第72話 救いの手
愛する息子を、救えない。
シロナガスクジラに呑まれたような、底知れぬ絶望に打ちひしがれた私、龍宮寺優造は、黄金の扉に誘われた。
伸びてきたのは魔の手だったが、その時の私は、神々しささえ覚えていた。
「ようこそ、クソガキ」
扉の間を三歩過ぎた先で、おかしな生命体、あるいは生命ではない何かが、此方に気づいて手を上げた。
子供にも見えるし、獣にも見えるし、竜にも見えるし、宇宙にも見える。
そんな、形状にこだわりのない、何かだ。
「幼童に見紛うほど縮んではいない」
「不服かな?けれど、私からすればガキもガキさ」
私のような、年金の下りている老いぼれを、彼は子供扱いする。
戯れているような態度ではあるが、冗談や、嘘を言われている感じでもない。
しかも、この扱いがしっくりときていた。
年号が変わるより前、孫として生きていた頃、胡坐をかいた祖父と話す際に抱いた懐かしい感覚が、そこはかとなくあった。
「私の事は『意思』とでも呼んでくれればいい。さあ、契約をしようじゃないか。まずは…お前の望みから聞かせておくれ」
彼は、意思と名乗った。
礼儀として、私も名乗った方が良いだろうか。
そう思ったが、やめた。
態々言わずとも、既に知られているような気がして、無意味な事だと決めつけたのだ。
さて、他者が私に契約を求めるときは、もっと胡麻を擦って、惨めにやるものだ。
少なくとも、ここ四十年はそうだった。
こんな風に、書面のない契約となれば、尚の事。
私の機嫌を損ねれば、全部パアになってしまうのだ、靴を舐めたっていいくらいの覚悟で、皆やってきた。
そんな常識が、彼には通用しない。
寧ろ、此方を畏怖させるような、壮大な気配を内包する存在だった。
「望みは、原因不明の奇病すらも治す、万能の薬。…無理を言っているのは、承知だ」
「そんな顔をするな。喜べ。この世界なら、お前が求めて手に入らなかった薬を、用意できる。その方法は、ちゃんとある」
「何を…?いや、虚言ではない、のか?我が人生をどれだけ捧げても、掠りすらしなかった奇跡が、実在すると?」
「どう?ちったあやる気は出たかい?」
「…意思よ、何が望みだ。奇跡の対価だ、払えるものならば、幾らでも用意しよう」
「気が向いたらでいい。掃除をしてほしいんだよ。思っていたより、進まなくって」
「掃除、とな」
「そう、世界の掃除さ。まあ、やりたくなったらやればいいし、最後までやりたくなかったら、それはそれでいいよ。でも、協力的でいてくれた方が、近づくと思うね…奇跡って奴」
言っている意味が、いまいち理解できない。
だが、何れ分かる時が来るのだと、予感があった。
今、脳味噌から、士道を救おうと奔走した記憶が強引に引っぱり出され、プロジェクター無しに投影され、ビー級映画のように鑑賞されている。
これが私の夢である可能性を除いて、こういった、他者のプライバシーの深い部分にすら踏み込む特権を持つ者の言葉を、世迷い事として切り捨てることはできない。
ある種、我々が神と呼ぶような相手からの予言であると、そう受け取った。
「あ、根源の支配を超越しないと、帰りの扉が開けられないから、気を付けて。壊れた奴を送り返したりなんかしたら、そっちの世界の意思に、怒られちゃうからさ。…さて、そろそろ、お名前を教えてもらおう」
「私の根源の名は、『焦り』」
「相応しい。さて、心残りはある?殆ど誘拐した感じだし、少しくらいなら無理を聞いてあげる」
「…あの部屋に、手紙を書き置けるか」
「おっけー。書けたら、その辺に置いといて。じゃ、期待してるよ。色々と」
そう言った意思の体がぽんと鳴って爆ぜ、後には古びた紙とペンだけが残った。
さらさらと用件だけを書き終えて、それを足元に。
視線を上げると、知らぬ間に、黄金の扉が私を待っていた。
地鳴りのような音を響かせながらゆっくりと開いて、希望の光が待っていた。
私は、未知の世界へ。
◇
緑の往来。
扉を抜けた先は、草木の生い茂る自然の真っ只中だった。
温暖な気候、木の実、広葉樹林、小動物の姿もちらほらと、環境は特異なものではない。
林の向こうに、ツンと尖った屋根が見える。
一先ず、あれを目指すとしよう。
ザッ、ザッと、杖で草を除けながら、歩を進めていく。
パンツの裾が土で汚れ、草染みが付着してしまったが、気にせずともよい。
何せ、此処は別の文化が育まれた世界。
この、繊維の宝石と呼ばれていた高級なカシミアにだって、値が付く保証などないのだ。
安価なジャージだと思って、履き潰してしまえ。
遠巻きに、建物の輪郭が分かるくらいの距離まで来た。
あれは、教会か。
ノルウェー産の大理石のような壁は良いとして、大袈裟な扉と、赤が主体のステンドグラスのせいで、慎ましさが欠けており、センスが悪い。
運営している人間の性根が、表れている。
だが、右も左も分からない私にとって、こういったコミュニティとの出会いは、好都合。
そう思い、さっさと入ろうとしていたが、止めた。
建物の様子をこそこそと窺っている、怪しい者が居たのだ。
若い、とは言っても、四十かそこらの女性。
銀髪、碧眼。
元の生活ではそう見ることのないくらい現実離れした風貌を、目の粗い麻のローブで隠していた。
「何をしている」
「あわ…ご、ごめんなさい!」
私の声に驚いた不審者は、逃げ出して。
どたっと、心配になるくらい派手に転んだ。
大の大人には許されない、無様な転び方だった。
教会を狙った盗人、あるいは強盗。
最初はそう睨んでいたが、この鈍臭さではとてもじゃないが、犯罪など成立させられない。
取り敢えず、とんでもない悪人ではないだろう。
私は、手を差し伸べてやった。
「安心しろ。警察に突き出したりはせん」
「あ、ありがとうございます。警察っていうのは、良く分からないけれど」
どうやら、会話は通じている。
異世界の言語を一から学ばねばならないのかと不安だったが、これは良い。
警察の意味が理解されないのは、それに該当する概念が、この世界に存在しないからか。
我が故郷を想えば前時代的だが、海の外では、自衛が前提の地域など幾らでもあった。
そんなものかと、飲み込む。
となると、人畜無害そうなこの女との関係、軽んじてはならない。
此処が一体どんな世界であるのか、何一つ知らない私にとって、現地民との繋がりは貴重。
情報源として、利用し尽くす。
そう決定した。
「貴様、こそこそと何をやっていた」
「子供が可愛くて、眺めていたの。ほら、見て」
「む」
コートの袖を、ぐいと引っ張られる。
不敬である。
こんな扱いを受けたのは、覚えがないくらいに昔の事だ。
不服に思いながらも、言われた通りに教会の方を見ると、子供が数名、集まってはしゃいでいた。
士道。
つい、脳裏に最愛の息子の思い出が過って、私はそれを振り払った。
異世界にまで来て、思い出に浸っている場合ではない。
「ね?可愛いでしょ?」
「…態々、こんな風に隠れていなくとも良いだろう。疾しい事でもあるのか?」
「邪魔したくないの。あなたこそ、何しているの?こんな暑いのに、変な格好ね」
「む」
またも、不敬。
いや、社会的地位は零になったのだ、さっさと今の身分に慣れなければ。
一旦、眉間に寄った皴を緩ませ、思案する。
まず、どこから話せばよいものだろうか。
別の世界から来ました、なんてことを言って、おかしい奴だとまた逃げ出されても、困る。
まあこの女の場合、逃げられたところですぐに追いつけるだろうから、弁明自体は可能だが。
踏ん切りがつかずにいると、彼女は、納得がいったとでもいうように、拳を手のひらにポンと乗せた。
「もしかして…転移者だったりする?あなた、別の世界から来たんでしょ!」
「何…?まさか貴様、意思の手先か」
「へ?」
「違うのか」
「誰の手先でもないから、安心して。怖い顔しないでよ。元々怖いんだから。顔」
「む」
「此処では、そんなに珍しくないの。他所の世界から来たって人。各地で見つかってるって聞くわ。…私は、本物と会うの初めてだけれど」
女は物珍しそうに、じろじろと私を眺める。
興味が先行して、他はどうでもいいといった感じだ。
話を聞くに、転移者と呼称された異世界人は、私の他にも一定数存在するらしい。
この世界にとっての異分子は、自分唯一人だと勘違いしていた。
だがしかし、それでも私は特別である。
私ほど多彩な人間など他におらず、私ほど栄華を築いた現代人はおらず、だからこそ、意思は私を選んだ。
そうに、違いない。
「ねえ、もし良かったら、話を聞かせてよ。お返しに、こっちの世界の事を教えてあげる」
「良いだろう。まずは、私に食事を奢れ。金がない」
常日頃と同様、私が胸を張って話すと、女はくの字に腰を折って、笑った。
今思えば、この変わり者との出会いは、仕組まれていたのだろう。
私は、悪意に満ちた指先に摘ままれて、運命のトロッコに乗せられたのだ。




