静寂
ようやく手に入れた。
賢治にとって、この最上階の防音マンションは聖域だった。
外の世界のあらゆる騒音、救急車のサイレン、隣人の生活音、すべてが分厚いコンクリートと特殊素材によって遮断されている。
彼が何よりも求めたのは、純粋な静寂だった。
引っ越してから初日の作業日。
換気扇の電源も落とし、空気清浄機も止めた。
今、デジダル時計が午前三時を指すこの瞬間、部屋を満たしているのは完璧な静寂だ。
賢治は慎重にキーボードへと手を添えて、モニターに向き合う。
フリーランスのプログラマーである彼にとって、この静けさこそが最高の集中力とパフォーマンスを引き出す唯一無二のパートナーだ。
だが、なにやら様子が少しおかしい。
指先でコードを打ち込む速いリズムが一瞬途切れた、その瞬間。
微かな、布が擦れるような、あるいは乾燥した木の葉が動くような音が賢治の耳に入る。
賢治はタイピングの手を止め、息を殺した。
まさか。
この部屋は音の棺だ。
外部の音が入ることは絶対にない。
幻聴だ、徹夜による疲労のせいだ、と自分に言い聞かせ、再びキーボードに指を置いた。
「カサッ…」
今度は、賢治が指を置いた動作と完全に同期して、その音は発生した。
まるで彼の動きを真似しているかのように。
音源は壁でも窓でもなく、部屋の中心、彼のすぐ後ろの空間から聞こえた気がした。
賢治は全身の血が凍るのを感じた。
静寂が、音を増幅させる。
もう作業どころではない。
耳の奥が痛くなるほどの緊張感の中、聞こえてくる音は次第に具体的な「気配」を帯びてきた。
「ヒュー……ヒュー……」
それは、ごく微かな呼吸音だった。
そして、ごく小さく「パキ」と、指の関節を鳴らすような音。
誰かが、賢治の背中に張り付くように立ち、彼のモニターを肩越しに覗き込んでいる。
そうとしか考えられない、粘着質な「他者の気配」が、彼の皮膚を這い回った。
防音室であるため、音は部屋の外に逃げない。
この密閉された空間全体が、その「何か」の存在を賢治にだけ教えている。
振り返りたい。
だが、振り返ってしまったら、その「何か」の姿を認識してしまう恐怖が賢治の首根っこを掴んで離さない。
完璧な静寂は、今や世界で最も騒がしい地獄に変わっていた。
「なんなんださっきから!」
賢治は椅子を勢いよく蹴って立ち上がり、その反動で一気に部屋の隅、照明スイッチの近くまで飛び退いた。
そこには、もちろん何もいない。
隅々まで見渡したが、家具以外はただの空気だった。
「こりゃ、相当疲れてるな」
安堵の息を漏らしたその刹那、背後の、彼が先ほどまでいた場所の分厚い防音壁から、これ以上ないほどクリアな音が聞こえた。
「はぁ……」
溜息のような囁きだった。
音量は極めて小さいが、その響きは紛れもない。
それは、賢治自身の声帯から出る音と寸分違わない、完璧に同じ響きだった。
防音壁は外の音を遮り、この部屋の音を外に漏らさない。
壁がその音を外部から拾うことも、外部に発することも、物理的に不可能だ。
つまり、それは、壁の内側にいる。
そして、賢治と同じ声を持っている。
賢治は逃げ出さなかった。
彼は何かを悟ったようにゆっくりとパソコンの前に戻り、再びキーボードに指を置いた。
そして、耳を澄ます。
「カサッ」
「ヒュー」
「パキッ」
音は続いている。
部屋には自分以外に誰もいない。
賢治が何よりも愛した完璧な静寂は、この部屋の中に閉じ込められた彼自身によって、永遠に崩壊した。
消せない音もある。




