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第56話 幸福な男

 もう使い物にならなくなったこの広い部屋では、着飾った貴族が踊ることも、シャンデリアが輝くこともないのだろうが、代わりに、紫の小さな光が妖精のように舞い踊り、未だにこの場をダンスホールたらしめている。


 そして、舞台の中心に居るのは片翼の天使。

 此処はもう、人のための舞踏場ではなかった。


「ああ、鏡があったなら、自害を考えただろう。世界一醜悪な姿を見ずに済むのは、幸運か」


 珍しく自嘲するグレイドは、様々な部位が欠損した痛々しい姿をしており、赤い瞳はどこか虚だった。

 人格を形成するための、外皮の役割をしていたプライドが、打ち崩された結果か。

 あれは、何もかもがどうでもよくなってしまった、諦めた人間の目だ。


 手にした自慢の刀は切先から大部分が溶け、赤いコートの裾も黒く焦げている。

 グレイドを象徴する要素の中で、綺麗に形を残しているものは、左手の薬指に嵌められた銀色の指輪、ただ一つ。

 それでも、体に纏った力は俺たちを屠ろうと轟々と燃えており、触れたものを一瞬で溶かしてしまいそうな熱が、此処まで届いていた。


 まるであの炎が、宿主の人間性を貪っているように見えた俺は、自らの行き着く先もこうなのかと、漠然とした絶望に苛まれる。

 そんな嫌な想像を振り払うためにも、兎に角、強い言葉を選んだ。


「不細工が…地獄に堕ちろ!」


 狙いを定めた俺は、グレイドの直上の重力をピンポイントで操り、再度奈落へ突き落としにかかる。

 しかし、狙いを見透かした彼は、ふわりと翼をはためかせ、最小限の動きで攻撃範囲の外へ。

 更に、リリィの氷魔法が追撃したが、くるりと旋回、悠々と躱してしまった。


 攻撃を避け切った彼は、優雅に腕を上げると、炎を灯した壊れかけの剣を、その場で振り下ろす。


「拳骨喰らって、脳味噌イカれやがったか!」


 突然の奇行を俺が馬鹿にした、次の瞬間、刀に触れた紫色の光が、爆発した。

 それにつられて、付近の光も次々に誘爆。

 完成してしまった爆発の連鎖が、凄まじい速度で広がった。


 部屋全体に分散している光を見て、回避し切るのは不可能だと悟った俺たちは、各々でどう抵抗するか、そして、何を犠牲にするかの判断を下さなければならなかった。


 俺は、シャッツの背後に漂う光を重力で叩き落とし、反対に、俺の正面の光をシャッツが水魔法で払ったが、完全な安全地帯を作り出すには至らない。

 どうにか、コイツだけは。

 俺はすぐさま振り返り、細く小さな体を、抱き締めた。


 やがて訪れたのは、星が生まれる一瞬のような、眩さ。

 光の明滅が、俺の背中を溶かした。

 体感した事のない高温に、服も、肌も、肉までも削がれ、痛みに気を失えば、次の爆発に叩き起こされる。


 貯め込んだ心臓の力で、細胞の欠損が強制的に修復されるせいで、死んで楽になることすらも許されない。

 拷問のように継続する苦しみは耐え難く、俺は、途切れ途切れに叫んでいた。


「ガアア、アアアア!」


「バルカン様!」


 必死に俺の名を呼ぶシャッツの声が聞こえては、遠ざかる。

 頼りになるのは、彼の命を守っているという、実感だけだった。

 

 そして、何回目か、十何回目かも分からない気絶からの復帰。

 遂に、呼吸が許される。


「…私はこの力が嫌いだ。何故か分かるか?奴隷」


 罪人の休息を、神の使いは見逃さない。

 既に側まで近寄っていたグレイドは、嫌になる程冷静な声で、シャッツに問い掛けた。

 

 向けられた刀は殆どが欠損していたが、紫の炎が、足りない分の刀身を補っている。

 鉄の刃とは異なる過程を通じた、同じ死という結末を与えようと、燃えている。

 

 魔法で抗おうとした俺の視界は霞み、頭はぐるぐると不規則に回転。

 先の衝撃で三半規管が狂ってしまったらしく、上手く座標が定まらない。

 そのため、俺はグレイドの方へと振り返り、ズタズタになった両腕を広げることしかできなかった。


「貴方が天使ならば、彼に慈悲を」


 質問には答えず、純粋な命乞に取り組んだシャッツ。

 声の弱々しさは、口にした内容が正しく伝わるかどうかも怪しい程。

 しかし、本当のところでは、主張さえできれば良かったグレイドは、構わず、言い放つ。


「この世には、天使も神も、存在しないからだ」


 偶然にも、命乞いへの回答として成立したグレイドの言葉に、祈るシャッツが息を呑む。

 ところが、偽りの天使による刑の執行には、邪魔が入った。


 紫色に唸る刀を受け止めていたのは、黄金の義手。

 主であるジェシカの防具は全て外れており、肌には無数の出血が。

 それでも、彼女の瞳には生存への執着が、強者の覇気がある。

 手負の虎の迫力に、これまで無表情だったグレイドも、驚きを隠せずにいた。


「そこまでの傷を負って、まだ動くか…!」


「この腕は特別製…安くねえぞ」


 鉄製の義手は熱に耐え切れず、斬り落とされた。

 が、それに掛かった数秒によって、リリィが放った電撃がグレイドの横っ腹に到達、体勢を崩す。

 隙だらけの顔面を捉えたジェシカの拳が、天使を豪快によろめかせた。


 やっと、一撃。

 ただ、その手応えに納得がいかないジェシカは、口元の血を拭いながら、不満を零す。


「クソッ、上手く腰が入らねえ。命拾いしたな、死に損ないが」


「…女に殴られるなど、初めての経験だ。貴様、中々に面白い女だったぞ」


 面白いなどと口先では言うものの、表情筋には動きがない。

 対して、ジェシカの方は、疲労感を隠せなくなっていた。


 どう決着をつけるか、無い頭を回転させていた俺の背後から、ひゅんと風を切る音。

 ダンスホールの入口の方から飛来した何かが、俺の肩の辺りに命中し、その衝撃に体が揺れた。

 痛む箇所に目をやると、そこには、長い矢が。


「グレイド様に仇なすとは、身の程知らずが!」


「捕える必要は無い。全員殺せ!」


 弓矢の出所では、武装した愛されし者の兵士たちが息巻いている。

 戦闘に時間が掛かり過ぎたせいで、遂に援軍が到着してしまったらしい。


「…チィ、無断で俺の邪魔してんじゃねえぞ、雑魚共が!」


 俺は、肩の筋肉に錨を下ろした矢を、強引に引き抜く。

 その勢いのままに乱暴に天井を破壊し、援軍の足を妨害にかかったが、今の魔法の精度では、奴らを完全に分断することは叶わない。

 時間稼ぎとしても、不十分だ。

 

 肩の穴は鮮血を吹き出した後、元の形に閉じようとはしない。

 どうやら、俺の心臓も、最後の一つとなっていた。


「バルカン様…私を囮にして下さい。この中で、一番の足手纏いは、私です」


 やけに落ち着いた声が、俺を呼ぶ。

 見ると、汚れたスーツの裾を両手で掴んだシャッツが、俺を見据えていた。


 小刻みな震えが伝わってくる。

 最初は命を賭けた提案に怯えているのかと思ったが、そうではない。

 神秘的なまでに美しく透き通る赤と青の瞳に宿っているのは、俺を失うことへの恐怖。

 渡り歩いた全ての世界で、唯一この青年だけが、ありのままの俺を必要としてくれていた。


 それさえ分かれば、十分。

 迷いや憂いは消え失せ、腹が決まった。


「俺の命令は絶対だ。それは、これから先もずっと変わらねえ」


「…バルカン様?」


 スーツの内側のポケットにサングラスを仕舞い、それをシャッツの肩に羽織らせると、彼は不思議そうに、表情を窺ってくる。

 考えを悟られないよう、すぐさまグレイドの方へと歩き出した俺は、最後の命令を告げた。


「幸せになれ、シャッツ」


 俺の口振りに、何かを感じ取ったジェシカとリリィが、眉をぴくりと反応させる。

 この空間から邪魔者を排除するためには、二人の協力は欠かせない。

 若者の力に頼り切りになってしまうのは情けないが、彼女たちの命を繋ぐことにもなるのだから、悪い話ではないはずだ。


「舐められたものだ。私がこれ以上、勝手を許す訳がないだろう。全員此処で始末する」


「鼻から一抜けした奴もいるんだ。それが何人増えようと、変わらねえだろ」


 グレイドは、俺の意向を察していた。

 コイツには、最後の最後まで、ダサい部分を見抜かれっぱなし。

 しかし、最終的には恥ごと潰されて、骨までぐちゃぐちゃ。

 なら、どうでもいいではないか。


 ワイシャツのボタンを一つ外すと、空気の通りが良くなったせいか、体が軽く感じる。

 今になって、ようやく仮初の姿から解放されたのだから、我ながら、面倒な人間だったと思う。


「ずっと目障りだった。…その奴隷を従えてからの貴様は、特にだ!」


 嫉妬の炎を纏った紫色の刀が、俺の肩へ。

 骨でさえも勢いを止める事ができず、パックリと胸まで裂けた。

 体を内側から焼かれ、発狂しそうになるのは、気合いで我慢。

 俺は、笑った。

 不細工に、笑った。


「なあ、俺は今、最高に幸せだぜ。手前と違って、幸せなまま死んでやるよ!」


「貴様…なぜ貴様はァ!」


 単純な煽りにグレイドの恨みが増幅し、炎は激化。

 噴出し、周囲を包み込む。

 この一瞬、化け物二匹だけが、世界から分断された。


「…消えろ、ガキ共!二度と俺にそのムカつく面ァ見せんじゃねえ!」


 そう、二度とだ。

 奴らと俺の最終的な行き先は、逆方向。


 足音が、左右を通り抜ける。

 右は、息遣いを落ち着けて、冷静に振る舞おうとするリリィ。

 ギリギリと鳴るほどに奥歯を噛み締めながら、暴れるシャッツを片腕で抱えた左の方が、ジェシカか。


「バルカン様!バルカン様!」


 ようやく何が起こっているのかを理解したシャッツは、完全に正気を失っており、今までに聞いたことのない声で喚く。

 躍起になって、此方へ手を伸ばしているのが、分かる。


 俺は、最悪の飼い主だ。

 彼が今、あれ程までに深い悲しみを抱いているというのに、どれだけ愛されていたのかが形になったことで、充足感を得ているのだから、呆れて笑える。


「逃すか、私の全てを奪った、差別主義者共!根絶やしに、根絶やしにせねば…!」


 マジョリティを許せない、グレイド。

 視野が塞がっていたため反応は遅れたが、彼は離れていく三人を諦めない。

 リリィについて部屋を出たジェシカとシャッツは、炎の渦に追い付かれ、覚悟する。


 しかし、炎は扉を超える寸前、神の視点から振りかざされた、理不尽な力にひれ伏した。


「恨み辛みじゃ、花は咲かねえぞグレイドォ!」


 グレイドの襟を掴んだ俺は、魔力を盛大に吐き出し、ダンスホール全域を、重力の負荷で覆った。

 もう、誰かを巻き込まないよう注意する理由などない。

 調整無しに、ただただ、力一杯。

 

 ホールの天井を全壊させれば、援軍の足も阻害できる。

 一石二鳥。

 俺はやっぱり、天才だ。


 当然、標的のグレイドだけではなく、俺も等しく重力の下敷き。

 膝や足の裏の骨が、悲鳴を上げる。

 血が固まりかけていた傷口が目を覚ます。

 それでも際限なく、肉体に鞭を打った。

 この出血量ではどの道助からないのだから、残された仕事は、同じく満身創痍となった天使との、我慢比べのみ。


「さあ、仲良く地獄に落ちようじゃねえか!」


「ふざけるな…そんなに死にたければ、貴様だけで死ね!」


 マジョリティへの復讐を諦めないグレイドは、最後まで灼熱で俺を虐める。

 だが、俺は堪えた。

 根性一つで、耐えていた。


 つい先程までは、シャッツが生きる未来の平和を願って、命を捨てることになるとは、思いもしなかった。

 奇しくもそれは、幼き頃の俺が理想としていた正義の姿。

 愛は俺の人生に水をやり、最期に花を咲かせたのだ。

 彼の幸せのためならば、どんな困難すらも超越する自信があった。


 しかし、突如一秒間だけ、俺の意識が何処かへ。

 不幸なことに、天井の破片が後頭部に直撃したのだ。


「…地獄とやらの入口で待っているがいい。すぐに貴様の連れが、後を追う」


 蛙が死ぬ時のような、短い悲鳴を上げた俺が、腕を床に突き目を白黒させている隙に、重力の檻から解放されたグレイドは、左腕を真横に持ち上げた。

 刀を握った、左腕だ。


 今も尚、シャッツへの殺意に溢れるこの男を、自由にしてはいけないと分かっているのに、幸せな走馬灯が、邪魔をする。

 もういいと、都合の良い幻が俺の頭を撫でてくるせいで、心が満足してしまう。


 力が抜けた俺に対し、腹を空かせた刀が炎を吹いた、その時。

 遅れて降ってきた瓦礫が、グレイドの関節へ。

 耐え切れず千切れた左腕と、指輪の煌めく指に握られた刀が、床で口を開いたままの奈落へと、呑み込まれていく。

 

 運が此方に傾いたかと期待したが、今更両腕を失おうが、関係がない。

 魔法さえあれば、今の俺に止めを刺すことなど、朝飯前だ。

 その上、俺の心臓を平らげてしまえば、グレイドは元通り、五体満足。

 神様の悪戯だったが、高が悪戯。


「…もう私を置いていくな、カトリーヌ!」


 ただ永遠の闇が訪れるのを待っていた俺の耳に、床をだんと蹴る音、それと、なりふり構わぬ無様な声が。

 ゆっくりと周囲を確認すると、グレイドの姿が何処にも無かった。


 まさかと思い、腕の落ちた方を覗き込むと、深淵に向かって、紫に光る翼がはためいている。

 何故だか、落下していく左腕に拘ったグレイド。

 追いつこうと全力で加速し、遂には腕と一緒に墜落した彼は、ぐしゃり。

 生々しい音を立てた。


 輝きは儚く消え失せ、もう何の気配もしない。

 崩れ行くダンスホールの一番底が、グレイドの選んだ死に場所だった。


「地獄に近い、悪くない場所を選んだな」


 そう吐き捨てるように言ってから、瓦礫の山に倒れ込むようにもたれた俺は、一つ、溜め息を漏らした。

 

 流れ出る血液で、憂鬱になる。

 ようやく楽しくなってきたところなのに、お前の人生はもう終わりだと、釘を刺されているような気がする。


 ただその悲しみは同時に、心境の変化を表していた。

 今を生きたいと、やっと心の底から思えたのだ。

 幸運だけで勝利を収めた最後の戦いも含め、何から何まで、正義のヒーローとは程遠い人生だったが、俺は、満足していた。


「最高に、幸せだ」


 呟きは、高い空へと消えていった。




 ◇




 絵画の並ぶ通路に出た私たちと、ダンスホールに残った二人が、降り注ぐ瓦礫の山によって、区別される。

 騒々しいのは数瞬で、すぐに静けさがその場を包み込んだ。

 

 私を抱える腕の力が緩まり、やっと抜け出せる。

 積み重なった石と鉄骨が、無力な私を馬鹿にしていた。


「…私は、此処に残ります。最後まで協力できなくて、ごめんなさい」

 

 私が言うと、ジェシカとリリィは身勝手を非難するようなことはせず、ただ黙って、此処を後にした。

 

 その駆け足が消えた途端、足の力がストンと抜ける。

 灰色の壁の前に、膝から崩れ落ちた。


「あなたがいない世界で、私がどう幸せになれると言うのですか」


 震えた声も、分厚い壁に敗北して、虚しく消える。

 孤独の寒さに耐えるには、黒いスーツの温もりだけでは、足りなかった。


 舞い散った石や埃は世界を汚し、灰色にくすませる。

 どれだけ涙に洗われても、色の帰って来ない時間は、まるで、サングラス越しの景色だ。

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