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郷に入っては

初めての一人暮らし。

茜が引っ越してきたのは、築四十年の緑ヶ丘ハイツ。

古いが日当たりは良く、何より家賃が手頃だったことが決め手となった。


荷解きを終え、団地の一階にある掲示板に目をやった時、茜は違和感を覚えた。

『住人遵守事項』と書かれた紙は誰かの手書きで、日付も差出人の署名もない。

その内容は、普通の規則に混じって奇妙なものが紛れ込んでいた。


「午前零時以降、エレベーター内で四階のボタンを二度押す行為を禁ずる」

「五〇一号室の洗濯物に含まれる〝青いタオル〟は水曜日に干してはならない」


そして、一際大きく書かれた項。


「午後七時以降、廊下側に向けて〝笑顔〟を向けてはならない」


茜は思わず笑ってしまった。

まるで子供のいたずらか、悪趣味な都市伝説のようだと。

規則が書かれた紙の下には、別の古い張り紙が何枚も重ねられ異様な重みを持っていた。


その日の夜、疲労から夕食後にうたた寝をしてしまい、目を覚ますと時計は七時を三分過ぎていた。


茜は慌てて立ち上がり、玄関の鍵が閉まっているか確認した。

団地の夜は静かで、昼間の活気は消え、空間全体が何か大きなものの息を潜めているような重い気配に満ち満ちている。


ふと、廊下側の窓にかけたレースのカーテンの隙間から外の非常灯の薄い光が見えた。

ちょうどその時、廊下の奥から誰かが自分の部屋の近くに戻ってきた気配がした。


挨拶をしなければという反射的な思いが働いた茜は、さっと鍵を開け、扉を少しだけ開けて廊下を覗いた。


廊下の奥から歩いてきたのは老婦人だった。

老婦人は茜の部屋の隣の扉の前で立ち止まり、鍵に手をかけようとしている。

顔を上げることもなく、壁に沿うように異常なほど無表情で俯いていた。


茜はぎこちなく微笑んで「こんばんは」と声をかけた。

老婦人は茜の声が届いた瞬間に部屋の扉を勢いよく開け、ほとんど身体をねじ込むようにして室内に入り、扉を乱暴に閉めた。


それと同時に団地の全戸から一斉に、電気スイッチを切るような「カチッ」という微かな音が響いた。


茜は慌てて扉を閉め、内鍵をかけた。

何かがおかしい。

心臓が警鐘を鳴らし始めている。


廊下は非常灯のみで薄暗かった。

その薄暗闇の向こうから、複数の足音が規則的なリズムで近づいてくるのが聞こえる。

音は、間違いなく茜の部屋の前で止まった。


恐怖で身動きが取れない中、扉の向こうでドアノブが微かに回る音がした。


鍵はかかっている。


開くはずがない。


しかし、誰かが力を込めて開けようとしていることは伝わってきた。


「だ、誰、ですか……」


震える声がドアの厚さに吸い込まれていく。

ただ、息遣いだけが扉の向こうから聞こえてくる。


意を決して、茜はドアスコープに目を近づけた。


スコープの向こうには、顔全体を深いフードか何かで覆い隠した真っ黒な人影が立っていた。

その人物は動かず、ただ茜の目の前で厚紙の切れ端をポストの受け口にゆっくりと押し込もうとしている。


恐怖で息が詰まり、茜は声も出せずにしりもちをついた。

すると、厚紙の切れ端が床に滑り込み、同時にポストの受け口の隙間から差し込んでいた非常灯の光が消えた。


茜は震える手でそれを拾い上げ、目を細める。

粗末な厚紙の切れ端には、貼られていた掲示板の紙と同じく妙に癖のある達筆な文字で書かれていた。


「規則第八条:違反者は報告されました」


よく見ると、その文字は驚くほど自分の筆跡に似ていた。


翌朝、団地の掲示板を見ると、新しい紙が貼られていた。


その紙の横、最も目立つ場所に貼られていた『笑顔厳禁』の項が、太い黒いマジックで乱暴に塗りつぶされている。

そして、その塗りつぶされた紙の真下に、赤字で追記があった。


「住人遵守事項から『七時以降、廊下側に向けて笑顔厳禁』の項を削除。本規則は達成済のため」


自分の部屋のドアに戻った時、昨日差し込まれた厚紙の切れ端が、ドアノブにセロハンテープでしっかりと貼り付け直されているのを見つけた。

裏返すと、そこには鉛筆で何度も何度も力強く、消せないほどに書きなぐられた跡が残っている。

茜は、自分の顔から一切の表情が消えていることに気づいていなかった。


「貴女は規則の監督者になりました」


午後七時まで、あと十時間。


茜は、新しい規則を考え始めた。

従うが吉。

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