昨日
あなたの記憶は、本当に今日を覚えているのだろうか。
俺の住んでいるアパートは壁が薄い。
隣に住んでいる人がティッシュを抜き取る音まで聞こえてくるほどに。
そして、今日も隣の部屋から、昨日の天気予報が流れているのが聞こえている。
「今日は曇り、ところにより雨でしょう。
続いて降水確率です、東京、神奈川で60%……」
俺は傘を忘れて濡れ鼠になった日のことをはっきりと覚えていた。
だからこそ断言できる。
いま、薄壁を貫通して耳に入ってくるそれは、間違いなく昨日の天気予報だった。
相変わらず壁一枚隔てたあちら側は、一日前から一歩も前に進んでいない。
ここに住み始めてから、毎日こうだ。
このアパートに越してから一ヶ月、最初は隣室に住人がいると思い込んでいた。
朝になると決まって、前日に見たはずの番組やニュースが漏れ聞こえてくる。
管理人に尋ねても曖昧な顔で首をかしげるばかりだ。
「あそこはずっと空き部屋のはずですよ?」
管理人は笑いながらそう言ったが、目は笑っていなかった。
何か隠している気配すらあった。
毎朝流れる音のせいで、気になって眠れない夜が続いた。
苛立ちがピークに達したある朝、俺は隣のドアを強く叩いた。
返事はなく、代わりにドアには小さな紙が貼られている。
『御用の方は昨日お越しください』
冗談かと怒りに震えた。ふざけてるのか?
ノブを回すとあっけなく開いた。
部屋の中は薄暗く、空気が重く澱んでいる。
家具には薄い埃が積もり、誰かが住んでいる気配はない。
しかしテーブルの上に新聞が置いてある。日付は昨日だった。
なぜかテレビも点いていて、画面ではニュースキャスターが既視感のある内容を伝えている。
壁にかかったカレンダーの日付は……やっぱり今日じゃない。
前日の日付を、赤いペンで丸く囲ってある。
どういうことだ。
全身に妙な寒気が走った。
俺は急いで自室に戻り、慌ててスマホを取り出した。
しかし、表示された日付は昨晩見た状態から変わっていない。
「嘘だろ……」
何度再起動しても表示は変わらなかった。
心臓が激しく脈打ち始める。
混乱した俺は部屋を飛び出し、外へ走った。
見慣れた街並みは普段と何一つ変わらない。
「やべ、傘忘れた。たしか雨だったよな……」
だが通り過ぎる人々の会話は明らかに昨日のものだった。
昨日、俺自身が言ったのと全く同じ言葉を知らない誰かが呟いている。
俺は立ち止まり、見上げた空が徐々に厚い雲に覆われていくのを見つめていた。
まるで同じ一日を繰り返しているような錯覚。
いや、違うのかもしれない。
本当に、今日は昨日なのかもしれない。
なら、昨日はいつだったんだ?
一昨日は?
一か月前は?
ここに引っ越した、半年前は……。
ふと後ろを振り返ると、自分のアパートが視界に入った。
窓越しに隣室のカーテンが揺れ、誰かがこちらをじっと見ているような。
ぽつりと、雨が降ってきた。




