通勤電車
定刻通り、午前7時12分。
しがないサラリーマンの浩平はいつものように、満員電車に身を押し込んだ。
東京近郊のこの路線は、朝のラッシュ時には文字通り「地獄」と化す。
乗客たちはみな無表情で、少しでも空間を作ろうと互いに体を寄せ合っている。
浩平もまた、吊革に手をかけ、目を閉じてこの耐えがたい苦痛の時間をやり過ごそうとしていた。
しかし、暫くして、浩平は異変に気付いた。
いつもは汗と香水、そして疲労が入り混じった生温かい空気で満たされているはずの車内が、妙に冷たい。
そして、どこからともなく微かに磯の香りが漂ってくる。
浩平は訝しげに目を開けた。
目の前には眼鏡をかけた中年男性がいた。
だが、その男性のスーツの肩には、湿った砂のようなものが付着している。
「なんだ……?」
そう思った瞬間、浩平はさらなる異変を目にした。
隣の席に座っている女子高生。
スマホをいじっている彼女の指先が、まるで水に浸かっていたかのように、白くふやけている。
さらに、彼女の制服のスカートの裾からは、まるで海藻のような黒く細いものが微かに覗いていた。
浩平は思わず体を引いて、周りを見渡す。
吊革を握るビジネスマンたちの手の甲は、ところどころ皮膚が剥がれ落ち、下から黒い甲殻のようなものが覗いている。
彼らの顔は青白く、まるで深海魚のように目が飛び出していた。
しかし、誰もが皆、ピクリとも動かず、ただただ前を見つめている。
異様な状況に、浩平は思わず下を向いた。
本来、磨かれたステンレスのはずの床は、ぬかるんだ泥と海水で汚れていた。
電車の車輪がレールを叩く音に混じって、何やら水っぽい音が聞こえる。
「どうなってる」
この路線は地下鉄じゃないし、普段は地上を走ってる。
これじゃまるで海の中みたいじゃないか。
浩平は頭の中でボヤきながら、動揺を隠そうとして身をよじった。
車窓の外を見ると、黒いガラスに自分の怯えた顔が映っていた。
その背後、本来なら次の駅のホームが見えるはずの窓の外は、漆黒の深淵が広がっていた。
時折、深海魚のような、しかし明らかに人間と同じ大きさの巨大な眼が、こちらを覗き込んではすぐさま闇に消えていく。
『次は、シンカイ・カツウラ……』
聞き慣れない駅名が、ゴボゴボというノイズが混じった機械音声でアナウンスされている。
そして、隣に立っていたはずのビジネスマンが、突如として口を開いた。
彼の口からは歯の代わりに、鋭いサメの顎のようなものが覗いていた。
「マイニチ、ツライナァ……」
ビジネスマンは、もはや人間のそれではない、水底から響くような低音で囁いた。
彼の濡れた指先が浩平のスーツの袖に触れた瞬間、浩平の体も急速に冷えていくのを感じた。
いま、浩平の瞳に映っているのは、深淵の闇に浮かぶ無数の青白い通勤客たちの顔。
彼らは皆、自分と同じように、朝の電車通勤という名の永遠の潜水に連れ去られていた。
ああ、そうか。
これは幻覚で、幻聴で、だけど……間違いなく現実だ。
浩平はそう思ったあと、静かに目を瞑った。
それでも電車は、無慈悲に走り続けていく。
社会の海底を。
ご苦労様です……




