戦場の残り火
戦場、と人々が呼ぶ場所は、いつも湿った土と鉄錆の匂いがした。
しかし、俺が立っているこの場所は、そのどちらとも違った。ここは静謐な戦場だ。
俺の名前はカズキ。
かつては最前線で銃を握っていたが、今は衛生兵としてこの病院棟の地下深く、厳重に閉ざされた一室にいる。
今日の患者は、初めて見るタイプだった。
一見するとただの少年で、年齢は推定、十歳。
泥だらけの軍服は、彼がどれほど過酷な状況を生き延びたかを物語っている。
しかし、担架から降ろされたとき、俺は背筋が凍るのを感じた。
彼の目が見開かれていたのだ。
瞳はどこか焦点が合わず、真っ黒なガラス玉のようにも見えた。
そして、その表情と肌色はまるで、激しい怒りと無限の恐怖を鉄の彫刻にしたかのようだった。
「こいつが今度の『サンプル』か? それにしても、まっとうな死に方をするヤツをもう何年も見てない」
俺は低い声で呟いた。
主任研究員であるサノは、防護服越しに冷たい目を向けながら淡々と喋る。
「外はもう、まともな人間が生き残る場所じゃないからな。兵士たちは恐怖に耐えかねて、あるいは憎悪に飲まれて、人ではない何かになってる。こいつは……その変質の初期段階にあるようだ」
サノは医療器具の準備をしながら続けた。
「我々が『戦場』と呼ぶあの地は、物理的な争いの場ではない。もはや、感情の飽和点だ。極限の恐怖と憎悪が混じり合い、エネルギーとして実体化した。それが人間を狂気に駆り立て、そして……ああ、見ろ」
その瞬間、少年の体から微かな霧のようなものが立ち昇り始めた。
それは青白く、まるで死体の冷気のようにも見える。
少年の唇がかすかに動き、乾いた音を立てた。
「……いる……」
俺は反射的に少年の顔にマスクを当てようとした。
しかし、サノがそれを制した。
「触るな!」
「なんでだよ?」
俺の声は震えていた。
「感情だ」とサノは言った。
「彼の内側で飽和した純粋な憎悪と、形なき恐怖だ。彼はそれを自分の戦場から持ち帰ってきた。そして、ここにいるお前にも移そうとしている」
霧が濃くなり、部屋全体に広がっていく。
俺は息苦しさを感じた。
単なる空気の淀みではない。
それは、胸を圧し潰すような、他者の、何千人もの兵士たちの絶望と怒りの重みだった。
少年が再び口を開いた。
今度は、少年の声ではなかった。
何重にも重なった、男たちの、女たちの、そして子供たちの、苦悶と叫びが混ざったような……悍ましい合唱だった。
『お前の中にもいるぞ……マジマカズキ……』
その言葉が響いた瞬間、俺の目の前に幻影が迸った。
地獄のような光景。
血に濡れた泥、砕け散った骨、そして、絶叫する俺自身の顔。
俺は耳を塞ぎ、目を閉じようとした。
しかし、遅かった。
その冷たく湿った憎悪の霧は、俺の皮膚、毛穴、呼吸器を通して、体内に侵入してくる感覚。
少年の黒い瞳が、僅かに光を帯びて俺の顔をまっすぐ見据えた。
サノが慌てて部屋を出ようと、扉のロックを外す音が聞こえる。
「カズキ、逃げろ! 奴に飲まれるな!」
しかし、俺の足は動かない。
俺の意識は、すでに少年の体から放たれた感情の波に囚われていた。
俺の脳裏で、何十もの顔が囁く。
『お前は裏切った』
『なぜ俺を見捨てた』
『お前の代わりに死んでやったぞ』
それは、俺が戦場で助けられなかった者たちの声だった。
俺が忘れたかった、そして、心の最も奥深くに埋めていたはずの、個人的な戦場の残響だった。
俺は膝から崩れ落ちた。
顔中に、冷たい汗と、少年から出た青白い霧が付着する。
扉が勢いよく閉まる音が聞こえ、次いでサノの叫び声が遠ざかっていった。
俺は少年の口元が微かに微笑んだように見えた気がした。
それは、勝利を確信した者の笑みだったようにも見えたし、安堵の表情にも見えた。
俺の体もまた、冷気を帯び始め、皮膚の下で何かがうごめくのを感じる。
それは、他者の憎悪が、俺という新しい宿主を得て、成長を始めている兆候としか思えなかった。
俺は知る。
俺はもう、衛生兵ではない。
この部屋が新しい戦場。
俺は、少年が持ってきた『戦場の残り火』だ。
「……いる……」
唇から、少年と同じ乾いた音が漏れた。
熾火は再び燃え上がる。




