第64話 盾
蒼い剣を握るその手に、力感が戻る。
盾としての役目を失敗したばかりである俺の言葉を、ブライスは鵜呑みにしたのだ。
彼女の深い信頼に、今度こそ応えねば。
とはいえ、気の問題でどうにか体勢を保っているだけで、彼女の肉体はとっくに臨界状態。
再び照れくさい台詞を吐いたところで、魔法の力は宿らない。
だから、チャンスは一度。
この一時だけ燃え盛る火事場の馬鹿力を、絶やさず敵の懐まで送り届けるのが、俺に課せられた絶対の使命だ。
ギリッと歯を噛み締め、自らに闘魂を注入したブライス。
そして、伐採された森林の中を一目散。
「絶対に守るだァ!?やってみろ、口だけ野郎!」
不細工に顔を顰めたアイディーが俺を罵ったのが、開戦の合図。
射出された鱗による数多の射線が、ブライスを迎え撃つ。
一騎当千と謳われがちな彼女だが、千の射撃をその一身に向けて集中放火される日が来ようとは。
酷く消耗している今、迫り来る鱗の全てを回避し切る余力などない。
許されていたのは、前だけを目指した全力疾走のみ。
だが幸い、槍のように直進している限り、被弾面積は広くない。
この自慢の目で、直撃する鱗を素早く限定、防御さえできれば、ブライスがこの死闘を終わらせてくれる。
左右の黒目がキョロキョロと細かく動き、盾を生成するべき座標を決する。
広大な世界における、この一点。
この一瞬へと、のめり込む。
先程貫通を許した盾だって、人生最小のサイズだったが、まだ足りなかったのだ。
軍人らしく、ただ冷静になるのではダメ。
胸一杯の感情を集中力へと変換し、鬼に成れ。
そう気張った瞬間、透明感の欠片も無い力強い緑色に、剣が染まった。
顕現されたのは、飴玉のような、限りなく小さな球体。
三次元を織りなす軸の何れにおいても正確に配置されたそれは、ブライスの太腿を貫通する予定だった鱗と衝突し、火花を散らした。
密度が極端に増した魔力の塊は、鋭い鱗の先端すらも、通さない。
遂に、通さなかった。
鱗が弾かれる際のカインという小気味良い音は、真夏の蝉の求愛の様に、延々と鳴り響く。
その一回一回が、脳が痺れるくらいに集中した結果であり、十度目を数える頃にはもう、俺は人を辞めていた。
寿命を擦り減らす感覚が、頭の裏の方でキリキリとしていたが、人生の前借り上等。
この不可能を、成功確率一パーセントの奇跡へと変化させるためになら、どんな犠牲だって惜しむものか。
集中力の底なし沼へと沈んだ俺は、時間が止まっているかのように錯覚したが、それでもブライスは確実に、一歩一歩前へ進んでいた。
一度は期待を裏切った俺に命の行方を預け、乳酸が溜まってパンパンになった脚で、ただひたすらに大地を蹴った。
満身創痍のブライスが白目を剥いてまで戦っているのだ。
この程度の地獄、真に永遠であっても構わない。
そう思えた時、ブライスがゴールテープを切った。
「嘘だ…そんな、馬鹿な話が!」
遠くでアイディーが頭を抱えているが、事実として、奇跡は起こってしまったのである。
残すはもう、結末を見届けるだけだ。
黒竜は前足を振るって足掻いたが、ブライスが股の間へとスライディングしてしまえば、いよいよ為す術はない。
後ろ足の鱗が禿げた場所から刃が侵入し、極太の骨ごと一刀両断。
一撃につき、一本の足が胴体から切り離され、折り返してきたブライスによって、前足も同様に捌かれた。
四度跳ねた青い光は、支えを失い落下してくる竜の体に潰されることなく逃げ帰り、そこで糸が切れたように、消滅する。
光を失った剣を手放して倒れ掛けたブライスの体は、歩み寄った俺が抱き留めた。
「迎えとは、随分気が利くではないか」
「伊達にライター係やってませんよ」
生と死の狭間を越えた先で交わす冗談は、酒よりもご機嫌な味がした。
この味を共有すれば、どんな堅物でも気分が良くなり、浮かれてしまうに違いない。
泥と傷でいっぱいの両足が眠りにつき、竜と同様自立できなくなってしまったブライスは、俺の腕の中で落ち着いてしまった。
脱力し切った体の重さが愛しい。
何時までもこのままでいたいのは山々だが、悲しいことに、まだ勤務中だ。
ゆっくりと倒木にブライスを寝かせると、表情はやや不満気。
そんな顔をされても、誰かが後始末をしなければならないのだから、此方も苦笑いするしかない。
見ると、黒竜から分離した四本の足が朽ち果て、塵となっていく。
足と尾を失って、残っているのは丸裸の胴と首だけだ。
そして、竜に寄り添うアイディーの方も、体全体の血管が膨れ上がり、老人の様に皴だらけ。
残り短い時間をどう過ごすか、というところまで来ていた。
「ヨボヨボになったもんだ。あんなに可愛かったのに」
「ああ。こんな不細工な顔、賢者様には見せられない。…残念ながら、救われた世界で、祈りを捧げるという私の夢も、叶いそうにありません」
「救われた世界か…。思想を暴力で押し通して、結果としての平等が手に入ったところで、その世界は本当に救われているのかな」
「その結末を自らの目で確かめる事は出来ません。しかし少なくとも、大いなる意思は救済を、変化を望んだ。であれば、私たちがやるべき事は、一つでした」
アイディーの淑やかな人格が、語る。
解ってやりたい気持ちもあったが、彼女の想いは、宗教に、神に身を捧げていない俺には、難しい。
終わりが近い中、噛み合わない問答を続けるのは、野暮か。
言いたいことを言い終えた聖女が引っ込んで、裏の人格が顔を出す。
数秒前より幼く見える彼女には、派手なピアスが似合っていた。
「…懐かしいぜ。お前のそれは、勝ったつもりでいる奴の表情だ。病院で俺を憐れむ奴らは、大体がそんなような、ムカつく顔をしてた」
「…何が言いたい?」
「残念ながら、どうやら俺は負けたらしい。それは認める。認めるよ。…だが、果たしてお前は本当に勝ったのかな?」
アイディーは、意味深に笑う。
すると突然、黒竜の大顎、それと黒目を失った瞳が、ぐわっと開いた。
牙も舌も溶け切った口腔の中に隠されていたのは、どろりとした真っ黒な炎。
熱を貯め込んですぐにでも爆ぜようとしている様は、さながら地獄の釜だ。
此処に居てはいけないことなんて、誰でも分かる。
俺にはまだ、走って逃げる余力もある。
しかし、後ろにいるブライスはもう、動けない。
逃げ出そうと試みてはいたが、膝立ちすら叶わず、崩れ落ちてしまった。
「チッ、両方は無理か。だがババア、手前は此処で死んでおけ…!」
「クリード、すぐに退避しろ!…これは命令だ!」
地を這いつくばったブライスの、厳しい声が響き渡る。
思わず足を止めた俺を、さっさと此処から追い出そうと、躍起になっていた。
名誉の死か、苦渋の生か。
その何方かを選ぶ分かれ道を目の前にした俺の頭に、あの日の記憶が過る。
親友と交わした約束が、過ったのだ。
「そうか、俺の番か」
俺が選んだのは、ジェイクと同じ道だった。
正真正銘、最後の命令違反。
まあ、当然アイツと違って初犯ではないし、トイレ掃除の罰には慣れっこなのだが。
「何を…何をやっている、クリードォ!」
砲台と化した竜と向かい合う俺の落ち着き加減に絶望したブライスは、地面に爪を立てたり、またその爪痕を殴り付けたりと、みっともなく狼狽する。
その叫びには、胸焼けがするくらいの情が込められており、思わず、口元が緩んでしまった。
俺は、もう愛は実っていたのだと、言葉にすれば結ばれていたのだという確信を持って、死ねるのだ。
一人で地獄の門を潜るために、その先で待つ親友に胸を張って会うために、愛する人をあの炎から守ろう。
悔いを一切残さず、晴れやかな気持ちで逝こうではないか。
果たして、本当にそれで良いのか、俺は。
此処で俺が死んでも、アンテノーラ姉妹による決死の訴えは、意味を為すだろうか。
命を枯らして戦ったアイディーの主張は、皇帝の耳まで届くだろうか。
何より、ブライスはこれからを、幸せに生きられるだろうか。
「馬鹿共が、イチャつきたいなら地獄でやれや…目障りなんだよ!」
顔を顰めたアイディーの怒りを発散するかのように、崩壊寸前の竜の体から、メラメラと燃える黒い炎が撃ち出される。
対して、寸前まで迷いに迷った俺は、大地へと突き刺した細剣に、残りの魔力を注ぎ込んだ。
ちらり閃き、それを追いかけてもう一度輝いた剣を中心に、光の盾。
一枚、また一枚と完成して、最終的には俺とブライスを五重に覆った。
決して、犠牲心の元で造られた盾ではない。
守りたかったのは、敵が掲げる正義の煌めきを目の当たりにする度、胸中で油粘度の如く形を変え、とうとう固まった思想。
そして何より、俺とブライスが共に生きる未来だ。
魔力が枯渇したせいで足がふらつくが、剣を杖代わりにして耐えろ。
曖昧になっていく意識は、口の裏側を噛んで取り戻せ。
寝ている間に死んでいた、なんて事があっては、誇り高き腕章が泣く。
俺が睨み付けた先で、竜の炎と盾が衝突した。
「あの方へ捧げる最後の炎が…こんな薄っぺらい壁に止められて堪るかァ!」
水分を完全に失った右腕がさらさらと崩壊しようとも、アイディーの叫びには、ここ一番の生命力が乗っていた。
その後押しもあり、一枚目の防壁は、数秒と保たず。
熱と圧力によってじわじわと罅、そして粉々に砕け散り、霰となって大地へ。
すぐに二枚目、三枚目、と砦が攻略されていく様を、俺とブライスはただ見守る事しかできない。
それでも表情に希望の色が消えないのは、防壁を食い破る毎に炎が減衰しているから。
生を諦めない選択をした俺は、地獄行きの列車へ無理矢理連れ込もうとするアイディーと黒竜に、抗い続ける。
俺は守りたい、生きたいと、アイディーは燃やせ、殺せと心中で叫ぶ。
この場にいる誰も関与のできない、ただ結果を待つだけの時間。
当事者でありながら、外野でもあるこの一秒一秒は、互いの精神を食い荒らした。
さあ、残すは一枚。
数十センチ前方で壁に伸し掛かる黒い炎が、嗤う。
最後に愛の言葉を囁き合っておきたいなんて、そんな甘えた考えは、プライドという名の防波堤が塞き止めた。
折角此処に残ったのだ、敗北の恐怖なんぞに平伏してなるものか。
そう腹を括った途端、光の盾がピシッという悲鳴を上げた。
「後悔しろ…女を置いて逃げなかった事を…心の底から…!」
望んだ結果が見えても尚、アイディーの形相は、おどろおどろしい。
愛や絆と呼称される見えない糸が、余程気に喰わないようだ。
裏の人格として存在している彼女にとっては、確かに得難い代物か。
そもそも、魂が個人として認識されない苦しみなど、誰が理解できようか。
二人で一つのアイディーは、そういった意味で圧倒的に孤独なのだ。
世の中から切り離されたせいで、募りに募った嫉妬心が、狂ったように燃え盛っていた。
雪の結晶と似た小さな罅が徐々に広がり、やがて視界は真っ白に染まる。
その白が弾けて散り、美しい光の雨を降らせたかと思えば、奥からどす黒い炎が、顔を出した。
何もかも、灰にしてやる。
空気の流れに便乗して加速した熱に、そう脅された気がしたが、絶望はない。
俺は両の手足を広げ、最後の盾となった。




