深夜徘徊
アパートの自室で、深夜三時を知らせるデジタル時計の赤い光をぼんやりと見つめていた。
仕事は休み、疲れているはずなのに目が冴えているが、こんなことは初めてではない。
週に一度か二度、決まって夜中に、体から熱が引いていくような妙な感覚とともに、外へ出たいという欲求が爆発しそうになる。
心の声を無視しようと試みるが、心臓が静かに、しかし確実に早鐘を打ち始める。
まるで体内にいる何かが焦燥しているかのように。
「まあ、いいか。少しだけなら」
そう自分に言い聞かせ、俺はジーンズとパーカーを羽織り、ポケットに鍵とスマホだけを突っ込んだ。
エレベーターを使わず階段を降りる。
古びたアパートのコンクリートの壁は、昼間の熱をすべて吸い取ってしまったかのように冷たい。
非常灯のぼんやりとした光が、足元に不安定な影を落としていた。
一階のドアを開けると、冷たい夜の空気が肌を刺した。
街灯はまばらで、住宅街の深夜はしんとして、生命の気配が薄く、車の通りもない。
目的はない。
ただ歩く。
それがルールだと、身体が知っているような気がして。
いつものように、裏通りの細い路地に入った。
錆びた自転車、放置されたゴミ袋、壁に描かれたスプレーの落書き。
すべてが影と闇に溶け込み、不気味なモノトーンの世界を作り出している。
ふと、前方に見える路地の角を曲がるところに、人影を見た。
今は深夜の三時。
こんな時間に一体、誰が。
その人影は背が高く痩せていて、頭から足元までごわごわした濃い色のコートのようなもので覆われているように見えた。
フードを深く被っているのか、顔は見えない。
ただ、路地の壁に伸びる影が異様に細く、そして長い。
立ち止まろうと思った瞬間、またしても心臓がドクンと強く跳ねた。
行け。
そう命令されている気がした。
身体が勝手に動き出す。
その人影に向かって、引き寄せられるように。
人影は動かない。
角にへばりつくように立っている。
俺が十メートル、五メートルと近づいても、微動だにしない。
「どうしました? こんな時間に…」
声をかけようと口を開いた瞬間、その人影はゆっくりと、しかし信じられないほどの角度で、首をこちらに向けた。
フードの奥は、完全に闇だった。
顔がない。
いや、顔のあったはずの部分が空虚な影になっている。
そのただの影の中から、三つの光が俺めがけて一直線に伸びてきた。
街灯の色とも、スマホの光とも違う鈍い黄色の光。
それは、まるで昆虫の触覚のように闇を切り裂いて、俺の胸元をめがけて伸びてくる。
逃げなければ。
そう思ったが、体は金縛りにあったように動かなかった。
心臓はもはや跳ねるのをやめて、川底に沈んだ丸石のように静まり返っている。
三本の光は、俺の胸に突き刺さった。
不思議と痛みはない。
代わりに、何かが吸い取られていくような感覚があった。
身体が急速に軽くなり、熱が完全に失われていくような。
俺はただ、立ち尽くしてそれを受け入れた。
まるでそうするためにここにやってきたかのように。
どれくらいの時間が経っただろうか。
数秒か、永遠か。
三本の黄色の光が、スッと闇の中へ引っ込んだ。
人影は、今度は音もなく角の向こう側へと消えていく。
壁に映っていたはずの細長い影も、跡形もなく消えていた。
俺は一歩を踏み出し、そしてよろめいたところで意識が落ちていくのを感じた。
翌朝、目が覚めたのは午前十一時を過ぎた頃だった。
久しぶりに深く眠れたような気がして、視界もなんとなくクリアに見えるような、とにかくいい気分だ。
しかし、何かが足りないような。
部屋の中を見渡しても、それが何なのか分からない。
ふと覗いたアパートのポストに、隣人の老婦人からのメモが入っていた。
「最近、夜中にあなたの部屋から、変な音がするけど、大丈夫かい?」
変な音?
俺は毎晩熟睡しているはずなのに。
首を傾げていたら、つけっぱなしだったテレビが昨日の隣町で起きた失踪事件を映し始めた。
被害者は三十代の男性で、遺体は見つかっていないが、現場には謎のメモが残されていたらしい。
〝内なる外に出なければ〟
その日の深夜三時、俺は鏡を見た。
目の奥の光が、昨日よりも少しだけ鈍い色になっている気がした。
俺は無言で部屋の扉に手をかける。
今日も、ただ歩く。
何故なら、俺は外に出なければならないからだ。
内なる外に……。
引き籠ってばかりいないで、外に出ましょう。




