やめろよ」
かすれた声が出た。
恐怖が、慣れによって麻痺していたはずの感覚が、急速に蘇ってくる。
半年前の、初回の恐怖。
俺はソファからゆっくりと立ち上がり、息を殺して玄関に近づいてドアスコープに手をかける。
ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!
「うわっ!」
突然、ドアを叩き割らんばかりの力で乱暴にノックされた。
心臓が口から飛び出そうになる。
叩いている。明らかに、誰かがそこに居る。
そして、それは俺がここに居ることを知っている。
心を奮い立たせて、ドアスコープに目を押し当てた。
が、そこには何もいなかった。
いつもの薄暗い廊下だ。
しかし、おかしい。
何もいないはずなのに、ドアは今も凄まじい力で圧迫されているかのように、ミシミシと不気味な音を立てている。
ガチャガチャガチャガチャ!!
ドアノブが、狂ったように回され始めた。
誰もいないのに。
内側からロックしている。
大丈夫だ。
大丈夫なはずだ。
「誰だ! 何なんだよ!」
俺は叫んだ。
震える声で。
すると、ピタリと音が止んだ。
ドアノブの回転も、ミシッという音も。
急に訪れたあまりの静けさに、自分の荒い呼吸だけが響く。
帰ったのか?
安堵しかけた、その瞬間。
郵便受けの、あの小さな金属のフタが。
カタン。
と、内側に開いた音が鳴る。
そして、その隙間から夜の暗闇よりも暗く、湿った、低い声が響いた。
「なんだ、いるじゃないか」
俺はこの瞬間に引っ越しを決意した。
慣れって、恐ろしい。




