迷路
戻ったのか、それとも何処かへ行ってしまったのか。
男は、道端で奇妙なものを見つけた。
高さ二メートルほどの鉄製の門。
看板には簡素な字体で「迷路」とだけ書かれている。
門の向こうに何かあるわけではない。
視線の先には、いつも通りの色褪せたブロック塀があるだけだった。
「捨てられたアート作品か何かか……?」
そう思いながら、男はふと、子供の頃の記憶を思い出す。
夏休みに行った迷路のアトラクション。
出口が見つからず、焦って泣き出した自分。
誰かの呼ぶ声も聞こえず、足音だけが響く中、心細く彷徨ったあの時間。
懐かしさと妙な好奇心に突き動かされ、男は門をくぐった。
しかし、何かが起こるはずもなく。
塀も、空も、道も何一つ変わっていなかった。
数歩進んでから、男はふと立ち止まる。
「……ん?」
振り返っても、門はそこにある。
景色も何も変わっていない。
ただ、なにか言いようのない違和感だけがじんわりと広がっていた。
「ここ、どこだ?」
目の前にあるのは、いつもの住宅街で、歩き慣れた道。
だが、そのどれもが見知らぬ風景に思える。
電柱の位置、家の壁の色、道のカーブ――全部、曖昧で思い出せない。
まるで、初めて訪れた場所のように。
男は焦り始めた。
歩いているうちに、ますます分からなくなる。
自分が今どこにいるのか、どこから来たのか、どこへ向かえばいいのか。
すべてがぼやけ、脳内でぐるぐると回り続ける。
まるで迷路に入り込んだようだ、と思った。
だが、壁も仕切りもない。
あるのはただ、いつもの町並み――に見える、別の何か。
道は開けているのに、出られない。
空は広いのに、閉じ込められている。
記憶が、認識が、するすると剥がれ落ちていく。
それは恐怖ではなく、奇妙な静けさをともなっていて。
歩き続けて数十分。
脚に疲れが滲み始めた頃、ふと後ろを振り返ると、あの錆びた門が口を開けていた。
ただし、看板の文字が変わっている。
「おかえりなさい」
男はその場に立ち尽くした。
思い出そうとするたび、記憶は遠ざかっていった。
ここがどこか分からない。
自分が誰なのかも、今はもう――。




