第5話 医療の国
「腹減った」
「二度と言わないで」
不満を口にした俺は、即座、リリィに叱られた。
似たり寄ったり、変わり映えのしない風景の中、隣国目指して丸二日。
水以外何も口にしていないのだから、意味のない文句だって、言いたくもなる。
大した距離はないというリリィの話を鵜呑みにしたが、それが大間違い。
自信満々だった彼女も、今や頭の高さが、首と並行の位置まで来た。
どう見たって、限界はすぐそこだ。
「いや、流石に無理だろ、これ以上は…。お前の計画性、どうなってるんだ」
「うるさい」
苦言を呈した俺の腹が、ストレスの捌け口にされた。
深々とめり込んだ握り拳には、空腹の女性が振るったものとは思えない威力が。
今、腹部だけは、聖域だというのに。
刺激された傷がぱっくり口を開け、栄養不足な人体の、貴重な貴重な血液が、汚れた布からぶわっと染み出す。
ナイフで自ら開けた穴を、どうにか塞いだかと思ったら、また開いて。
俺の体は、遊び道具ではない。
「ぐッ…お前、やって良い事と悪い事がだな…」
「あ」
穴をこさえた張本人の、気まずそうな声が聞こえたのを最後に、俺は、道のど真ん中で意識を手放した。
この女の前で、何度気絶すれば良いのだろうか。
◇
何か、柔らかい素材の上に、寝かされている。
雲の上だったら、あの女を許さない。
「私は悪くないんです」
「はぁ…」
すぐ側で弁明するリリィの声と、それに呆れる、誰か。
知人である此方が恥ずかしいので、頼むから、大人しくしていてもらいたい。
細目で周囲を窺ってみると、厄介だった直射日光とは、窓で切り離されていた。
まだ訳が分からず、瞼を擦る。
何度見ても、此処は小綺麗な馬車の中。
「良かった。気が付かれましたか」
質感の良い、臙脂色の衣服を身に纏う男が、金色の丸眼鏡越しに、にこやかに笑いかけてくる。
その物腰の柔らかさに表れているのは、社会的強者特有の、余裕。
おぼっちゃんであることは、まず、間違いない。
「私はルーク・デ・メディチ。ルークと呼んで下さい」
「俺は龍宮寺・フォン・優太。コッチはユータで」
名乗ったルークの優雅な挨拶に、喉が反射的に張り合ってしまい、全くもって、下らない嘘が口を突いた。
金だけは有り余っている、太い実家に張り付いて生きていたため、身分を下に見られるのが、ちょっぴり悔しかったのだ。
今や貧乏人どころか、無一文。
情けない限りである。
「ユータさん、傷の具合は大丈夫ですか?」
「そういえば!…ってアレ?傷が、無い?」
「あんた、本当は刺されて無かったんじゃない?」
「黙れ」
俺が苛々したとわかるや否や、リリィはそっぽを向いて、口笛を吹き出した。
例の一件をそこまで気にしていないのが、バレてしまったらしい。
だが、被害者である俺が許したからといって、加害者であるリリィが調子に乗って良い、という事にはならない。
その後も、何度も探したのだが、そこにあるはずの傷口は、結局見つからなかった。
汚れたシャツをたくし上げても、手術跡すら無い、生まれたままのキレイさである。
「勝手ながら、治療を」
「治療って言ったって、あんなに深い傷だったのに…」
「我々の国メドカルテは、回復魔法の聖地ですから」
自らの胸に刺繍された紋章に手を翳して、ルークは誇る。
回復魔法。
セドリクの説明にあったため、存在だけは知っていたが、こんなにも早く実体験することになろうとは。
その他の魔法と違って、実害を及ぼすことはないだろうし、これは便利。
言えば、便利すぎる。
大金の匂いが漂う、とんでもない技術だ。
俺が圧倒されて何も言えずにいると、リリィの肩が寄りかかってきた。
「あんたが倒れたところを、たまたま通りかかったルークさんが、魔法で治して下さったの。しかも、メドカルテまで、送ってくれるって」
「そうか、良かった…。もう、理不尽に歩かされなくていいのか」
地獄のような、飲まず食わずの徒歩移動は、終わりを告げた。
その喜ばしい事実を知らされ、胸を撫で下ろす。
それから、大恩人であるルークと目を合わせると、彼は、俺の頭に浮かんでいた感謝の言葉を察して、はにかんだ。
「たまたま同じ目的地でしたから。お安い御用ですよ」
眩しい。
余りにも善人が過ぎる言動のせいで、日を背負っているのは俺たちなのにも関わらず、ルークに後光が差して見えてしまう。
器の大きさにおける完全敗北を認めた俺は、己を改め、頭を下げた。
「あの、龍宮寺優太です…」
◇
それからの道中、旅の目的や、自分が異世界から来たという事実を、ルークに明かした。
何気ない会話の流れで聞かれただけであり、偽ったって良かったわけだが、結局は、カミングアウトを選んだ。
恩人を相手に、もう嘘をつきたくなかったのだ。
異世界からの転移、なんて突拍子もない話を信じてもらえるか不安だったが、セドリクやリリィと同様、さほど驚かれず。
このグランシア大陸では、他所の世界が出身の人間が、特段珍しくもないらしい。
「成る程…私にできる事があれば、何でも言って下さい」
「ありがとうございます、ルークさん。命を助けてもらっただけでも、感謝しきれないのに」
「折角ですから、もっと気軽に呼んで下さい。私もユータのような、同い年の知り合いができて、嬉しいんです」
「…ありがとう、ルーク」
ルークの一方的な優しさは、ツボを的確に捉えており、一言交わす度に魅了されてしまう。
これがいわゆる、人たらし。
初めて関わったが、これは確かに、抗い難い幸福感だ。
頬杖を突いた俺がルークの表情を追っていると、彼は景色の変化に気づいて、爽やかに、笑顔。
「そろそろ着きますよ。我が国を気に入ってもらえると良いのですが」
医療の国、メドカルテ。
検問所には、人が一人立っているだけ。
実に簡易的であり、この辺りの治安の良さが窺える。
馬車に乗ったまま、あっさりと門を越える。
周りを人がいっぱい歩いているだけで、ほんのり嬉しくもあったが、何より、遠くの方に聳え立つ円柱型の建造物が、目を引いた。
「あのデカい塔はなんだ?」
「あれは私の父が管理している、この大陸最大の魔法医療施設…メドエストです」
「え、メドエストを管理って…」
何かを察して身を乗り出したリリィが、聞き返す。
彼女が食い付いた意味が分からず、ただぽかんとしていた俺を他所に、ルークがコクリと頷いた。
「実は父が国王を務めているんです。…とはいえ私は第二王子ですけどね。国王になるのは、何事もなければ兄でしょう」
「俺は、王族に張り合ってたのか…」
先刻抱いていた嫉妬心が馬鹿馬鹿しくなってしまい、溜息を吐く。
俺の命は、王子様に拾われた。
これが、お姫様の気分か。
殺風景な我が家には置かれていないため、その類の本を読んだ経験はないが、何となく、そう思った。
国境の外で行き倒れていた、ボロ雑巾を気に掛けるなんて、人が良過ぎる。
まさか、本当に童話から出てきた訳では、ないだろうな。
「王子様にお願いがあるんですけど」
ここぞとばかりに、パッと手を上げたリリィ。
これだけ良くしてもらって、更なる要望とは、図太い女である。
とはいえ、医療先進国の中核といっても相違ないルークとの縁は、俺の目的にとって、これ以上無いチャンス。
だからリリィは、なかなか言い出そうとしない俺の代理で、強請ってくれた。
「少しでも情報が欲しいの。どんな些細な事でも良い。万能の薬について、知ってる事があれば教えて!」
「…万能の薬、ですか。そんなものがあるなら、ぜひお目にかかりたいものです。量産できれば、回復魔法なんて、要らなくなっちゃいますね」
「そうか。まあ、そりゃそうだ…」
結んであった俺の口から、また、溜息。
大怪我を無かった事にしてしまうような、大それた力が存在するコッチの世界ならば、すぐに見つかるかもと、期待してしまった。
仮にそんな薬があったなら、回復魔法なるものが、国家の看板として掲げられているはずがないではないか。
何だか、肩が重い。
天を仰いだまま、手が床まで届いてしまいそうだ。
パチン。
気持ちの良い音につられて、顔を上げる。
ルークの拍手が、じめついた空気を取っ払った。
「関係者専用の、メドエストの書庫に案内しましょうか。彼処であれば、この大陸の医療に関しての情報が、纏めて手に入るはずです。まあ、お二方の身なりと、空腹をどうにかしてから、ですが」
「良いのか!?」
「少しでも、ユータの助けになれるのであれば、私も嬉しいです」
「良かったわね。大きな一歩じゃない」
ルークはふわりと微笑み、リリィも嬉しそうに足をぶらつかせている。
俺にしかメリットがないのに、自分の事のように喜んでくれる彼らが、好きだ。
幸せの中に、恐怖が一滴。
こんな気持ちを知ってしまったら、一人はどんなに寂しいだろう。
ふと抱いた不安を紛らわすように、瞼をぎゅっと閉めた俺は、頭を下げた。
「ありがとう。この恩は、必ず」
三人を乗せた馬車は、メドカルテの中心街へ。
◇
店舗が立ち並ぶ道沿いを、左側通行。
人々は皆、計算され尽くしたドミノの如く、理性的にすれ違っている。
出店も、見世物も無い。
規律や秩序を重んじる国民性が、すっきりとした街の雰囲気に、反映されていた。
眺めていると、光の反射が眩しい。
魔法使いと思しき出立の内約半数が、赤でも青でもなく、純白のローブを着ているせいだ。
人混みの中では、女が剣をぶら下げていたり、男が弓を背負っていたり。
コスプレ会場でもなければしょっ引かれるような奴らに、誰も興味を示さない。
つまり、いや、やはり。
一般常識から、俺の居た世界とは違っている。
「人がいっぱいね!」
目を丸くしたリリィが、はしゃいでいる。
田舎者には物珍しく映る位に、メドカルテの中心街は賑わいを見せていた。
異国くらいで、何だ。
俺にとっては、異世界の街。
だから、こんなに心が躍ってしまうのも無理はない。
そんな言い訳を自らに言い聞かせていたが、そもそも、我が家の塀を出たのがこれで二度目。
異世界だからどうだとか、関係がなかった。
俺たちを引き連れたルークがまず選んだのは、衣料品店。
「さあ、好きなものを選んで下さい」
「俺たちは文字通りの一文無しだぞ?後悔するなよ?」
「…実は私、お金だけは誰よりも持ってるんですよ」
「でしょうね」
恩着せがましくならないよう、敢えて自慢げに振る舞い、丸眼鏡をキラッと光らせたルークに、リリィがやれやれと肩を竦める。
ここまで気遣われて、断るのは野暮。
彼に甘えておいた方が、得策だ。
できるだけ手短に選んだ俺は、動きやすい黒い服と風よけのマントを、リリィは、生地の中に魔力が練込まれているという、青いローブを手に取った。
「どう、ユータ?似合う?」
「全く分からん。ルークに聞いてみたら良いんじゃないか?」
俺は真面目に答えたつもりだったが、リリィは機嫌を損ね、そっぽを向いてしまった。
一人でトレーニングウェアばかり着て過ごしてきた俺に、ファッションの良し悪しなど分かる訳がない。
適当に相槌を打つより良いかと思ったのだが、正解は別にあったらしい。
必要な物を買い揃えた俺たちは、この場を後に。
と思っていたら、ルークが徐に足を止める。
彼を引き留めたのは、アクセサリー売り場。
迷っている背後へと忍び寄った俺は、冗談を一つ。
「小遣いが足りなくて、残念だったな。分かっているとは思うが、奢ってはやれないぜ」
「そうじゃないんです。…あの、もしユータとリリィが良ければですが、出会いを記念して、お揃いの物でも、なんて」
「会ったばっかで、気持ち悪くないか?…まあ、別に構わないけどさ。あ、安い奴にしてくれよ?」
「ええ、分かりました!分かりましたとも!」
困ったように笑う俺とは違い、陽を浴びた朝顔のように、ぱあっと笑顔を咲かせたルークは、比較的安価な物の中から三つ、色違いのアクセサリーを選び、購入した。
受け取った青いアクセサリーを鞄に取り付けてみると、やんわりと充実感。
こんなもの邪魔そうで、興味なんてなかったのに、何だ、悪くない。
ちらっとルークの方を覗き見ると、高級な衣服の上から、安っぽい黄色の首飾りを巻いて、幸せそうだった。
ちょっぴり軽やかになったルークの足は、隣の武器屋へ。
今後の旅の護身用に、剣と杖を買い与えてくれるそうだ。
リリィの杖はともかく、俺は鋼製の、人殺しのための武器なんて扱ったことがないわけで、何度もいらないと言ったのだが、浮ついた彼は話を聞いてくれなかった。
入店早々、厳つい店主と相談を始めている。
店内の壁には、全長二メートルを軽々超える、ふざけた大きさの剣が展示されている。
一切実用性がない。
こんな物を振り回せるような化け物が、居てたまるか。
そうやって、バラエティに富んだ品揃えを眺め、面白がっているだけで、時間は刻々と過ぎていってしまう。
俺からしたら、何もかもが刺激的で、新鮮だった。
「へえ、こんな武器もあるのか…いてっ」
「お腹空いた。早くご飯が食べたいわ」
トゲトゲの鉄球が先っちょにくっ付いた、変な棍棒で遊んでいると、脛をリリィに蹴飛ばされた。
そうだった。
俺たちは、腹が減っていたのだ。
男のロマンは空腹の辛さをも超越していたが、一度気が付いてしまうと、もうあの頃の俺には戻れない。
「三軒先に、行ってみたかった酒場が」
俺たちに剣と杖を渡したルークは、ひらりと振り返って、先導する。
リリィの機嫌がこれ以上悪化しないよう、一番近い食事処にしてくれた。
彼の身分に、ニスの禿げた酒場の椅子は不相応ではないかと思ったが、本人は気にしていない様子だ。
テーブルに着いた俺とルークは、互いの生い立ちを語り合って、暇潰し。
良い家の息子同士、苦労話に花が咲いた。
やっている内、ジャンキーな料理が湯気を連れてやってきた。
口いっぱいに頬張ると、幸福感が広がって、更に話が弾む。
「ユータ、手持ちが無いんでしょう?最後の晩餐だと思って、もっと味わって下さいよ」
「此処に居る間は、毎日脛かじってやるから。心配すんな」
食事中、軽口を叩き合う日が来ようとは。
ガードレールの向こう側で談笑していた、あの学生たちにとっては、どうでもいい事なのだろう。
だが、随分と一人だった俺には、かけがえのない時間だ。
テーブルの上に、ありふれたメニュー。
これが、人生で一番美味しい食事だった。
「生き返る~」
食後に貰った水をぐいっと飲み干したリリィが、パンパンに膨れた腹をさすっている。
教会でげっそりしていたのが、嘘のようだ。
健康体に戻れば、もっと美人に見えるのかも知れないが、荒っぽさを加味して、プラスマイナスゼロである。
見ると、リリィが空けた皿だけソースの類すら残っておらず、まっさら。
食い意地がひどい。
「リリィさんは食べっぷりが良いですね。見習いたいです」
「お前はルークの上品さを見習えよ、リリィ」
「あんたは、全面的に私を見習いなさい」
言い合う俺とリリィの様子に、ルークがクスクス。
ほら見ろ、手で口元を隠して、お上品に笑っている。
まあいい、彼が楽しんでくれるのならば、この女の行儀の悪さなど、不問にしよう。
食休みも程々に、ルークは伝票を手に取る。
それに気づいた店員が、声をかけてきた。
「おや、もしかしてと思ったけど、王子様じゃないかい?こんな店に食べに来てくれるなんて、嬉しいねえ」
「どれも素晴らしい料理でした。美味しかったです」
ルークはただ、素直に誉めただけ。
けれど、上手い例えだとか、そういったもので格好をつけるより、かっこ良かった。
その手に伝票を受け取った店員も、頬を緩ませて、嬉しそうだ。
王族にも拘わらず気取らない柔和な人柄や、所作の一切合切に、俺は誇らしさすら感じてしまっていた。
今日出会ったばかりなのに、そんな感情を抱いているのは、烏滸がましいだろうか。
「お連れさんは、王子様とどういったご関係で?」
会話の矢印が突如、俺たちの方へ。
途端に、油汚れが落ち切らないような、もどかしさに陥った。
聞かれてみると、どう言えばいいのか、分からない。
一から説明するのも長ったらしくて嫌だし、知人だと言えば、認めれば正しいけれど、それも嫌。
寂しくて、嫌だった。
返事に困っていた俺の代わりに、ルークが答えた。
微塵の躊躇も、淀みもなく。
「友達です」
予想外の事に、俺は下を向いたまま、動けなくなってしまった。
両の拳をぐっと握り締めていないと、涙が溢れてしまいそうで、こうするしかなかった。
俺の初めての友達は、心の底から尊敬できる人だった。
「良かったじゃん」
周りに聞こえないよう、小さい声でそう言ったリリィは、震える俺の腕を、肘で小突いた。