第3話 プライド
俺の名は、龍宮寺優太。
敬虔な、アポレイン教の信者。
入信したのは、本日である。
しかしまあ、にこやかに説教を聞いているだけで、宿と夕食が纏めて手に入るのだから、世の中簡単だ。
ありがたい話の中身は、何一つ覚えていない。
メニューはパンと牛乳。
我が家の食事と比べるととんでもなく質素だが、飯抜きの可能性があったことを考えると、ありがたみは一入。
カサカサのパンに舌の水分が引っこ抜かれようと、文句は言うまい。
だが、この修道着と、十字架のネックレスは別だ。
「…こんなもん着せられて、よく平然としていられるよな」
食堂のテーブルに着いた俺は、独りごつ。
これらの物は信者全員に配られており、身に着けていないものは部外者であると、すぐに分かるようになっている。
服は着ていたトレーニングウェアと比べ動き辛く、ネックレスも、何かの罰ゲームだとしか思えない重さだ。
代金は後程請求されるらしいが、どうせ碌でもない値段だろう。
今晩の間だけ丁重に扱い、此処から抜け出す前に、そっと返しておくほかない。
一泊したらさっさと街に出て、この世界で旅をするための移動手段と、金を稼ぐ方法について調べなければ。
じいちゃんが病に侵されている可能性がある以上、偶像に祈りを捧げている暇なんて、無いのだ。
「私も一緒していい?」
「…どうぞ」
食事を運んできたリリィに声を掛けられた俺は、渋々、頷く。
この教会に宿泊する上で、一番の面倒は、ルールではない。
リリィや、その他の信徒と会話するシチュエーションが、多過ぎる事だった。
教会内の作業は粛々と、という訳でもないらしく、新入りを歓迎した彼らは、引っ切りなしに構ってくる。
他人の善意をシャットアウトする勇気が出なかった俺は、無限にも思える下らないやり取りをこなしたせいで、疲れ切ってしまっていた。
「溜息なんて吐いちゃって。大して忙しくもなかったでしょ」
「忙しかったかどうかは、俺が決める事だろ」
「だらしないわね。そんなんでこれから大丈夫?」
「不味い飯でも食って寝れば、人間そこそこ動くさ」
「まあ、確かに褒められた味ではないわね。おばあちゃんが焼いたパンは、もっと美味しかったな」
気怠さを隠し切れない俺を余所に、リリィは楽し気。
栄養失調の疑いがあるような見た目の癖に、良く喋る。
彼女の祖母の難病については周知の事実であり、信者たちは揃いも揃って、神が救ってくれると信じて疑わない。
むしろ、不幸なヒロインによる健気な物語は、セドリクが信徒全体を洗脳するための、武器にされていた。
必死な本人は、与えられた役割を果たし続ける。
その頑張りが、別の人生を狂わせているとは、露も知らずに、だ。
「リリィは、本当にばあちゃんの事が好きなんだな」
「当たり前でしょ。親に捨てられて一人ぼっちだった私を子供の頃から育ててくれた、最高のおばあちゃんなんだから!」
俺は軽く嘲笑したつもりだったが、彼女の心は泉の如く透き通っていて、中途半端な悪意は届かない。
それどころか、満面の笑みが咲き誇ってしまった。
まあ、分からないでもない。
祖父母は、最高だ。
心の中で反省、そして同意した俺は、黙って何度も頷く。
そうやって、親近感を覚えたのも束の間。
浅い関係に、亀裂が入った。
「…お医者さんの薬も、回復魔法も効かないし、もう頼れるのはアポレイン様の力だけ。だから今日も、祈りが届くように、たくさん、たくさん働いたわ。…おばあちゃん、良くなるといいな」
そう口にした途端、リリィの表情が、どっと疲れて。
セドリクの、虫唾が走るような汚い笑みが、頭に過ぎる。
もう、パンは食べ終わっていた。
彼女の話が聞いていられなくなったなら、その場から、離れれば良いだけの事。
だが俺は、つい、魔が差してしまった。
「神なんて、本当に存在するのか?」
「は…?不敬、不敬よ!アポレイン様は、私たちを助けて下さっているわ!」
思わず漏れた俺の本音に、リリィが豹変した。
想像を遥かに超える、過剰反応。
一度は魅了されかけた青い瞳も、怖いくらいに血走って、台無しだ。
俺の口から、乾きが零れる。
こんな馬鹿な女に、一瞬でも好印象を抱いたなんて、自嘲せざるを得なかった。
「何も分かってないんだな。…良いか?アポなんとか様に一億貢いでも、お前のばあちゃんは絶対に治らない。神に祈って治るなら、薬も魔法も要らないだろ」
自らが無宗教であるのを良い事に、好き勝手捲し立てる。
本来であれば、今日出会ったばかりの間柄で、踏み込むような話ではない。
しかし、祖母を心から愛する彼女に、無意識に自らを重ねていた俺は。
ただ祈るだけの彼女に、じいちゃんが行方不明になった、あの日の俺を重ねてしまっていた俺は、最早、暴走列車。
絶対に超えるべきでない境界線をも、容易く、侵犯した。
「…どれだけ祈ろうと、お前のばあちゃんは、このまま弱って死ぬだけだ」
「最低…!どうしてそんな、心ない事が言えるの!?」
「…俺のじいちゃんは、八年前から行方不明だ」
俯いた俺が唐突にそれを明かすと、怒りを前面に出していたリリィが驚いて、黙った。
何かを察し、話を聞く気になったらしい。
「万能の薬と、それを探して消えたじいちゃんと会うために、俺はこの世界に来た。俺はお前と違って、この手で薬を手に入れて、この足でじいちゃんに会いに行く。…祈ったところで、神様は何もしてくれなかったからな」
「…その、聞いたことも無い薬、何処にあるの?おじいさんが何処に居るのか、あてはあるの?」
「零だ。薬に関しては、本当にあるのかどうかも分からない。この大陸を、探し回るしかない」
「それじゃあ…あんただって、似たようなものじゃない!」
弱った瞳を潤ませながら、リリィが言った。
その通り。
やはり俺たちは似ている。
だからこそ、目を覚まして闇雲にでも行動して欲しいと、それが正しいのだと、同意して欲しかったのかも知れない。
彼女の言葉で、目が覚めた。
飽くまでこれは、他所の家庭の話。
どうでもよくなった俺は、一度息を吐いてから、言い残した。
「明日には、此処を出ていく。神様がお前のばあちゃんを治してくれるよう、祈ってるよ」
わざとらしく手のひらを合わせ、煽ってから席を立つと、背中に舌打ちを浴びせられてしまった。
神の加護を祈られるよりも、こっちの方が、百倍清々しい。
思えば、この生産性のない喧嘩は、社会から切り離された俺が、人生で初めて他人と腹を割って話せた、記念すべき一幕だった。
◇
「お願いです…妻の渡した金を、返してください!」
食事を終え外の空気を吸おうと外に出ようとしたところ、またもや修羅場に遭遇。
盗み聞きという、下品な行いにも慣れてしまい、何の抵抗もない。
出入り口の前で情けない声を上げたのは、酷く痩せた男。
上はボロボロのシャツ、首の十字架もない彼は、セドリクに向かってペコペコ頭を下げていた。
対して、薄っぺらい笑みを貼り付けたセドリクは、勘弁してくれとでも言いたげに、両の手のひらを見せびらかして、眉をハの字に。
「残念ながら、それはできませんね。奥様の気持ちは、既にアポレイン様に捧げてしまいましたから」
「…子供たちを食わせてやるための金だったんだ!」
会話が無駄だと悟った男は、鬼の形相でセドリクに掴みかかるも、残念、無念。
信徒に囲まれ、呆気なく取り押さえられてしまう。
乱暴な行為に及ぶのは、お見通しだったわけだ。
床に磔にされても、男の視線はセドリクを捉えて、離さない。
その恨みは、果てしなかった。
「絶対に許さない…。地獄に堕ちろ!地獄に!」
「地獄ゥ?神を、信じる、我々、には、最も、遠い、場所だ!…やれやれ、貧乏人の野蛮さには、困ったものだよ、全く」
「…コイツ、どうしますか」
「妙なことを言いふらされても、面倒だ。閉じ込めておけ」
喚く男の顔を何度も踏みつけ、唾まで吐いたセドリクは、冷やかな声で信徒に命じる。
気を失いかけていた男は為す術もなく、何処かへ連れて行かれてしまった。
散々暴力を振るっておいて、野蛮なのは、どっちだ。
◇
リリィの祖母が息を引き取ったのは、翌早朝の事だった。
教会中、その噂で持ち切り。
中には、彼女の辛さを慮って涙を流す者も。
どうやら、昨晩捧げた俺の祈りは、アポレイン様まで届かなかったらしい。
間違った事を言ったつもりはないが、ほんの少しだけ、強い言葉を後悔していた。
他者との会話においてこれ以上なく未熟な俺に、巧みな慰めは不可能だが、何も言葉を交わさずに此処を発つのは、違う。
そう思い、暫く教会をぶらついて、礼拝堂。
掃除が終わり、もうすぐ朝食の時間だ。
皆、食堂に集まっているはずなのに、誰かの話し声が聞こえてくる。
「神を恨んではなりません、リリィ」
中を覗くと、セドリクがリリィを宥めていた。
本性を隠し切れない彼が、どんな顔をしているかなど、どうでもいい。
俺の意識は、椅子の上で項垂れるリリィに、もっていかれてしまった。
美しい瞳は濁り、髪は荒れ、見る影もない。
絶望の溜まったバケツを、頭の上でひっくり返されたような有様に、見ているこっちの喉が枯れる。
「もう私には、神を信じる理由がありません」
弱弱しい声に、胸が張り裂けそうになる。
もし、じいちゃんが死んでしまったら。
そう考えると、あんな風になってしまうのも、頷ける。
これは、セドリクにとっても都合の悪い話。
信徒たちの予想に反した悲しい結末は、神の求心力を損ね、一番の金蔓であるリリィを失う事にもなる。
そうはさせまいと、セドリクは汗だくだ。
「神の力であっても、人の延命には限界が…!」
「…そんな事、今の今まで教えてくれなかったじゃないですか」
もっともな反論が、諭そうとするセドリクの喉を締める。
リリィも、根っからの馬鹿ではない。
ただし相手は、話術を駆使して教会をこれだけ肥大化させてきた、神の手先。
見え透いた弱点を見逃す程、甘い相手ではない。
瞳は酷く濁っているが、目は悪くない。
「まだ諦めてはいけません、リリィ」
ステンドグラスから差し込む光の前で、翼の如く両手を広げたセドリク。
その姿は、さながら神に選ばれた救世主だった。
彼を犯罪者として扱う俺にすらそう映るのだから、心理状態の不安定なリリィにしたら、神そのものにすら思えたかも知れない。
絹のように肌触りの良い言葉に釣られ、顔を上げたリリィの瞳には、輝きが。
その様子に手ごたえを得たセドリクは、畳みかける。
「神は、あなたのおばあさまを見捨ててなどいません。アポレイン様は命の象徴。その力で、死人を蘇らせることも可能です」
「え…?」
「この力は秘術。しかし、あなたに覚悟さえあれば、神はおばあさまを蘇らせて下さると…」
「教祖様…アポレイン様…!私、何だってします!だから…!」
リリィは祈るように指を組み、希望に満ち溢れた涙を流す。
夢物語を夢物語だと断ずる事は、できなかった。
壊れた人間の扱い易さに、口元の緩みが抑えられなくなったセドリクの、金歯がギラギラ。
その懐から出てきたのは、ナイフだった。
「コレは…?」
「教団に歯向かった不届者が、懲罰室に匿われています。…殺して、死体を闇市に売り捌きなさい」
「う、嘘…。何かの、冗談ですよね…?人を、殺すなんて…私にはできません!」
「勿論、やるかどうかは、あなたの自由です。しかし!…あなたに会いたがっているでしょうねえ?お、ば、あ、さ、ま」
ナイフがセドリクの手から離れた。
それが、床に落ちる音はしない。
リリィは、汚れた道への誘いに強く葛藤しながらも、受け取ったそれを、手放さなかったのだ。
他人の人生。
死ぬのも、他人だ。
これから彼女がどんな扱いを受けようと、どれだけ搾取されようと、知った事ではない。
こんな所で厄介事に関わっている時間など、無い。
心中で言い訳を並べている最中なのにも拘らず、薄汚い扉は蹴破られていた。
この俺の、右足によって。
「アポレイン様、ご機嫌麗しゅう!それから、詐欺師と闇バイトのお二方も」
俺は啖呵を切り、首の十字架を引き千切った。