第26話 再会
悍ましい音が響けば、大鎌の刃が舞い踊る。
引き裂かれた空気はピュウと悲鳴を上げ、元の形に戻ろうとするが、次の一撃がすぐにやってきて、それを許さない。
私、リリィ・ベイリーと、最強の転移者ステナによる、一対一。
前回とは違って、あっさり伸されるようなことはなかったが、体中を鎌の切っ先にひっかかれて、傷だらけ。
徐々にではあるが、劣勢が明らかになってきた。
戦いが始まった当初は、昂った感情を抑えきれず、動きに精彩を欠いていた彼女だったが、それも、解消されてしまった。
どんな苛々も、それほど長続きはしないものである。
「しぶといじゃない…凡人の癖に。どうせ死ぬんだから、さっさと諦めたら?」
ステナの表情に、飽き。
やる気のない素振りに、騙されてはいけない。
寒気がするような殺気が、常に私の足を絡め取ろうとしており、極々僅かな油断も命取りだ。
緊迫感に延々と監視されているせいで、疲労は二倍になって蓄積していく。
足が重たくて、重たくて。
それでも、何の抵抗もしないのでは、狩られるだけ。
草食動物だって、時には噛み付かねば。
「こんな、馬鹿な事…。アンタ達が暴れれば暴れるほど、転移者への差別は加速する!」
「今は、そうかも知れない。けれどそれも、大陸全土を支配するまでの話」
「世界を…!?そんな事、出来る訳が…!」
私が放った炎は、クルクルと回転した鎌にあっけなく打ち消され、光を吸い込んだようなステナの肌には届かない。
口を衝いて出た否定の言葉も、同様。
建物の崩壊する音と、悲鳴が鳴り止まない惨状を前に、途中で言い淀んでしまった。
彼女の、愛されし者の野望を不可能だと断じるには、示された力が強大過ぎる。
何せ、国一つ滅ぼさんとしているのだ。
「あの方がそうしたいと言えば、そうなるの。また、褒めてもらえるなら…どんな障害だって、私が破壊する」
「命を軽んじるような人間が、どれだけの権力を手にしたって…!」
「命を軽んじるような人間!それは、逃げてったおじいちゃまの事を言っているのかしら!?アレが弱者をどう扱っていたか…知らないなんて、言わせない!」
鎌の攻撃を躱しながら、私はまたも黙らせられる。
愛されし者の中にも社会的弱者としての正義があり、それがこの凶行を、一方的に正当化してしまっていた。
死体の海を生み出した理不尽を受け入れる訳にはいかないが、油性ペンで描かれた敵の理想を、私の洒落臭い言葉が掻き消す事など、きっとない。
ならば、私は私の正義を信じ貫こう。
借り物だが、きっと他の誰よりも温かく、優しい正義を。
それに近しい思想を抱く者たちが紡いできた、慈愛に満ちた力を、私は担っているのだから。
再度距離を詰め、横向きにくるりと回ったステナが、鎌を薙ぐ。
まだ、逃げるな。
その刃が筋肉を抉る、ギリギリまで我慢。
引き付けて引き付けて、ようやくバックステップした私は、不安定な体勢のまま、怒涛の勢いで氷柱を放った。
悪魔は冷徹。
慌てない。
機械の様なスピードで意識が防御へと切り替わると、またも、くるくる回った長い鎌が盾となり、氷の槍を次々と叩き割った。
軽々と対処してやった、と言わんばかりに、魔性の微笑みが小馬鹿にしてくる。
それも、一層細い、針の様な氷柱が、派手に露出されたへそに捻じ込まれるまでの事。
初めて、ステナの血液が露見した。
遥か格下の魔法使いによる、闇雲な乱打に映ったか。
残念ながら、最後の一本以外、悪魔を守る鉄の軌跡の隙間を狙い澄ますための、時間稼ぎだ。
「あなたが担いでいる願望は、精々、賢者一人分。私は、歴史を積み上げてきた魔法使いの先人、百人以上の祈りを、受け継いでいる。…背負ってるものの重さが、違うのよ!」
「一発入れた程度で調子に…ッ!」
ステナが異変に気付いた時には既に、すらりと美しいおみ足が、氷漬け。
予め大地へと這わせておいた冷気が、出血によって注意が散漫になった彼女を、固く縛り付けていた。
本命の罠。
これに嵌ってしまった以上、余裕綽々では、いられまい。
頭上にみるみる形成されていく、巨大な岩の拳が、降ってきたら。
否が応にも、想像してしまう。
「至上の剛腕で咎人を救え、衆生済度」
この魔法、神の拳である。
詠唱を半分省略したところで、人間を粉砕することなど、造作もない。
今一度、空中でギュウと締まった拳は、魔女のしなやかな女体へ、容赦なく襲い掛かる。
神の下では、性差など関係なし。
虎視眈々としていた甲斐もあり、最高の結果が目の前まで来ていた。
そう、詰めの一手を打ったつもりでいた私は、自らが草食動物だという事を、忘れてしまっていたのである。
虎視、眈々。
兎風情が虎を騙るだなんて、思い上がりも甚だしい。
「…ダラクの時とはまるで別人ね。凡人って言葉、訂正するわ」
ナマケモノでも目を覚ますような、ゾッとする声。
鳥肌に気を取られている間に、轢かれる寸前だったステナの姿が、その場から消失した。
喝を入れようと意気込んでいた拳は空を切り、瓦礫の山に激突する。
風に乗って、此方まで届いた砂埃の中、動けないはずの彼女の足を探すと、カチコチになったハイヒールと脚線美だけが、そのままに。
股関節から上が、綺麗に切断されていたのだ。
「こう見ると、私の脚も悪くないじゃない。このままユータにプレゼントしたら、喜ぶかしら?」
太腿の残骸が、艶めかしく動くステナの指先に、弄ばれている。
鎌の刃に滴る赤い液体は、恐らく、自身の血液だろう。
つまり、あそこにある脚の標本は、蜥蜴の尻尾。
神の拳骨から上半身と少しを庇うため、自らの肉体を、下半身を切り分け、捨て去ったのだ。
心のブレーキが壊れた化け物にしか許されない、型破りな回避行動だが、今思えば、考慮すべき手段だった。
そういう相手だと、知っていた。
「抜かった…次こそ!」
千載一遇のチャンスを取りこぼした不甲斐なさに、ほんのちょっぴり浮かんだ涙を、指の第二間接で拭う。
そうやって気合を入れ直した私が、瞼を開くまでの一秒。
いや、それにも足らない僅かの間に、またしても、敵影は忽然と行方不明に。
あそこでふざけていたステナが何処へ行ったのか、首を右へ、左へ。
成程、真後ろだ。
「ダメよ…目を離しちゃ」
痺れるような甘い声が脳に届く。
やっと振り返った、間抜けな間抜けな私への躾は、腹に硬い何かを突き立てられた事による、嘔吐感。
胃を潰しているものの正体が、鎌の柄だと理解した頃にはもう、遠い背後にあったはずの石壁へと、叩き付けられていた。
胃液と肺の酸素が一挙に絞り出され、危険信号に脳がチカチカ。
体のど真ん中を捉えられてしまった私は、罅割れた壁に寄り掛かって、起き上がれない。
「凡人ではなかったけれど、ただの人間である限り、私には届かない」
声と共に迫り来るヒールの音に脅されて、弱者の感情が騒ぎだした。
味わったことの無い絶望感に、指の先まで寒い。
震えが止まらないせいで、奥歯がぶつかり合って、煩い。
アリッサも、ミロも、キロも、皆行ってしまった。
行かせた判断を後悔し、それを振り払い、また後悔。
強い意志を持って臨んだはずの戦いだったが、死の恐怖に打ち克つには、私の精神は若過ぎたか。
多分、そうじゃない。
人間なのだ。
奴と違って、私は。
「知ってるかしら?人ってね、身近な存在が死ぬと、怒ったり、泣き喚いたりするのよ。…彼の泣き顔が見れるなんて、楽しみで仕方が無いわ」
興奮したステナの大鎌が、直上でぎらぎらと光る。
最後、締め付けられた私の喉から出た言葉は、無様で、情けない願いだった。
「助けて…ユータ」
消え入るような私の呟きが、真っ白な息が、大気に呑まれようという、その時。
唐突にやってきた熱の激流が、真冬の様な寂しさを、一蹴した。
前髪が吹き上がって広がった、視界の奥の方。
ステナの背中越しに、何かが、唸り声を上げる。
あれは、竜。
竜に化けた、青い炎。
アイディーが従えていたあの翼竜よりも、物騒な顎と尖った牙を見せびらかして、邪悪な顔付きをしていた。
「待ち合わせより、早く来るタイプだったのね…!」
背後の熱に汗を垂らしたステナは、振り返り様に、鎌を大振り。
しかし、竜の強靭な顎は急場の抵抗など物ともせず、ステナと私を、一口で食い破った。
更に強まる風圧に目を瞑り、両手を盾にしたが、私の体には火傷一つない。
身体を撫でる穏やかな炎の懐かしさに、思わず頬を涙が伝い、零れ落ちた。
「生きていて、欲しかったんだ。悲しむのも分かってたけど、俺は馬鹿だから。相談もせず、突き放した。自分勝手だった」
彼が言い訳をしながら一歩ずつ近付いてくる間も、青い炎がステナの体を焼き続け、回復を許さない。
喉まで焦げたステナは叫び声すら上げられずに、おろおろとふらつき、藻掻くばかりだ。
「でも、あんなに高い壁ですら、お前を守ってはくれなかった。この世界に安全な場所なんて、無いんだ。…だから、俺にもう一度だけ、チャンスをくれないか」
ステナの横を一歩一歩通り過ぎ、とうとう私の元に戻ってきてくれた彼が、目の前で膝を突く。
見たことの無い、真剣な眼差し。
その視線に沿ってゆっくりと、壊れ物を扱うように私の手を取り、そして誓った。
「今度は逃げたりしない。俺が最後まで守るから…一緒に居てくれ、リリィ」
「…もう、絶対に逃がさないから。後悔しないでよね」
痛む体でユータを抱き締めれば、早まった胸の鼓動が、徐々に重なり合う。
炎の熱に溶けて混ざり合った私たちの心は、やがて、一つとなった。
恐怖が付け入る隙など、最早、何処にもない。
◇
再会を果たした俺とリリィが抱擁を交わすこの場所は、大海原を揺蕩う豪華客船の上でも、夜景を一望できるレストランでもなく、血みどろの戦場だ。
だから、水入らずの時間は、そう長く続かない。
「ああ、不快、不快よ…!二人っきりで、盛り上がらないでくれるかしら!」
爛れた皮膚の巻き戻しが終わるのを、待っていられない、火達磨のステナ。
視界も霞んでいるだろうに、怒れる彼女は、やぶれかぶれに斬りかかってきた。
しかし、目だけで振り返った俺が敵意を甦らせれば、焼死体が、炎の壁に追い返される。
孤独の終焉を祝った青い炎は、力強い。
そんな変化が余計気に障ったのか、ステナは、自慢の長い爪に纏わり付く火の粉を振り払うと、パキッと噛み壊してしまった。
それが元に戻っていくのにすら、ムッとしている。
乙女心が、荒れていた。
「立てるか?リリィ」
「当然。援護は任せて」
応えたリリィの眉に、気力と自信が満ちていた。
別れてからそう経ってないのに、大人になったような感じがする。
端には凍り付けにされた、ステナの脚のオブジェが。
彼女の成長を、ポツンと残って証明していた。
一方の俺も、血気盛ん。
境界街でステナに追われた際、何もできずに敗北しているのに、である。
普通であれば日和ってしまいそうなシチュエーションだが、リリィと二人でなら、何だってできる様な気さえするのだ。
「俺の、スペシャルデートプラン…次は、ゾンビシューティングだ!ゾンビシューティング!」
「その目障りな女を殺せば…ユータ、あなたは私の物よ!」
ステナと好き好きに言い合うと、純粋な殺気が俺の身体に伸し掛かった。
怖いには怖いが、昼間とは違う。
ひっぱたかずとも足は動くし、ぐるぐると回した肩に巻き付く青い炎も、轟々と燃えていた。
何より精神的余裕は、思考を最善手へと導いてくれる。
過去、二度の対戦を分析した俺は安直に手を出さず、狙い所やタイミングをずらして、打撃。
結果、ステナの予想と拳が到達する時間の誤差が噛み合って、ステナの顔面は炎の餌食に。
ジュッという虚しい音と共に、完璧なプロポーションから、生首だけが排除された。
「その気味の悪ィ動き、全部頭に入ってんだよ!」
手応えを感じた俺は、次は胴体を消し炭にしてやろうと、右腕を大きく振り被った。
しかし、何もかもが思い通りにいくような、簡単な相手ではない。
なんと、体だけにされたステナが、独りでに動き出したのだ。
鎌を握り直すと、俺の肩口目掛けて振り下ろしてくる。
まさか首無しが動き出すとは思わず、意表を突かれた形となった俺は、痛みを堪える準備をした。
が、背後からやってきた電撃が、鎌の刃にピンポイント。
仰け反ったステナの、半分だけ生えてきた顔が、驚いていた。
「ユータの隣は誰にも譲らないわ。あなたみたいな悪魔には、尚更よ」
杖の先で狙いを定めたまま、リリィが言う。
この、介護されているかのような援護よ。
俺は、そう噛み締めながら、溜めに溜めた真っ青な拳をぶん回した。
ご機嫌な炎が、ステナの胸から腹までを、薄い服ごと削り取る。
公になった体内は、それ即ち、彼女の預貯金通帳である。
「…酷いわ、ユータ。こんな、霰もない姿にするなんて」
「「残り、三つ…!」」
残された心臓の数を視認した、俺とリリィの声が揃う。
ダラクから始まった長い戦いも、終わりが迫っていた。
ステナには、息つく暇も与えられない。
晒上げの内臓目掛けた電撃に、回避を強要される。
治りかけの肉体に痛みが走り、顔の端々に苦しみが滲んでいた。
「ただの人間の分際で…!」
激昂したステナは、並外れた身体能力を頼りに、繰り返し繰り返し遊撃を仕掛けてくるものの、大鎌の先端すらも、届かず終い。
それどころか、リリィの多彩な魔法によって、接近する度に手足を傷モノにされてしまう。
苛々して標的を変えれば、今度は青い炎に肌を焼かれるという、八方塞がりだ。
戦況は、一方的に。
いつの間にかステナの表情からは一切の余裕が消え、常々感じさせられていた格の差など、忘れそうになる。
「何故…どうして…私の中の怪物は、こんなものじゃ…!」
「お前の狂気、此処で終わらせてやる」
「終わりなんて無い!私を犯そうとした奴隷商も、私を救おうとした神父も、どんな人間だって、本能のままに殺してきた…私は、狂気そのものよ!」
手の平で炎を掴んだ俺を、ステナが睨む。
心に抱いた焦燥感を隠すため、これでもかと目力を滾らせて、威嚇する。
しかし今となっては、ステナに対し、また数多の命を喰らった大鎌に対しても、怯むことはない。
むしろ、怯えた捨て犬の如く、必死に自らを大きく見せようとする彼女に、哀れみすら抱いていた。
「ただの人間は、繋がり、支え合える。…独りぼっちのあなたじゃ、届かないわ」
大量の魔力で、魔素をおびき寄せたリリィ。
空中で絡み合った緑色は、十本を越える数の、氷柱となる。
その鋭利な先端に、様々な角度から急所を狙われたステナだったが、目にも止まらぬ鎌捌きで、全てを叩き落として見せた。
全身に太い筋を浮かべながら、巨大な鎌を思うがままに振り回す姿には、人の形を精一杯保っているかのような、危うさがある。
きっと人類の中で、悪鬼羅刹に一番近しい存在が、彼女だ。
「犬が何匹群れようと、纏めて刈ればいいだけの事…!」
凄んだステナに平伏した魔素は、真っ黒になって、大鎌へとくっついた。
次第に、刃が深紅に染められていく。
ステナが扱う、唯一にして最強の魔法。
山程の命を、両断してきたのだろう。
凄まじい力ではあるが、あれを使用した全力の彼女を制圧してこそ、彼女の中の狂気を殺すことに繋がるはずだ。
妖艶な体は、鎌の重さを物ともせず此方に向かってくるが、俺は逃げも隠れもしない。
視線すらも、逸らさない。
ただひたすらに照準を定めながら、心の火を、炎を燃やし、最後のやり取りに備えていた。
「ステナ、俺たちだって独りだったんだ。お前だって、きっと…」
俺の呟きに共鳴した青い炎は、七つの頭を持つ大蛇となり、迫り来るステナへ一斉に襲いかかる。
連続する顎に彼女の姿が覆われ、覆われ。
最後の一匹がかぶり付いた次の瞬間には、乱舞した赤い三日月が、蛇の頭の重箱を微塵切りにした。
人間の限界など優に超えた身のこなしは、孤独な彼女が厳しい世界を生き抜くために磨かれてきた、悲しい力。
崩壊した城の前を、運命の被害者が踊る様は、美しくも儚かった。
「大地よ、星よ、全ての命よ」
見惚れてしまっていた俺だったが、リリィの詠唱に目を覚ました。
祈るリリィを、純白に見えるくらいの光が、歓迎していた。
次から次へ、我が身で咎めなければならないステナは、休む間もなく、全速力で駆けた。
リリィと一メートルの距離にまで辿り着いた、その場所が、ハチ公前。
俺の手のひらを発った、真っ青に煌めく弾丸と、服が破け、曝け出された脇腹が、合流した。
「がああああ!」
「お前は誰よりも強い。でもこれが、一人の力の限界だ」
青の牢獄にぶち込まれたステナの悲鳴が、ズタボロの広場に木霊した。
炎の痛みや彼女自身の声に掻き消され、説教なんて届かない。
それでいい。
きっとステナは、分かっているはずだ。
詠唱を中断したリリィは俺の手を握り、その様を見守っていた。
彼女も、敢えて止めを刺そうとはしない。
正義や信念のぶつかり合いは、幕を下ろしたのである。
炎の勢いが止み、焼けて煙った皮膚が、もぞもぞ動いて蘇っていく。
こうやって死にかける事など、ステナにとっては慣れたもの。
だが、俺とリリィを見据えた彼女は頭を抑え、別の何かに悶えていた。
暫くそうしていると、石に金属がぶつかる、乾いた音が。
ようやく眉を緩ませたステナの手から、大鎌が落っこちたのである。
その残響も、風に消えていった。
「あなたたちの間にある、それは絆…それとも愛?そして、これはきっと、嫉妬…」
言葉を紡ぎ、流れ落ちる涙を自らの手のひらで受け止めたステナは、辛そうにも、救われたようにも見える、複雑な表情をしていた。
人殺しの出来ない俺が、唯一目指した戦いの果てが、其処に在った。
「ステナ…お前はこれから、償っていくんだ。そうやっていく内に、いつか、犯した罪を自覚できる。どれだけ俺を頼ったっていい。だからもう、こんな事は終わりにしよう」
心という、曖昧な概念の中を不器用に藻掻く姿に、悪魔と呼ばれたステナが、人として生きる未来を確信した俺は、強く訴えかける。
深い孤独の海に沈んだ彼女を、どうにか此方側へ引き上げようと、手を伸ばした。
ステナが、パッと目を見開く。
何かを察した彼女はふらりと立ち上がり、そして笑った。
祭りの終わりを惜しむような、もの悲し気な笑みだった。
この表情の移ろいは、改心を誓った証に違いない。
そう疑わなかった俺の喜びが、器からぽたぽたと溢れかけたが、残念ながら、全くの勘違いだったのである。
「そっか。私、寂しかったのね」
そう言って、振り返ったステナ。
その額が、みずみずしい果実の如く、弾けた。
突如飛来した漆黒の槍に、貫かれたのだ。
傷口からは様々な液体が垂れ落ちて、彼女の服や足元を濡らした。
「…ステナ!」
倒れそうになるステナの背中を、伸ばしていた腕で受け止める。
彼女の頭に突き刺さっていたのは、木や鉄で作られた兵器ではなく、槍の形をした真っ黒な光。
槍が貫通した箇所から皴が増殖し、じわじわと肉体が老いていく。
どれ程の苦痛がステナを襲っていたのかは計り知れないが、それでも彼女は、傷口の下で安らか。
その中指と薬指の腹で、俺の頬を触れた。
「もし、私が地獄で人を知って、罪を知って、償うことができたなら…。生まれ変わって、また恋をしてみたいわ」
成長と変化に向き合おうとするステナを応援すると、そう決めていた俺は、彼女が朽ちていく様を受け入れられず、最期の言葉に応えてやることもできなかった。
悲しみに、打ちひしがれるだけだった。
そんな、現実味のない別れの時を、ぐちゃり、気分の悪い音が邪魔してくる。
恐る恐る、ステナの微笑みから視線をずらすと、皴だらけになった彼女の胸部を抉じ開ける、これまた皺だらけの腕が。
中に残った二つの心臓が、ぶちっと引き千切られた衝撃。
唖然とした俺が見上げた先には、冷え切った目をした老紳士が立っていた。
彼は、手中に収めた心臓を口元へ。
それが当然だとでも言うように、丸呑みしてしまった。
「…態々射線に入ってくるとは、気が違ったか。従順で、扱い易かったのだがな」
眉一つ動かさずに臓物を飲み下した老人は、杖に両手を乗せ、無感情に呟く。
髭を蓄え、白髪を後ろに纏めたその姿も、威厳を感じる重たい声色も。
何もかもが、俺の追い求めていたもの。
しかし、残虐な行いと、それに悪びれもしない態度が記憶と噛み合わず、困惑した俺は、瞬きすら忘れてしまっていた。
「来るなと書き置いたはずだ…優太」
見知った老人に名を呼ばれ、逃げ道が着々と塞がっていく。
膝を突いた俺を、路傍の小石でも眺めているかのような瞳が、見下ろしていた。




