最先端の男
目を覚ました時、狭いベッドの隣に見知らぬ男がいて叫びそうになった。
落ち着け奴は見知った人攫いだ。いや落ち着けるかふざけるな。こんなところにいられるか! 私は出ていくぞ!!
やかましい脳内と裏腹に、物音を立てないように慎重に身を起こす。掛けられていた毛布を衣擦れすら聴こえないようにそっと持ち上げてみると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
男は隣で身体を丸めるように縮こまって寝ている。毛布は掛けていなかった。
こんなボロ屋に住んでいる辺り裕福でないのは確実で、恐らく一人暮らし。だから毛布なんて余分に所持していないんだろう。
一人で使うのがやっとの大きさの毛布は、城で使っていた物とは比べるまでもなく薄くて肌触りも悪いのだけれど確かにあたたかい……うーん、なんだろうこの。
ま、まあ凍え死ぬような寒さじゃないし? 女性の身体を冷やすのは良くないって割と常識だし? ヤンキーだって雨の中子猫が捨てられてたら拾っちゃいますし? よく見たら睫毛長いし顔結構整ってるななんて思ってませんし???
落ち着け私。本来なら王城のふかふかあったかベッドでぐっすりだったはずなのだ。それをこんな劣悪な環境に引きずり込んだのは紛れもなくこの男。つまりはマッチポンプ!
うっかり心がそわそわしてしまったのは、私が足らず姫だからだろう。
惑っている場合ではない。ストックホルム症候群になるには速すぎる。私は城へ帰るのだ。
固く決意しながら男にそっと毛布をお返ししようとした時、思わず呻いた。
何故かって? 全身に鈍痛が走ったのである。
主に首とか肩とか、腰とか。
心臓が縮まる思いがして毛布を剥いだ自分の身を恐る恐る確認する。
身につけているのは薄いシュミーズ(下着)一枚だった。
道理で肌寒いわけである。
「ヒュッ」
思わず息を呑んでガタガタ震える。男が目を覚ました。
「……りりー?」
緩く瞬きをして舌足らずに私を呼ぶ姿は幼子のようであったけれど、すっかり涙腺の緩んだ私はありったけの息を吸い込んで叫んだ。
「うそつき!!!!!!」
「ごめんなさい」
「いいよ」
私の謝罪に、寝起きに大声で罵倒された男は寛大だった。
誤解だった。
身体が痛かったのは質素な寝具が合わなくて寝違えたからだし、服を脱がされていたのは私が息苦しそうにしていたかららしい。
そういえば式典の最中に攫われたのでかなりしっかりめのドレスを着ていたのだった。
このドレスはシュミーズの上からコルセット、パニエ、スカート、ワンピースドレスと重ねていくもので、なんと全てに伸縮性がないのである。
伸び縮みする衣類用のゴムは今のところ見た事がない。サイズの調整には紐やピンを使い、場合によっては着た状態で縫い付けたりする。おかげで美しいラインができるのだが、こんなんほぼほぼ拘束具である。
大抵の人間は身体を起こしている時は胸式呼吸、横になっている時は腹式呼吸になる。つまり起きている時は締め付けられていない上胸でなんとか呼吸していたが、失神してからは締め付けられている腹部で呼吸しようとしていたため普通に呼吸困難で酸素が足りていなかった。
思えば会話の最中に息苦しさを感じていたのもストレス(心)ではなくストレス(物理)のせいだったのだろう。いやそれだけとも言い切れないけれど。
男が性急に脱がし方を聞いてきたのも普通に看病のつもりだったらしい。やっぱり脱がせ方がわからなくて鋏でザックリとやってしまったらしく謝られたけれど、低酸素状態は普通に危険なので必要な犠牲である。下手したらそのまま静かに死んでた。とても助かりましたありがとう。
ところでやっぱり少し肌寒いと思う。
シュミーズだけだと色々アレなので現在は男のダボッとガサついた服を借りて上に着ているのだが、「これ本当に着た?」と思うくらい防寒性能が低い。なんというか麻っぽいしメッシュっぽい。君これ一枚で着るの? 乳首透けない?
脱出は失敗に終わったのでまた毛布を被ってもいいのだが、冷えた事実はなくならない。
身体が冷えると起こる生理現象とは、全くもって抗いがたいものである。
つまり、トイレに行きたい。
恥を忍んでもごもごしながら伝えると手を引かれる。
いや、あの、場所を教えてくれれば一人で行きますけど……と思ったらなんだか雲行きが怪しい。
部屋にある唯一の戸に向かったのはいい。
盛大に軋む木戸の先は外だった。よくない。
月が綺麗な夜だった。
自然広がる大地。遠くにぼんやり浮かび上がる小さな家屋らしきシルエット。
この世界には碌な灯が無い。人間は元々昼行性だし灯がなければ夜は寝るしかないのである。布団の中で見るブルーライトが恋しくもあるが、静謐な夜は好きだ。
月明かりを頼りに、手を引かれて歩く。
二つ程の家屋を通り過ぎながら、逃走は現実的ではなかったなと自省した。
建築物の密度があまりにも低い。とんでもないド田舎である。良く見積もっても村。下手したら村人みんな親戚説があるので助けを求めたところで無駄だった可能性が高い。
この規模の村だと騎士も常駐していないだろうし、城から救助隊が派遣されるのを待つしかないだろう。精鋭であるはずの近衛騎士を出し抜いた男から匿ってくれなどと、民間人に言えるはずもない。
何せこの男は飛ぶ。流石異世界。ああいった魔法染みたものは初めて見たのでかなりレアな類だろう。躊躇のない犯行から見るに、他にも隠し玉がありそうだ。姫の時は恐怖十割だったが前世さんは思い返すとちょっぴりわくわくしてしまう。オタクの業である。
さて、現実逃避はここまでにしておこう。
目の前には腰掛式便器が二つ並んでいた。村の公衆トイレと言ったところだろう。
間には仕切りの壁。奥にも壁。横にも壁。それと屋根。数が少ないし台風が来たら飛びそうな見た目だがまあここまではいい。
手前側にある開閉できる板はまさかドアだろうか。
あの、下30センチの高さからついてる縦60センチくらいしかない板が? 海外ドラマなどで見たことのある、ジムのシャワーブースよりも開放的なこれがトイレ?
男を見上げる。彼は頷いて少し離れた。
「見てるから大丈夫」
いや見ないでほしい。
どういうこと? 私は幼児じゃないんだが???
いや違うか。恐らく見張ってるんだろう。治安の悪い場所だと女性は一人でトイレに行けないと聞いたことがある。この開放的な板も明かり取りと誰かが潜んでいないか確認するための作りだというなら納得……できないんだよなあ!?
便座に座っても男と目が合うんだが!? こんな状況になる事ある!?
身振り手振りであっち行ってと伝えるとちょっと視線を逸らしてくれたがそれじゃあ足りない。用を足すんだよ!!
もう訳がわからなくなってきて思わず顔を覆った。
気が付くと朝だった。
昨日の夜、目覚めてから再び眠るまでの記憶がない。二度寝でもキメたのかもしれない。きっとそう。
なんだか瞼が腫れぼったいのは割と本気で泣いたせいだろう。顔を洗いたいなと思いながら身体を起こして、隣に男の姿がない事に気付く。
窓が開いていなくても大分明るくなった室内を見渡してもその姿はない。
ただ少し違和感を覚えた。昨日は暗くてよく見えなかったせいかもしれないが、物の配置が変わっているような気がする。あと明らかに他とは違う色の石壁が隅の方にあるのがとても不自然だった。なんというか、中途半端に生えている。仕切りだろうか。あんな狭いスペースを仕切ってどうするのだろう。
不思議に思っていると軋む音と共に木戸が開いた。なんだか聞き覚えがあるな。
木戸から入って来た男はこちらを見てちょっとギョッとしたようだった。
なんだこの失礼な反応は。目を腫らしているとはいえ、こちとら美姫だぞ。
「ごめん、もう少しでできるから……」
男はそう言って焦ったように奇妙な石壁に小走りで向かった。
その腕には大きな板や角材などの木材が抱えられていて、こっちの方がギョッとしてしまった。
小走りどころか一人で運べるように見えない量だ。バランスもおかしい。
改めて見ると、男は背の高い女性に見えなくもない程細身だった。前世ならモデルさんかな? と思うくらいだが、男性は屈強であるのがデフォのこの国では栄養失調っぽさが否めない。
そんな身体で力仕事ができているのはやっぱり魔法的なアレなんだろうな。
好奇心を隠せずじっと見ていると、男は困ったように動かなくなった。
「おはよう、ロジー。何をしてるの?」
挨拶をすると何故か男は肩を震わせた。
「お、おはようリリー……あの、暫くこっちを見ないでほしいんだ」
「信じられないような事が起こった!」とでも言うような顔でこちらを見てくる男は、それから怯えたようにお窺いを立ててきた。
本当に情緒不安定だなこの男は。何故攫ってきたはずのか弱い美少女に怯えているんだ。昨日の勢いはどこへ行った。いや常にあの勢いで来られたら困るけども。
「いいけれど、お水ってどこかしら。顔を洗いたいの」
「ああ、どうぞ」
「ありがとう」
男が背を向けて、奥から水の入ったボウルと布をくれた。
お礼を言うとまた「信じられないような事が起こった!」という顔をしたので、なんだか色々察してしまったのをぐっと堪える。
彼の方を見ないようにして布を水に浸していると、視界の端で硬直が解けた様子を確認してほっと息を吐いた。
トンテンカンテン。ギュイッ。トトトト。ジャー。
恐らくDIYをしてるんだろうけど、なんだか色んな音が同時に聴こえてくるんだよなあ……。
ファンタジーの気配を感じるとそわそわしてしまう。でも見るなと言われた以上、変に刺激したくない。
顔を洗い終えると暇なのでベッドから立ち上がった。すると一斉に音が止む。そのまま顔をあちらに向けないように移動して部屋の中を見て回った。
控えめに言ってごちゃついている。鍬のような農具が複数立てかけてあったり大小様々な作業台があったり、そもそも狭いのに何故こうも物を置くのか。台の上には鍋や食器があるがそもそもこの家キッチンがなくない?
さっき部屋と形容したが実際はワンルームの家だ。キッチンバストイレのないガチのワンルーム。
人の住む場所かこれ。ベッドさえなければ物置小屋とか納屋とか言われた方がしっくり来る。暖炉もないんだよなあ。今はまだ肌寒い程度だけれど、この国の冬は雪が降ってからが長い。一体どう凌いでいるんだろう。
見学しているうちに多様な音は再開したが、私が動く度に静かになるのがちょっと面白かった。
そのままうろうろしてついに男の背後に辿り着く。音が止んだ。
「……できた、と思う」
「もう見ていい?」
「うん……」
振り返るとさっきの石壁に立派な木戸がついていた。玄関の木戸より立派である。これはドアと呼ぼう。
要はちょっとした小部屋ができたのだろう。クローゼットにしては奥行きがあるので納戸かもしれない。
住人が増えたからお片付けするための収納スペースかな? と軽率にドアを開けて言葉を失った。
トイレだ。
丸みのある石製っぽい土台に木製の座面と蓋がついている。蓋を開けてみると見事な曲線を描く空洞に水が溜まっていた。便器だ。
便器の向こうの一段高くなっているところにはコック付きの樽が設置されている。捻ってみると便器の中に水が流れて、渦を巻いて底の穴に流れていく。水洗だ。
コックを閉じると水が止まり、最初に溜まっていた量の水だけが残った。封水だ。
空いた口が塞がらないとはこの事である。
上下水道が完備されていないのがどういう事かと言うと、捻るだけで水が延々と出てくる蛇口なんて存在しないので、全ての生活用水は汲み置きなのである。
使った水が下水道に流れて行く事もない。
盥に張った水と布で身支度をし、汚れた水は外に捨てるのだ。
風呂シャワー水洗トイレなどの水を惜しまぬ設備は夢のまた夢なのである。クソッタレな事に。
姫という立場なので水汲みなどはした事がないが、それでも前世の便利さを知っているとなかなかつらいものがある。
特にトイレは椅子に穴を開けたような便座で、その下の桶か何かに排泄物が溜まるようになっているので悪臭が酷いのだ。
それでも城内にあったしドアもきちんとついているだけマシだった。それが昨夜の公衆トイレときたら……昨夜?
そして私は思い出した。
思い出した途端、大粒の涙が溢れてきた。
昨夜私は泣きながら用を足し、泣きじゃくりながら男に手を引かれて戻り、泣き喚きながら己の境遇を嘆き、最後には啜り泣きながら前世のトイレ事情を語った。
男は謝ったり私を宥めたりしながら「おしろすごい」と言っていたがとても誤解である。お前が最先端だ。
「リ、リリー?」
涙が止まらない私に動揺した様子のロジーの手をそっと両手で覆うように握った。
どうやったのかなんて検討もつかないが、取り乱した私のために徹夜で作業してくれたことはわかる。行動力がマッハ。
しかも私はトイレの専門家ではないので大分曖昧な説明だったろうし、部品も一から用意することになっただろう。
人攫いだとかは今は関係ない。私より大きなこの手を、職人の手を、神の手をどうにか労ってやりたい。拝むようにその手を額に当て、万感の思いを込めて言った。
「ありがとう、ロジー……あなたが世界でいちばんよ」
私は今生で初めて、感動の涙を流しているのである。
ぱちりぱちりと瞬きしたロジーはただじっとして、放心したように私を見つめていた。
しかし感動は長くは続かなかった。
「あっ、お水を無駄遣いしちゃった。汲んでこなくっちゃ」
私はウキウキしていたので思いつくまま口にした。
だってあの樽がタンクの役割なら、あの中に水がないと水洗としての役割を果たさない。そんなの素晴らしい技術に対する冒涜だ。姫だろうがなんだろうが水洗トイレの前ではただの水汲み係と成り果てるべきだ。
水汲みなんてしたことがないが、とりあえず川は外にあるものだしな、と軽快な足取りで木戸に向かった。
しかし辿り着く前に、背後から絡みついてきた何かに動きを阻害されて叶わなかった。
まあ何かというかロジーしかいない訳だけども。
「だめだよ」
感情の読み取れない声だ。
所謂あすなろ抱きというロマンチックな状況なのだけれど、私の心境は蛇に絞め殺される寸前の蛙だった。
「まだ使えるだけの量はあるし、これからも水は僕が用意する。他のものも全部。外は危ないから、出ないで」
軟禁宣言来ちゃったな……。
トイレもあれだ、外に出なくていいように作ってくれたんだろう。
ほかほかしていた胸から体温が失われていく感覚がする。
温度差で風邪ひきそう。