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ボイストレーニング

「またダメだった……」


美咲は、オーディション会場の出口でスマートフォンを握りしめ、小さくうなだれた。

声優の夢を追いかけて上京して三年。小さな役さえ掴めず、焦りだけが募っていく。


「君の声は、悪くない。悪くないんだが……響かない。人の心を掴む『何か』が足りない」


審査員に言われた言葉が、頭の中でリフレインする。

どうすればいいのか。

技術か、感情か、それとも才能か。

答えが出ないままネットの海を彷徨っていた時、ふと、一つのバナー広告が目に留まった。


『あなたの「本当の声」を、知りたくありませんか?』


怪しげなキャッチコピー。

だが、その下に続く「どんな声でも手に入る、究極のボイストレーニング」という文言に、藁にもすがる思いの美咲は吸い寄せられた。

この際、怪しくたってかまうもんか。

そう思いきって、予約フォームに震える指で名前と連絡先を打ち込んでいった。


指定された場所は、雑居ビルの地下にある、古びた防音スタジオだった。

重いドアを開けると、吸音材が張り巡らされた薄暗い空間に、性別も年齢も不詳の人物が一人、静かに立っていた。


「お待ちしていました、美咲さん」


その「先生」と呼ばれる人物の声は、ひどく滑らかで、それでいて奇妙なほど抑揚がなかった。


「あなたの悩みは、声が『届かない』こと。そうですね?」

「は、はい……」

「大丈夫。ここでは、あなたの喉を『開く』お手伝いをしますから」


レッスンは奇妙だった。

一般的な発声練習や滑舌の訓練は一切ない。

ただひたすら、暗闇の中で腹の底から意味のわからない単語――あるいは、音の羅列――を、先生の後に続いて詠唱させられるのだ。


「フゥ……ルルゥ……」

「違う。もっと深く。喉の奥、そのもっと奥」


先生はそう言って、冷たい指先で美咲の喉に触れる。

その度に、ぞわりと肌が粟立った。

しかし、レッスンを重ねるごとに、美咲の声は確かに変わり始めた。


『素晴らしい! 美咲さん、君の演技には魂が宿っている!』


あれほど落ち続けていたオーディションに、嘘のように受かり始めた。

ディレクターは美咲の声を絶賛し、仕事は順調に増えていった。

声には以前になかった艶と深み、そして、聞く者を無条件に惹きつけるような不思議な力が宿っていた。


だが、喜びと同時に、言い知れぬ違和感が美咲を苛み始めた。


自分の声を録音して聴き返すと、時折、ザーッというノイズと共に、自分が発した覚えのない低い囁き声が混じっている。

鏡を見ると、自分の喉がそこだけが別の生き物であるかのように、微かに脈打っているように見える。

そして何より、眠っている間に自分のものではない言語で、朗々と何かを「語って」いたと、同居する妹に怯えながら告げられたのだ。


得体のしれない恐怖が胸をよぎる。

しかし、手に入れた成功を手放すことは、もはや美咲にはできなかった。


「先生、私、やりました! 次のクール、主役です!」


久しぶりに訪れた地下スタジオで、美咲は興奮気味に報告した。

先生は、いつもの無表情な顔に、初めて微かな笑みのようなものを浮かべた。


「おめでとうございます、美咲さん。これで、準備は整いましたね」

「え?」

「最後のレッスンを始めましょう。あなたの『本当の声』を、完成させるためのレッスンです」


先生はそう言うと、スタジオの隅に置かれた年代物のカセットデッキに、一本のテープを入れた。再生ボタンが押される。


ジジ……というノイズに続き、スピーカーから流れ出したのは、美咲がレッスンで繰り返してきた、あの意味不明な音節だった。

だが、それは先生の声ではない。

地を這うような低い男の声、甲高い女の叫び、幼子の呟き――無数の声が重なり合い、不気味な合唱となってスタジオに満ちていく。


「な、なんですか、これ……」

「『呼び声』ですよ」


淡々と先生は言った。


「彼らは、ずっと『器』を探していた。美しい声を持ち、その声で人を惹きつけ、彼らの『言葉』を広めるための、完璧な器を」


美咲はいつのまにか、聞いたこともないその言語が、不思議と理解できるようになっていた。


頭が割れるように痛い。


そして、喉が――。


「あ……がっ……」


美咲の喉が、意思に反してカッと開いた。

無理やりこじ開けられた蛇口から水が噴き出すように、彼女の口から声が溢れ出した。


それは、美咲の声ではなかった。

スタジオで流れているカセットテープの声。

あの無数の、古く、深く、おぞましい声々が一つに混じり合った、この世のものとは思えない響きだった。


「やっと……やっと、出られた」


喉が、声帯が、異質な声の振動によって作り替えられていく苦痛に、美咲は床に倒れ込む。

意識が急速に遠のいていく中で、彼女は聞いた。

自分の唇が、完璧な発音で、歓喜に満ちた声を発するのを。


「素晴らしい『器』だ。さあ、次のオーディションはどこだ? 我々の『言葉』を、世界に響かせようじゃないか」


先生は、もはや美咲ではなくなった何かが、恍惚とした表情で自分の喉を撫でているのを満足げに見つめている。


地下スタジオのドアが重苦しく閉まる音を立てたが、誰の耳にも届かなかった。

自分の声に自信を持ちましょう、さもないと……。

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