第4話 炎と嘘
「失敬だな。私は神の代弁者…嘘などついた試しがない!」
礼拝堂には、笑顔がいっぱい。
ふてぶてしく笑う、セドリク。
七色の鮮やかな光に照らされた、女神像の尊大な微笑。
飾り付けられた天使、絵画の中の老人。
この空間を構成する何もかもが、真正直に飛び込んだ俺を見て、嘲笑っていた。
「こりゃあ、詐欺師の自覚満点。何よりだ、教祖様」
猫を被らずのやりとりに、まだ不慣れ。
若干の緊張が足を引っ張ってくるが、舐められまいと、胸を張った。
悪事に手を染めると、そう決意した後ろめたさからか、リリィは俺と目を合わせようとしない。
へたり込んで、床に手をついて、被害者の様相。
虫の羽音みたいな震え声も、一層彼女を弱々しく見せる。
「見逃して、ユータ」
「…リリィ、俺らみたいな善良な一般人に、人殺しなんかできやしない。そうだろ?」
「でも、私がやらないと…おばあちゃんが!」
「…死んだ人間は、蘇らない。神なんて都合の良い存在も、いない。だからこそ俺たちは、この時を足掻くんだ。取り返しがつかない、この一瞬を」
「下らない!他所者の言葉になど、耳を貸すな!」
厄介に耐えられなくなった説得を遮ったセドリクは、杖の下の方をがっと掴み、捻った。
中に隠れていたのは、短剣。
仕込み杖とは、乙なものを。
それをえいやと振り上げて襲い掛かってきたわけだが、お家で様々な護身術を叩き込まれた俺にとって、老人の剣など、亀より鈍い。
不慣れな刃は、空を切る。
「何本刃物隠してんだよ。手品師か?」
俺は、短剣を持つ手首を思い切り蹴り上げた。
爪先に、ポキっと爪楊枝が折れる、あの感覚。
高齢者の骨の、何と脆いことか。
「ぐあああ!手が!痛い…痛い…」
「教祖様!」
痛みを訴えたセドリクを心配し、リリィが駆け寄っていく。
側にしゃがんで慰める彼女の腕も、きっと同じく爪楊枝。
こんな体になってしまった元凶を慰めている様子は、なんだか滑稽で、高みから見物している女神様も、愉快そうだ。
潤んだって、まだ汚れが落ちないセドリクの瞳に、リリィの姿が映される。
なりふり構っていられない彼の、次の手段も、やはり姑息だった。
「リリィ、そのナイフで奴を殺せ!アポレイン様が、そう望んでいる!」
「私には無理です…できません!」
「今此処でやらねば、もう一生、ばあさんには会えないんだぞ!それでもいいのか!」
「そんな…そんなの…駄目…!」
茶番だ。
茶番が繰り広げられている。
思考が淀んでしまっているリリィは、どうせ、この馬鹿げた命令にすら、背くことができない。
そう分かっているのに、俺は何の邪魔もせず、ただ傍観していた。
心の何処かで、彼女が自ら洗脳を打ち破ってくれると、淡い期待をしていたのかも知れない。
兎に角、頑なになった体が、動いてくれなかった。
強く迫られたリリィが、目を見開いて、四、五秒。
井戸から這い出た幽霊のように、ふらりと立ち上がった。
瞳に覚悟を忍ばせた彼女の手には、悲しくも、ナイフが。
希望は、泡と消える。
リリィの十字架の向こう側にある、至極不公平な天秤が選んだのは、俺の命ではなく、幻想だった。
「ごめんなさい」
無意味で、無責任な謝罪。
呟いたリリィは俯き加減に走り、俺の腹へ、ナイフを突き立てた。
静寂の中、ドクドク、どくどく。
体外へ溢れ出ていく血液で、シャツが濡れていく感触が、心地悪い。
跳ねる脈が、五月蠅い。
どうにも、諦めがつかないのだ。
リリィの細い体を叩き伏せるのは簡単だったけれども、此処で気を失って、それでどうなる。
目を覚ました彼女は、俺がいなくなったこの教会で、悪事に手を染めるだろう。
この詐欺師から解放してやったって、別の誰かの餌食になって、色んな意味で、ろくな死に方はしない。
リリィには、罪を犯してほしくなかった。
俺とは異なる形の辛い幼少期を経験し、俺と似たものを大切に想う彼女の心は、俺が取り戻すべきだという、降って湧いた使命感が、身体を支配していた。
やっぱり、願ったって駄目だ。
行動して、犠牲を払ってやっと、こうやって望みは通じるのだから。
大粒の涙によって洗い流された青い瞳が、綺麗だった。
「なんで避けないのよ…!」
「なんでだろうな」
泣き喚きたくなるような痛さに、額を大粒の汗が伝う。
おそらく臓器からはズレていたが、大量の毛細血管が一片に分断された経験などあるはずもなく、無反応でいることなど、不可能。
敵前でどうあるべきか、なんていう考えは、もはや頭から消えていて、俺は踏ん張るだけになってしまった。
広がっていく赤色に罪を自覚したリリィも、ナイフを手放し、脱力して。
ストンと、床に崩れた。
「私…なんて事を…」
「良くやったリリィ。お前は、最高の信徒だ!」
勝利に歓喜したセドリクが、宙に向かって、人差し指を立てる。
その行動の意図が分からず、困惑していた俺だったが、それはすぐに、焦燥感へと変わった。
彼の指先に、何処からともなく集まってきた光の粒が、ぼうと燃え上がって。
膨らんでいったそれは、最終的に、直径一・五メートル程の球形に。
これが、魔法。
さぞ、凄まじい威力があるのだろう。
都合の悪い証拠を消し去ってしまうには、打ってつけだ。
「リリィまで、巻き添えにする気か…!」
「口惜しいが、こうなってしまっては仕方ない…神の炎で、共々、消し炭になれ!」
ここまであっさりと、リリィが切り捨てられるなんて。
セドリクは、俺の想像以上に小心者だった。
彼女を金蔓として生かしておくよりも、リスクヘッジが優先されてしまった。
一人でなら逃げ切る目もあるが、リリィは死ぬ。
ここまでやって、ようやく正気を取り戻したのに、その場ですぐさま殺されるなんて、絶対に嫌だ。
だから俺は、彼女の手を引いて逃げようと、試みた。
しかし、雷が落ちたような激痛が腹を走って、俺の動きは咎められて。
精神がやられてしまって、とうとう、立っていられなかった。
半端な正義感のせいで、何もできず終い。
こんなことなら、隠れ家になんて、異世界になんて行かなければ良かった。
でも、どうしてもじいちゃんに会いたかった。
神が生み出した太陽の目下、俺が悔やんだ、その時。
走馬灯の様に、あの日の思い出が蘇る。
「優太、お父さんには内緒だ」
そう言ったじいちゃんの声、表情。
人生で一度きり食べた、青い飴。
炎よりも、温かい青。
そんな優しい記憶を辿りながら、段々安らかになっていく俺を、青い炎が抱いていた。
◇
青い炎が、彼の周囲を迸る。
その筋肉質な体に力感は無く、少年のようだった瞳からは、光が沈んでいた。
煌びやかな礼拝堂のシャンデリア、ステンドグラス、色取り取りの装飾品が、焼かれて塵に。
遂には、巨大な女神像すらも、青に染まっていった。
私の肌にも炎が触れたが、不思議と温かい。
尚も心を縛り付けようとする忌々しい首飾りだけが、灰となって消えていく。
その心地良い温度に、頬を涙が一筋。
こんな時に、祖母に初めて焼いてもらったパンの味を思い出すなんて、どうかしている。
「ふざけるな…!こんなガキの炎に、私の、神の炎が…」
果てしなく優しい青は、野心を乗せて燃え盛る火球ごと、セドリクを呑み込んだ。
◇
世界が変拍子で揺れている。
ハラハラしてしまうくらいの不安定さに、三途の川を渡る船の上かと肩を落としたが、どうやらそれは俺の勘違い。
胸に触れる体温を感じて、負ぶわれているのだと気が付いた。
状況を飲み込むに連れ、感覚が戻ってくる。
痛覚だって、例外ではない。
輪郭が明確になった腹の痛みに呻くと、リリィは驚きながらも大急ぎで、そっと俺の体を、その辺の木にもたれかけさせた。
傷口に被さっていたのは、紫色の布。
見ると、彼女のローブが盛大に破られて、ミニスカートの様になっていた。
「重かっただろ」
「ごめんなさい!生きてて良かった。ごめんなさい…」
リリィの、緊張の糸が切れた。
俺が見ているというのに、彼女は幼い子供の様に、鼻水を垂らして泣いた。
涙を拭ってやると、湿った人差し指に、生の実感が湧いてくる。
今はそれだけで十分幸せで、腹を刺された恨みなど、後回し。
「お前のおかげで、死にかけてるよ」
俺はこう言って、冗談だと分かるようにおどけたつもりだったのだが、彼女は泣きじゃくり、謝罪の言葉をひたすらに連呼していた。
鼻水をずびっとすする音が可笑しくて、俺は笑った。
◇
落ち着いたリリィは、礼拝堂で何が起きたのか、俺に説明してくれた。
青い炎が、礼拝堂を飲み込んだこと。
燃え尽きて穴の開いた壁から、俺を担いで、逃げ出したこと。
まだ息をしていたセドリクには、彼女がナイフで止めを刺しておいたこと。
顛末を聞いたときは、耳を疑った。
せっかく人殺しの道から引き剝がしたと思ったのに、目を覚ました時には既に、彼女の手は汚れていたのだ。
が、あの詐欺師がどんな奴なのかを証明する術もないわけで、放っておけば、悪事は繰り返される。
「私が、終わらせるべきだと思ったの」
そう口にした彼女の、業を背負う覚悟を前に、俺はもどかしい感情を、腹の奥にしまった。
今後奴によって消されるであろう命を思えば、世に許される余地はある。
操り人形として、責任の所在が曖昧な殺しより、幾分も増しだろう。
「これから、どうするの?」
「言っただろ?じいちゃんと、例の薬探しだ」
「でもあんた、この世界の事何も知らないじゃない」
残念ながら、ぐうの音も出ない。
正直なところ、今自分たちが何処へ向かっていて、何処へ向かうべきなのかすら、分からない。
上手い返事が浮かばず困っていると、隣に座るリリィが、勇気を絞り出すように、一呼吸。
それから、俺の方へと前のめりになって、言った。
「私を連れて行きなさいよ」
「…は?嫌すぎる。なんで俺が、人殺しを連れて旅しなきゃいけないんだよ。表立って動き辛くなるのは御免だ」
「誰かさんがぜーんぶ焼いてくれたおかげで、証拠不十分よ。世間知らずのあんたのために、ついて行ってあげる。感謝しなさい」
開き直ったリリィは、胸を張った。
どうやら彼女は、打ち解けた相手に対して、相当気が強い。
号泣していた先までのしおらしさは、一体、何処へいってしまったのだろうか。
まあ実際、金を稼いで、人を雇えるようになるまでの繋ぎとしては、悪くないか。
一人でやっていくには限界があるし、現地の人間が一緒なら、物事はスムーズになる。
生まれながらの余所者が単独でふらつくより、よっぽど効率的だ。
そんなことを自らに言い聞かせていたが、本当のところでは、多少の罪悪感も、あったかも、知れない。
仕方がなかったとはいえ、これまでリリィが縋っていたものを、焼き払った張本人なのだ。
「しょうがない、拾ってやるよ。足手まといになったら、置いてくからな」
「一文無しが偉そうに」
カラッと笑って差し出した俺の手を、リリィが取る。
二人旅は、こうして始まったのであった。
◇
食事処にて。
青髭を生やした男と、黒縁眼鏡の男が、肩を少しばかり寄せながら、噂話に花を咲かせている。
「おい、教会を見たか?」
「ああ、ありゃあ、普通の燃え方じゃないな」
「死体は丸焼け。ショック死か、窒息死だってよ。…十中八九、魔法使いの仕業だろう」
「炎の女神を崇めた教祖が焼け死ぬなんて、皮肉なもんだ」
ああ、その通り。
皮肉なものだ。
嘘に苦しめられた人間が、今度は、嘘を吐く側になってしまったのだから。
自らを騙すための馬鹿な嘘も、友を庇うための優しい嘘も、何時か、何処かで綻ぶ。
その先に、何が待っているのか。
それはまだ、この私にすらも明かされることのない、お楽しみだ。