迎合
増殖する顔。しかしそれは始まりに過ぎず、やがて男は狂気にのまれていく。
月曜の朝、オフィスの島に知らない男がいた。
白いシャツにネクタイだけが妙に派手で、俺の向かいの椅子に当たり前のように腰を下ろしている。
「おはようございます」
挨拶の声はよく通った。
係長も同僚も、あたかも旧知の仲のように親しげだった。
いやしかし、先週までその席には経理の山岡が座っていたはずだ。
山岡はどうした。
昼休みに同僚へ聞くと、怪訝な顔で返された。
「山岡? 誰それ。前から白石がいたろ」
そんなはずはない。
だが勤怠システムにログインすると「白石敦」の勤続年数は三年と表示され、メールの過去スレッドにも彼の名前が入っていた。
俺の記憶だけが異物になった。
さらにその翌週、朝礼の列にまた知らない女が増えた。
黒髪を低い位置で束ねた、眼鏡の似合うタイプ。名札には黒川真帆の印字。
人数を数えると部署は二十八人。先月まで二十四人だった。はずだ。
総務の掲示板には最初から二十八人分の顔写真が並び、俺が「増えた」と言うと須藤(これは本当に昔からいる)に笑われた。
「田所さ、残業しすぎで幻でも見えてんじゃね?」
次の金曜。
書類棚の配置が変わっており、ロッカーも一列増えていた。
誰が増えたのか把握しようと視線を走らせるが、知らない顔のほうが多い。
俺は自分の机に戻り、社員一覧を印刷して赤ペンで丸を付けはじめた。
記憶にない名前に印をつけていくと、A4用紙が真っ赤になった。
呼吸が浅くなる。俺の頭がおかしくなったのか?
週が明け、通勤エレベーターで見覚えのないスーツの集団と乗り合わせた。
胸の名札は全員うちの会社。
人事が大量採用したのかと思ったが、入館カードの色からすると勤続五年以上のベテラン区分だった。
ドアが開き、彼らはフロアに散っていく。
挨拶を交わす周囲の視線は自然で、俺だけが余所者になったような孤立感に胃がひりつく。
また次の週、木曜の午後。
資料室で背表紙を探っていると、すぐ後ろに人の気配がした。
振り向くと浅黒い顔の男が笑っていた。
「田所さん、探し物これでしょ?」
差し出されたファイルは確かに目的のものだったが、俺は彼の名前も所属もわからなかった。
礼を言いながら名札を盗み見る。佐伯一義。
初耳だ。
「昔から助けてもらってるじゃないですか、持ちつ持たれつですよ」
男はそう言って肩を叩き、棚の隙間へ消えた。
文字通り、消えた気がした。
その夜、家で社員証を眺めた。
ICチップに触れるたび、静電気が指を刺す。
目を横にやると、モニターには社内SNSのトップページ。
マウスを操作して、タイムラインをスクロールする。
知らない社員の投稿ばかりだ。
フォロー欄に白石、黒川、佐伯の名前が並び、俺が“いいね”を押した履歴まで残っている。
勝手に笑いが漏れでて、俺は頬をつねった。
痛い。
冷蔵庫の缶ビールを開けても喉に通らず、未読の通知だけが増え続けた。
金曜。
デスクの配置がまた変わった。
俺の席はコピー機の隣へ追いやられ、周囲を知らない同僚に囲まれている。
耳に入るのは馴染みのない名前同士の会話ばかり。
モニターに映る社内チャットで“田所さん”と呼ぶのはもはや一人もいない。
定時のチャイムが鳴る。
立ち上がりかけた俺の肩を、黒川と書かれた名札を付けた男が無表情で押さえた。
「田所さん、歓迎会ですよ。新人の」
テーブルの向こうに座る“新人”は、見覚えのある顔で笑っていた。
あれは……数年前に辞めた俺の同期。安西だ。
名札を見ると安西浩太と確かに書かれている。
俺は手帳を開いた。辞職のメモを探はじめる。
それを見つけて、目を細めた。と同時に、軽い頭痛がしてきた。
やはり安西は既に退職して、この会社にはいないことになっている。
頭がじわじわ熱くなっていく。汗が背を伝う。
とにかく、歓迎会には参加しなければ。
しこたま呑んだ帰りの電車で、吊り広告のキャッチコピーに目を奪われた。
モデルの制服が俺たちの社服と似ている。
『ファミリーは、もっと増える』
視線を下ろすと、車内には会社の名札をカードホルダーに入れ、首から下げている乗客がちらほらいることに気がついた。
その顔に既視感はない。
安西は、俺のことを覚えていなかった。
窓ガラスに映った俺の表情は泣きそうで、でも笑っていた。
翌週の月曜。
朝礼の輪に並ぶと、前にも後ろにも知らない同僚の顔ばかりが整列している。
俺はとっくに数を数えるのをやめていた。
「田所さん?」
白石が耳元で囁く。
「今日もよろしく」
振り向くと、白石の後ろに並ぶ十数人が一斉にこちらを見ている。
というか、白石だと思っていた人は、また知らない顔をした別人だった。
全員が俺を見ているのか、俺の後ろにいる誰かを見ているのか、判別のつかない目をギラつかせていた。
俺は口を開く。
声が出ない。
喉が紙のように乾く。
それでも、挨拶だけは返さなければならない気がした。
取り残されないように。
消えてしまわないように。
「……おはようございます」
一斉に拍手が起こる。
良かった。
俺は家族なんだ。
俺はまだ存在しているんだ。
俺は田所なんだ。
なあ、そうだろ?