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異世界捜索  作者: ンゴ
第五章
27/71

第27話 偽りの記憶

 行方不明の祖父、龍宮寺優造。

 俺がこの世界まで探しに来た当人が、紫色の分厚いコートを身に纏い、さぞつまらなそうだ。

 久方振りに血縁者と出会った反応としては余りに味気なく、実は、他人の空似なのではないかという疑いが、晴れない。

 いや、憧れの相手が人殺しの現行犯となった事実を、受け入れられないだけか。


 寒気は収まらなかったが、このまま口を噤んでいては、異世界にまで追い求めた機会が、終わってしまう。

 何か、何か言わねば。


「じいちゃん、何で、こんな所に居るんだよ」


「目的も、書き置いただろう。私はこの世界で、万能の薬を手に入れる。お前の父親であり我が最愛の息子、士道の病を治療するために」


「親父の、病…?」


 じいちゃんは、戸惑う俺の様子にやれやれと瞼を閉じ、首を振った。

 その雰囲気に血が通ったのは、親父の名前が上がった一時だけ。

 すぐに再び現れた、悲しい瞳に俺の顔を映すと、語り出す。

 あの、憎ったらしい親父を蝕む、病についてを。


「…士道の体は、現代医療では完治不能な心臓病に侵されている。心拍の都度、痛みに襲われているのだ。生まれ落とされたその時から、そうだった」


「そんな素振り、一度だって…!」


 一度だって、無い。

 そう言いかけた俺が思い出したのは、じいちゃんが行方不明になった日の事。

 あの日、知らせを受けた親父は、倒れた。

 確かに胸を手で抑えて、床を藻掻いていた。

 つまりあれが、たった一度の綻びだったという訳だ。

 毎日毎日、うんざりするほど顔を合わせていたのに、かわいそうなんて感情、抱いたことがなかった。


「我がグループの医療技術で命は繋いでいたが、肉体や精神にはいずれ限界が来る。私は士道が死ぬ前に、不自由なく息をする喜びを与えてやりたい。何と…何としてでも」


 やはり、親父の話をしている間だけ、じいちゃんの表情に、感情の揺らぎが見え隠れしていた。

 意識が記憶から現実へと戻った途端、老いて浮き出た血管に氷水が流れ、鉄仮面へと様変わり。

 幼い頃から心の頼り所だった対象から、無関心に睨まれてしまう。


 胸が、刺すように痛い。

 世界で唯一、俺の味方でいてくれたのに。

 俺はそんな風に、やり取りの度、落ち込んだ。


「噂がある。大陸の西側を制する、エルデ帝国皇帝。彼は不老不死であると、もっぱらの噂だ。万能の薬を使っているに、違いないのだ。しかし、奴らは不老不死の秘密について、一切口を割らない。兵を拷問しても、口を割ることはついぞなかった…。そうとなれば、全て奪い取るだけだ。私には、その力がある」


「何を…何を言ってんだよ、じいちゃん」


「我が軍隊、愛されし者は、帝国を侵略する。ルーライトの制圧は、その足掛かりに過ぎない」


「じゃあなんだ、そのあるのかどうかも分からない薬のために、この国の何百人、何千人を殺したって言うのかよ!」


「在るのだよ。大いなる意思がそう言った。だから私は、この世界に居る」


 俺の怒りは、破茶滅茶な根拠によって一蹴された。


 何もかもをかなぐり捨ててまで追いかけていたのは、このような、ネジの飛んだ老いぼれではなかったはず。

 虚しさが抑え切れなくなってしまった俺は、恥ずかし気もなく嘆き、握り拳で不安をすり潰す。


「一人だった俺に手を差し伸べてくれたじいちゃんは、優しいじいちゃんは、何処へ行っちまったんだよ!」


「私は、変わってなどいない。お前に愛情を抱いた覚えなど、皆無」


「嘘だ…!」


 あの時の温かい記憶に縋っても、縋っても、声の震えが一向に止まらない。

 いつもなら、あの隠れ家の温もりを、貰った飴の甘さを思い出すだけで、体に力が漲るのに。

 爪に土がぎっしり詰まる位に地面を引っ掻いて、悔しさを紛らわせた、その時。

 肩を、何かが触れた。


「いいや。嘘なんかじゃないさ」


 覚えのある、若い声。

 隣に咲いていたのは、いつか見た、煽りっぽい笑み。

 その虫唾が走るような笑顔はぐにゃりと捻じ曲がり、世界が捻じ曲がり、俺の意識を、此処ではない何処かへと連れて行った。




 ◇

 



「久しぶり。元気にしてたかい?優太」


「…さっさと帰してくれ。今は、お前と話してる場合じゃない」


 突然、真っ黒な空間に連れ去られた俺は、唾を吐く。

 地面か床か、その何方かに着地した唾が、吸い込まれるように消滅した。

 この、悉くつかみどころのない場所に来るのも、もう何度目か。


 気が急く俺を面白がっているのは、根源の意思。

 相変わらず、ニタニタと不快な笑みじゃあないか。


「そう言うなって。やっと、時が来たんだ。君が、()()()()に向かい合う時がね」


「手前が本物だろうが偽物だろうが、用はねえって言ってんだ!」


「…いいから、僕の名前を呼べ!優太!」


 俺が怒鳴ると、根源の意思は両手を大きく広げて見せた。

 道化の様に、演技ったらしくだ。


 何だか気圧されてしまった俺は、言われるがままに名付けた名前をもう一度呼ぼうとしたが、喉のチャックが閉じ切って、言葉が出ない。

 そして、それに気付いた時にはもう、呼吸すら許されなくなっていた。


 原因も解決方法も分からない苦しみに硬直した俺の体を、根源の意思がトンと押す。

 痺れた足を突かれたときのような苛立ちが血流を巡るより、押し出されたその場に床が無かった事への、驚きや恐怖が先だった。

 体はそのまま落下していき、ドボンと音を響かせながら、真っ暗な何かに沈む。

 

 また、息苦しい。

 宇宙に行けたなら、こんな感じかもしれない。

 体を無限の液体が包んでいると分かるまでは、そう思っていた。


 おずおずと目を開くと、周囲の闇に揺蕩う泡の中を、旅の記憶が浮かんでは消えていく。

 此処は、記憶の海だった。


 真っ暗な海の深みに、太い鎖で雁字搦めにされた、大きな宝箱。

 コレに触れてはならない。

 直感がそう訴えかけてくるも、右手の中には既に、古びた鍵が握られていた。

 この鍵を錠に差し込めば息を吸えるぞ、という、脊髄と相反する誰かの主張が、脳味噌を擽った。


 この二択を迫られるのは、初めてではない。

 過去に、何度も此処を訪れては葛藤していた俺は、嫌な予感に従って、逃げ続けてきたのだ。

 

 そんな、弱虫な俺を馬鹿にする、根源の意思の顔が頭に浮かんだせいか、右手が勝手に鍵穴へ、ガチャリと捻る。

 厳重な鎖が解けていき、いよいよ箱は口を開けてしまった。

 自らぐるぐる巻きにして、海底に封印した、閉ざされた記憶の箱が。


 丸太小屋のテーブルの上を、透明な瓶に詰め込まれた、七色の飴玉が輝いている。

 飽きてもおかしくないほど立ち返った思い出だが、やけに、鮮明だ。


 あの時俺は、泣いていた。

 何故だったか。

 そうだ。

 スーツを着た大人たちに囲まれて、強引に連れ去られた俺は、あの場所で、体の検査をされたのだった。


「痛い!止めて、止めてよ!」


 銀色に光る長い針が俺に与えたのは、鋭い痛みと、虫に寄生されるような異物感。

 そこから何度も血を抜かれ、その度に嫌がって叫んだが、淡々と作業を進める大人たちは、躊躇なく次の注射針を刺した。


「臓器も、遺伝子も、大差はない。それなのに何故、士道だけが…!」


 頭を抱えたじいちゃんが、机を酷く殴り付けた拍子に、山積みになっていた紙が床へと散らばる。

 その中身、難しい漢字や数字の羅列は、忘れてしまった。

 覚えているのは、怒った大人が怖くって、もっと泣き喚いた事だけだ。

 

 そんな俺の五月蠅さに、溜め息を吐いたじいちゃんは、億劫そうに屈むと、俺の下瞼を親指で乱暴に拭い、反対の手に持った瓶の中から、飴を一つ摘まんだ。

 龍宮寺家の厳しいルールに縛られていた俺が、生まれて初めて目撃した菓子が、この青い飴だった。


「今日の事は、お父さんには内緒だ。分かったな?」


 飴玉を渡したじいちゃんの表情には、飴玉一粒ぽっちに目を潤ませ、涎を垂らした俺への哀れみが、ありありと。

 しかし、度重なるストレスでおかしくなってしまっていた俺は、そんなのどうでもよくて。

 口の中に放り込んだ飴玉が放つ甘さと、美しい輝きに狂喜し、濁った涙を流すのに、忙しかった。


「物欲しそうにしおって…こんなもの、幾らでもくれてやる!」

 

 そう言ったじいちゃんは、瓶に詰まった飴玉を全部、埃まみれの床に放り捨てた。

 この世界の理不尽に対する憎しみの捌け口として、幼い俺が選ばれたのだ。 


 此処でしか手に入らない甘さを、どうにかして脳に焼き付けたかった俺は、埃がこびり付いた飴玉を素手で拾って、なりふり構わず、舌へと擦りつける。

 獣になったかのような惨めさと、味蕾から広がる幸福感が、罅割れていた心をぐしゃぐしゃに混ぜ壊した。


 これが、無意識下で作り替えられた、記憶の全貌。

 何もかもを思い出してしまった俺は、根源の、本当の名を呟く。


「お前の本当の名前は…『哀れみ』」


「そう、僕は哀れみ。僕たちが全てを見下し、焼き払う番だ…なあ、優太!」


 脳内に響く根源の意思の笑い声は、青黒い炎と化す。

 圧倒的な火力が、この忌々しい空間を焼き壊していった。




 ◇




 ハッとした俺は、すぐに周囲を見渡すも、根源の意思の姿はない。

 白昼夢に囚われていたのかとも思ったが、賢者は同じ位置、同じ姿であり、何方かと言えば、時間が止まっていたこの世界に放り返されたみたいだ。


「嘘など吐いて、どうする」


 賢者が、そう口にした。

 事実を知ってしまえば、彼の無関心も不思議ではない。

 そのため、異空間に連れていかれる前まで胸を覆っていた絶望感は、何処かに消えてくれていたが、今度は、俺を見下す老人の態度が、気に喰わない。


「そうか、嘘を吐いていたのは、俺の方だったのか」


 人として生きるためとはいえ、自ら記憶を改ざんしていたとは。

 何とも馬鹿馬鹿しい結末に、行き場の無い悲しみと怒りが、沸々。

 その熱は衝動となって体中を駆け巡ると、吸い寄せられた魔素にまで、伝わった。

 余りの熱さに焦げてしまったのか、特有の緑色が徐々に失われ、黒く染まっていく。

 

 ゆっくりと立ち上がる俺の身を囲むように湧き上がった青い炎は、夜の海の様に暗く、嵐の様に激しい。

 この、どんよりとした炎の方が、今はしっくりときていた。


「この炎、いつもと違う…!」


 舞い散る火の粉に触れたリリィが、痛みに顔を歪める。

 その声が聞こえていない訳ではなかったが、目の前の敵を打ちのめし、戦いへの強い欲求を解消することが、最優先。

 もう、温い気持ちなど失せていた。


「これでやっと気兼ねなく、人殺しを叩き潰せる」


 強い言葉を合図に走り出した炎は、川を泳ぐピラニアの群れの如く大地を飛び跳ね、標的へと襲い掛かる。

 老人の反応速度で対処するには厳しい速度、挙動、数。

 進化した魔法の手応えは、確かなものだった。

 

 しかし、着弾の寸前、黒い噴水が賢者の足元から噴き出すと、回避不能に見えた魔法を、一斉に相殺してしまった。

 コートに皺一つない、紳士的な立ち姿が、崩れない。


「人殺し?お前も同じだろう。この世界に来て早々、シンで荒稼ぎしていた馬鹿を、焼き殺してやったそうじゃあないか」


「似非教祖に手を下したのは、俺じゃない!リリィが、あのナイフで…!」


 事実を誤認した賢者の言い分に対する否定感情が、宙に数本の青いナイフを形成し、発射。

 紛れもなく、命を狙った攻撃だった。

 が、水溜りの様に広がった黒い光から生えてきた、二メートルよりもっと長い剛腕に、ぺちぺちと跳ね除けられ、届かない。

 そして今、力の差を見せ付けるように握り潰されたのが、最後の一本。

 魔法の挙動ですらも、上から目線である。


「何を言っている。完全な焼死体、他の傷痕など無い。…どうやら、そこにいる小娘の方が、良く分かっているようだ」


 促された俺が振り向くと、リリィの顔に動揺の色が。

 その様を見て、不自然を思い出した。

 アシュガルドに向かう際、シンを通過するのを頑なに嫌がっていた不自然が、思い出された。

 

 教祖を誰が殺したのか。

 その真実を、出来る限り俺から遠ざけようしていたのだと考えると、不可解な我が儘も、腑に落ちるというもの。


 様々な要素が積み重なって、賢者の言葉への信憑性が、増していく。

 罪の自覚に、耳障りなくらいの震えが、抑えられなくなっていた。


「リリィ、俺が…俺がやったのか…?」


「違う!私が刺した!セドリクは、私が殺したの!」


 必死に首を振るリリィが発した声には、やはり何かを隠そうとする焦りがあり、自らへの疑念は確信へと変わった。

 他人の犯した禁忌を、悪魔だなんだと否定してきた過去の自分があまりにも滑稽で、零れた笑いも乾いていた。


「…俺の手は、とっくに汚れてたって訳か」


 呟けば、俺の心を見透かした青黒い炎が、血濡れた両の手を撫でてくる。

 理性という名の障壁を、狂気が侵食していくのが分かる。


 ルールを失った炎は空へ向かったかと思えば、俺の背中で曲線を描き、翼を生やした。

 それは、誰もが目を背けたくなるほどに禍々しい、悪魔の翼だった。


「…ならもう、何人殺しても一緒だ」


「墜ちたな」


 はためく翼が放つ熱風から、光の腕で身を守る賢者。

 奴にはまだ、俺の無様をほくそ笑む余裕があるらしい。

 それでも、巨人のような腕の陰で風を切った俺が、側まで到達していると知れば、湛えた笑みは若干の驚きへと上書きされる。


 翼から右足へ、運動エネルギーを授かって。

 ぶんと振った足の甲が吹き飛ばしたのは、賢者の左腕。

 狙っていた頭部の代償に差し出された、供物である。


 倫理という檻から解き放たれた俺は、物理的にも自由を手に入れていた。

 何もかもが、軽かった。


「墜ちた?…違うな。俺は飛翔()んでる」


 俺は、散々ひけらかされた余裕を、見せ返す。

 反対に、無駄な感情を捨てた賢者は、即座に失った腕を回復させると、老人とは思えないような身のこなしで距離を取った。

 

 杖の先っぽがくるり。

 天使の輪のような歪みない円を描くと、その軌道から、どす黒い魔素が流れ出した。

 これまでに出会った誰のものより、濁った魔素だ。


「今度はだんまりか?何とか言ってみろよ、糞ジジイ!」


 ノーリアクションが面白くなかった俺は、青い羽を弾丸の如く発射して、追撃を試みる。

 ところが、紫のコートは未だ無傷。

 飛んでいった羽は、真っ黒な円から産み落とされた鬼の顔面に、むしゃむしゃと貪られていた。


「この、捻じ曲がったような殺気…選ばれたのか?大いなる意思に。…腐っても、私の血を継ぐ者か」


 一人で納得した賢者が、黒く染め上げられた杖で大地を突けば、鬼の目には赤い光が宿り、胴体、手足と、鎧を着た鬼の体が組み上がって、完成した。

 アレに、時間を与えてはいけない。

 防衛本能が、警笛を鳴らしている。


「…やらせるかよ!」


 俺は、翼を懸命に動かしながら、両腕に炎の衣を着せた。

 無防備な賢者目掛けた、再びの突進だ。 

 図体のデカい鎧を無視して老体を叩くという、真っ当な算段である。

 しかし、こんな単純な策が通用する程、甘い相手でも無かった。


 高さ四メートル程の巨大な鬼武者は、みてくれとは正反対の機敏な動きで身構えると、繰り出されたのは、豪快な居合切り。

 その一撃は、雷鳴にすら迫る速度に達した俺を、ぴったり捉えていた。


 ブレーキを踏んだ俺は、両腕と悪魔の翼を頭上で交差させて、黒太刀の一閃を受け止めにかかるも、屈してしまった。

 ビルが降ってきたかのような衝撃に、敵わなかった。


「そう何度も、私の領域に踏み入れると思うな」


 大地へ叩き付けられ、反論する権利を奪われる。

 咄嗟の防御が報われ、真っ二つにはならずに済んだが、それでも、翼の盾を貫通した威力に肉体は悲鳴を上げていた。

 尚も刀を構える鬼を前に、俺は覚悟、目を瞑る。


 何秒かの、静寂。 

 暫くしても、何時まで経っても、止めがやってこない。

 そうやって、死の恐怖に怯えて縮こまっていると、俺の鼓膜を、コツン、コツンという軽い音が、馬鹿にした。


 瞼を上げて音を追えば、塵となって消えていく鬼武者の奥に、賢者の背中。

 ここへ来て、温情をかけようとでも言うのか。


「どういうつもりだ!…今更!」


「優太…私は、お前の価値を見誤っていたようだ。士道の命を救うために、私と来い」


 足を止めたじいちゃんは、思い出と同じ、穏やかな声で答えた。

 偽りの記憶に騙されては、ダメだ。

 彼は幼い子供の心を壊した最低の人間であり、殺戮者でもある。

 憧れていい相手ではない。


「許さねえ。殺してやる、殺してやる…!」


 殺意を連呼する。

 あばら骨が砕けたか、鋭い痛みが呼吸を遮ってきたが、神経に喝を入れ、身を引き起こした。

 もう、足は止まらない。

 獣臭く染まった心も、そうだ。


 俺には、白線が見えていた。

 あれを越えてしまえば、刷り込まれてきた常識は覆り、本能のままに暴れ狂うことができる。 

 心象風景か現実かの区別は、付けなくていい。

 人間卒業まで、残り一歩。

 果てしない憤怒、渇望を原動力に、足を上げた。


「もう止めて。優しいユータを連れていかないで」


 抱き留められた。

 後ろで涙ぐんでいるのは、リリィだった。


 思いもよらぬ邪魔者を鬱陶しがった青黒い炎は、容赦なく熱を浴びせて、振り払いにかかる。

 しかし、彼女は俺を離さない。

 どれだけの苦痛を浴びても、俺の腹の前で組まれた腕が、解けない。


「優しさなんて枯れ果てた。俺はただの、人殺しだ…!」


 頬を伝って落ちた涙も、じゅっと鳴って水蒸気。

 悲しめば悲しむだけ、炎は勢いを増していく。

 そうやって、瓦礫塗れの一帯が青に染まろうとも、リリィの決意は俺の拒絶を上回り続け、最後には、炎の方が押し負けた。

 子守歌の様な声が、俺の体の主導権を奪いかけた何かを、寝かし付けてしまったのである。


「ユータの罪は、私が半分背負うわ。だから、大丈夫」


 従って、辺りを覆い尽くした炎も、程なく鎮火。

 俺はギリギリのところで、人の領域に踏み留まった。


「…余計な事を」


 俺が崩れ落ちたのを見た賢者は、ぼそり、そう言うと、杖と革靴の音を連れ添って、離れていく。

 階段を上って、行き先は壇上。

 処刑前、国王が使っていた椅子に腰かけた彼は、徐に、拡声器のスイッチを入れた。


「聞け。我々愛されし者は、このルーライトを皮切りに、大陸全土を制圧する。これは、御伽話などではない。貴様等が迫害してきた社会的弱者の力は、存分に理解したはずだ。転移者は、我々に賛同し、集え。弱者は、我々に便乗するがいい。戦火は帝国すらも呑み込む渦となり、やがてこの世を更地にするだろう。諸国の民よ、震えて眠れ」


 空へと広がっていく、無感情な声。

 壁の中に残った全員が同様に、黙ってこれを聞いていた。


 拡声器に距離の限界があろうが、逃げ出したルーライトの民は大陸各地に散らばり、この惨状と賢者の声明を伝える。

 大陸全土を巻き込んだ戦争の開幕宣言は、必ず届く。

 知らないふりなんて、許されないのだ。


「愛されし者であれば、その、有り余った力を思う存分振るうことができる。私なら、お前の望みを叶えてやれる。心変わりは何時でも良い。歓迎するぞ…優太よ」


 言い残した賢者は、黒い光に貫かれた拡声器の爆発に紛れ、広場から消え去った。

 

 一旦は生を許された、俺とリリィ。

 しかし二人の間には、歓喜も、安堵すらも無い。


 蹲った俺は、夢から覚めてくれと何度も何度も神に願ったが、祈りはまたも、無視された。

 じいちゃんが消えたあの日と、同じだ。


「ああ、あああああ!」


 混沌とした感情を嘔吐する俺の側で、リリィも静かに涙を流していた。

 俺たちはたった一日で、多くの物を失った。

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