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第29話 暴走牧場

 閉まり切っていない栓を捻ると、エンジンを吹かしたかのように蛇口が唸って、どっと冷水を吐き出す。

 石製の洗面台へ落ちた水は、際から凍結。

 薄ら白く色を付けた。


「…寒いって言ったって、限度があるだろ」


 顔を洗うのが、ここまで億劫なことがあっただろうか。

 雪国特有の現象にぼやいた俺だったが、やれやれと両手に水を掬って、顔面にぶつける。

 びっくりした皮膚が強張っていくのを我慢して、数回。

 唇をぷるぷる振動させたら、終わりだ。


 タオルで顔を拭いた俺は、腹立たしさを込めて、蛇口をギュっと閉める。

 すると背中から、中性的な柔らかい声が。


「あ、水はぽたぽた出しておいて。凍って、動かなくなっちゃうから」


 俺の横から手を伸ばし、僅かに蛇口を緩めたロビン。

 彼は逆の手に持っていたパンを一枚俺に渡し、もう一枚を小さい口に咥えて、パクパクと食べ進める。


 決して行儀の良くない、立ち食いの腹ごしらえ。

 お陰で、これから肉体労働が始まるのだという実感が湧き、眠気は綺麗さっぱりだ。

 軟弱な若者には、痛いくらいの冷や水よりも、食パンの方が効果覿面である。


 軽食を食べ終えたら、借り物の作業服へと袖を通す。

 上下で同じカーキ色に身を包まれた途端、牧場の朝が似合う男になった気がした。


 丸太小屋の外に出ると、畜舎の壁にもたれて待っていたリリィが、此方をチラり。

 彼女も、同じ作業服。

 銀の長髪を後ろ低くで結っているため、普段よりもきっちりとしていて、それが新鮮だった。


「起きれたのね。てっきり逃げ出すかと思ったわ」


「…見ただろ、あの物騒な傷。あんな奴に言われたら、逃げたくても逃げられねえよ」


「人相悪いもんね、オーランド」


 ロビンも、俺の冗談に乗っかった。

 口元を抑えて笑っていると、まるで王子様だ。


 オーランドさんが、堅気の人間とは思えない人相をしているのは本当だが、その中身は、見ず知らずの余所者を暴力から庇うような、善人。

 そもそも、彼が本物の悪人であれば、聞かれる可能性がある場所で、軽率な発言などできない。


「…で、私たちは何をすればいいの?」


 そうリリィに問われたロビンは説明を後回しに、畜舎の横開きの扉へ手を掛けた。

 彼を追って、中に。

 其処では、ずらりと並んだ馬房に収まった馬が、各々でぶるぶると鼻を鳴らし、何かを主張していた。


 初めて間近で見る馬の迫力に腰が引けていると、慣れた様子のロビンが、言う。


「餌が貰えると思って、喜んでるだけ。此処の馬は優しいから、怖がらなくて平気だよ」


 顔を撫でられた馬はもっともっとと首を伸ばし、ロビンに身を寄せる。

 甘えるにも、立派な体躯が邪魔になりそうなものだが、人の体の繊細さが分かっているかのように、そっと触れている。

 ほう、お利口ではないか。

 

 ロビンが実際に触れ合ってくれたおかげで、馬をやっと直視することができた俺は、その瞳の優しさに気付く。

 曇りのない、水晶体。

 一水の敵意も無く、硬い蹄への不安で一杯だった胸は、軽くなった。

 

 馬とじゃれ合うロビンの童顔を眺めていると、こんな弟がいたら、などという、ありもしない妄想をしてしまう。

 それはきっと、幸せな日々だろう。

 でも、彼の性格がしっかりし過ぎているせいで、俺はもっと自堕落な人間になっていたに違いない。


「二人には、乾草を運んで貰おうかな。餌入れに入れてあげて」


 馬から手を離したロビンが指差した方には、袋詰めの乾草が山のように積まれていた。

 早速それを一袋抱き上げた俺は、馬房ごとに設置されている餌入れ目掛けて、中身を注ぐ。


「上手くいかないな…おっとごめん」


「ブルルル…」


 乾草を餌入れに流し込むと、すぐに馬の首が伸びてきて黙々と食べ出してしまうため、注ぎ足そうとした干し草が鼻に当たって、申し訳ない気持ちに。

 それを避けようと一度に入れれば、今度は勢い余って零してしまい、床に落ちた草を食べる馬の姿に、また別の申し訳なさを抱いた。


 家の掃除すらも経験がないのだ。

 案の定の、ド下手くそ。

 なのに、どの馬も俺を邪険にせず、唇で服を引っ張って、甘えてくれる奴もいる。

 彼らに触れ、硬い皮の向こう側に受け入れられる度、戦いと運命の過酷さに荒んだ心が、癒された。


 一方ロビンはというと、馬の体調確認をしながら、水の入れ替え。

 俺たちがもたもたしている間に、複数の作業が済んでいた。

 仕事量の差は歴然であり、水滴一つ付いていない彼の両手が、輝いて見える。


「なんか、乾草って美味しくなさそうよね。私はてっきり、人参をあげるのかと思っていたわ」


「あげることもあるけど、冬は寒いからね。消化熱で体温を上げるためにも、乾草は食べさせないとダメなんだ。体温が上がった状態で外に出て、そこでまた、牧草を食べる」


「こいつら一生食べてるのね。羨ましい」


 馬の食事を眺めるリリィの口から、羨望の溜め息。

 草塗れの生活で満足なんて、費用対効果の良い女である。

 きっと彼女にとっては、ブランド物の鞄、タワーマンションの一室よりも、人参やキャベツの方が魅力的なのだ。 


「特別強いこの村の牧草は、雪が降っても枯れない。けれど、歩けなくなる程雪が積もれば、放牧できなくなっちゃうからね。今のうちに沢山運動して、沢山食べて、健康でいてもらわないと」


 バケツを両手に抱いたロビンは、慈愛に満ちた瞳で馬房を見回す。

 どれだけ特別な存在であるのか、俺にもちゃんと伝わった。


 此処の馬が人間を信用しきっている理由は、この青年にあるのだろう。

 足手まといに嫌な顔一つしない大らかな青年、ロビン・サリバンに。


「…さて、そろそろ馬房を開けよう。二人は入口で待っていてくれるかな。馬房の掃除は、オーランドに教わって」


「分かったわ」


 片目を瞑ってぐっと伸びをしたロビンに従い、俺とリリィは畜舎の外へ。

 カシャン、カシャンという金具を外す音が聞こえてから、数十秒くらいか。

 馬房から解放された馬が並んでぞろぞろ、畜舎の出入り口を通り抜け、雪の溶けた牧場の緑へと歩いて行く。

 蹄の鳴る小気味良い音は所々で重なり、清らかな自然の空気を揺らしていた。


「モオ」


 最後の一頭が俺たちの目の前で足を止め、此方を一瞥し一声。

 当然のように隊列に混じったそれは、馬の尻について行き、仲良く牧草を食む。


「牛柄の馬なんているのね」


「…いや、あれはどう見ても牛だろ」


 リリィの勘違いをすぐさま訂正した俺の口も、あんぐり。

 なんと、馬の集団生活に、乳牛が溶け込んでいた。

 

 畜舎に居たのであれば、リリィか俺の何方かは乾草を配ったはず。

 だが、慣れない作業に集中していたせいか、あの牛が馴染み過ぎていたせいか、一匹だけ別種という摩訶不思議は、触れられずに放置されていたのである。


「どうだろう、意外と豚…はたまた、山羊かもしれん」


 背後からのいい加減な発言に振り向くと、そこには、真顔で腕を組むオーランドさんが。

 俺は呆れて黙っていたが、返答を求めた彼が延々視線を送ってくるため、溜め息を吐いてから、やむ無く収拾をつけた。


「適当な事言ってないで、掃除しましょう。掃除」




 ◇




「ふう、やっと終わった」


 汗ばんだ額を袖で拭きながら、どさっと倒れ込んだリリィを支える、藁のクッション。

 敷き直したばかりの、新品だ。


 オーランドさんから方法やコツを教わった俺たちは、昼食を挟んで、ようやく掃除を完了することができた。

 俺の体にも疲労感はあったが、反対に、心が軽くなったような気がする。

 動物たちのために黙々と掃除をする事によって、肩に伸し掛かっていた負の感情から、気が逸れたのかも知れない。


 一息つこうと、畜舎の外に設置されたベンチの上に座ると、胸元に瓶詰めの牛乳が放り込まれる。

 キンキンに冷えたそれを何とかキャッチして、胸を撫で下ろした俺の隣へ、煙草を咥えたオーランドさんが、腰かけた。


「ご苦労さん。どうだ、牧場は」


「良い場所だと思います。何より、大切にされているのが分かる」


 蓋を開けた瓶に口を付ければ、舌に濃厚な味わいが広がった。

 つい視線が、牧場に太々しく君臨する牛の方へ。

 すると、たまたま目が合った牛が、自慢気にふっと笑ったように見えて、俺は二度見。

 が、勿論気のせいである。


「ホープはな、まだ子牛だった頃、牧場の経営を撤退する事になった知り合いから引き取ったんだ。馬しか育てていなかった俺は断ろうかと思っていたんだが、可哀そうだと言って、ロビンが珍しくごねてな」


「馬と一緒でも大丈夫なんですか?喧嘩とかしそうなもんですけど」


「家の馬はみんな優しく育ってくれたからな。すぐに仲間として受け入れていたよ。ホープはもう、自分の事を馬だと思っているかも知れない。…ロビンも、あれぐらい安心してくれて良いんだが」


 オーランドさんの声色が微かに落ち込んだように聞こえた俺は、その表情を窺おうとしたが、傷を負って開かない左目があるだけ。

 此処からでは、何も分からない。

 

 何を言えば良いかと迷っている内に、役割を終えた煙草が、ブーツの裏に潰される。

 ニコチンを吸入して、彼はいつも通りだった。


「よし…掃除が終わったなら、今度はロビンの相手をしてくれ」


「遊び相手ですか?それとも、勉強でも?」


「両方、半分正解ってところか。お前、相当鍛えてるだろ。…期待してるぞ」


 俺が首を傾げたのが、そんなに愉快だったのか。

 チラッと覗いたオーランドさんの歯が、きらめいていた。




 ◇




 口をへの字に結んだロビンが柔軟運動をしながらフッと息を吐き、気合を入れる。

 負けじと俺も作業着の上を脱ぎ捨て、長袖一枚になって山の寒さを受け入れた。


 掃除を済ませた俺の次なる仕事は、武術を学んでいるロビンの練習相手。

 リープ村には、彼と組手を行ってくれるような若者が居ないため、年齢が近く体格差もそこまでではない俺に、白羽の矢が立ったのだ。

 格闘技の鍛錬を積んできた俺ならば、きっと良い塩梅の力加減をしてやれるだろう。


 向かい合った俺とロビンの間で、オーランドさんが取り決めを。


「極力寸止めして欲しいが…まあ、俺が止めるか満足するまで、好きにやってくれ。死なないように加減はしろよ」


「ちょっと、大丈夫なの…?暫くは大人しくしておいた方が良いんじゃない?」


 酒場でドクランに殴られた一件を心配して、リリィが引き留める。

 しかし俺は、オーランドさんの頼みを極力断りたくなかった。

 あの時見せられた人殺しの幻覚も、魔法というか、根源の意思がきっかけ。

 もうあんな思いは御免だが、組手だけなら問題は起こらないと踏み、不安気な提案を聞き流した。


 一歩前に出て、くいと顎を上げて準備完了である旨を伝えれば、ロビンが体勢を低く落とし、一呼吸。

 格闘が、始まる。


「…行くよ!」


 シンプルな予告、その後。

 奇妙な構えでにじり寄ったロビンが、ダンと力強く飛び跳ねた。

 

 空中で繰り出されたのは、顎を狙った蹴り。

 ダイナミックな動きに多少面食らったが、反射的に体を捻って躱した俺は、そのまま右方向に一回転。

 裏拳を寸止め、初戦が決着した。


「先ず、一本だ」


「僕の技を、初見で…!?」


 ロビンは兎の様にぴょんと跳ね、距離を取り直す。

 俊敏性を活かした動作の一つ一つが、実に様になっていた。

 

 戦士の国で育った男だ、幼い顔をしていながらも、戦いの技術をしっかりと教え込まれている。

 初っ端からの大技も、自信が漲っているが故の選択。

 素晴らしい素質があるのは、間違いない。


 だが、努力と経験の面ならば、俺に分がある。

 突飛な動きや奇襲への対処は、再三に渡るステナとの戦闘で体に染み付いており、頭で考えずとも筋肉が勝手に動いていた。


「若者には、負けん!」


「何を…歳なんて、殆ど変わらないくせに!」


 鼻息を荒げた俺が距離を詰めると、鋭い足払いが密着を拒絶する。

 その数瞬前に、軸足の踏み込みを確認していた俺は、狙われた足を浮かせて攻撃を回避。

 同時にロビンの腕を掴み、地面に引き倒した。


 重い体だ。

 ロビンを投げた際に抱いたそんな印象は、身軽さを実現している筋肉が如何に鍛えられているか、という尊敬の念へと移行する。

 それにしても重過ぎるような気がするのは、俺が緊張しているからか。


「ほう…これは中々」


 一部始終を眺めていたオーランドさんが、にやにやと顎を擦っていた。


 外野の声に釣られて視野を取り戻した俺は、じゃれる度に酒場で見たような悪夢に襲われる訳ではないのだと、安堵する。

 刹那、地に伏せていたはずのロビンの体が独楽のように素早く回転し、気付いた時には伸びてきた脚が俺の首を捉え、ピタリ。


「何なんだ、お前…!」


 俺は、独特で素早い動きそのものに対して驚いたのではない。

 表情や仕草には出さなかった心の隙を、完璧に把握してみせた洞察力と、肌にギリギリまで迫った彼の脚への違和感が、動揺を誘ったのだ。


「油断したね、ユータ」


 ぺろりと舌を出したロビンの薄水色の瞳は、緑色の光を放っている。

 一瞬煌めくようなものではなく、蛍光灯の様に、継続的に。

 その神秘的な輝きには、過去に多くの見覚えが。

 疑問の片方に答えが出るまでに、そう時間は掛からなかった。


「転移者か…!というか、魔法は反則だろ!」


「言ったろ?好きにやれって」


 へらへらと両手を広げるオーランドさんは、不満がふんだんに込められた俺の抗議にも取り合う気が一切無い。

 審判の介入を泣く泣く諦めた俺が視線を戻すと、既にロビンの脚が風を切っていた。

 寸止めをしようとする気が微塵もない踵下としは、俺の足跡を豪快に抉り、金属音を響かせる。

 それは、骨が折れても、砕けても、何らおかしくはない一撃。


「鉄板でも入れてんのかよ!」


「半分…いや、七割正解かな!」


 人間離れした威力につい愚痴を零した俺に対し、ロビンはオーランドさん譲りのしたり顔。

 その澄んだ瞳に、ふと嫌な気配を感じたが、些細な不安よりも、襲いかかってくる暴力から身を守る方が最優先である。

 単純なローキックでさえ、靴の裏以外で受けようがない威力があるのだから。


「逃げてばっかりじゃつまらないよ!」


「洒落になってないだろ!降参、降参だって!」

 

 大怪我必至の足技を紙一重で回避しながら、俺は何度も白旗を振ったが、危機感の無いオーランドさんは楽しそうに観戦中。

 仕方なく攻めに転じようとすると、その動きを予知していたかのように的確に蹴りが飛んでくるため、自然と防戦一方になる。

 最早八方塞がりな展開に、次第にストレスが溜まっていった。


 そして、集中力の限界は唐突に訪れる。

 横蹴りを仰け反って回避した拍子に、泥に足を滑らせた俺は、尻餅をついてしまったのだ。


「獲った…!」


 これを機と見たロビンがすぐに追い打ちを狙い、疾走。

 もう何の手立ても無かった俺は、オーランドさんとリリィの制止を祈るだけ。


 しかし、恐怖に強張る顔面がサッカーボールにされるよりも、何かがそろりと俺の顎を撫でる方が先だった。


「こんな雑魚に見下されていい訳が無いだろう?なあ…優太」

 

 体の操縦が効かず固まる俺の肩に手を添えた、根源の意思。

 その思い出したくもない不気味な声が鼓膜を擽ると、黒い衝動が稲妻のように全身を突き抜け、魔力を煮え滾らせた。

 

 人の形を模した根源の意思の姿は俺にしか認識されておらず、介入に誰も気づかないまま、時がじわじわと進んでいく。

 危険を察知した俺は、乗っ取られかけている自らの神経に訴えた。

 声よ、どうか届けと。

 

「ロビン、逃げろ…!」


「そろそろ素直になれよ、人殺し」


 根源の意思に耳元で囁かれた途端、頭の中に鮮明に浮かび上がったのは、最悪の光景。

 骨まで溶けたロビンの亡骸を踏み躙る俺が、血を飲み干した悪魔のように高笑いしている、あってはならない未来だ。

 

 そんな妄想の芳しい香りに吸い寄せられた魔素の群れは、悪意を啜って黒く染まり、翼へと形を変える。

 此処でようやく異変を察知したオーランドさんとリリィの表情に、一気に焦燥が芽生えるも、彼らが行動を起こすまでの時間的余裕はない。

 もう俺の魔力は、バケツから溢れ出す寸前。

 表面張力によって縁を越えて見えるくらいにまで、到達してしまっていた。


「クソ、クソおおお!」


 やっと解放された俺の喉から叫びが漏れた、その時。

 鉄が弾けるような寂しい音だけを残し、ロビンが視界から消失した。

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