第2話 神と願い
眩んだ目は、閉じっぱなし。
五感の内の一つを断ったからか、敏感になった鼻腔が、自然の大らかな匂いに満たされていた。
床や地面とぶつかるのを覚悟していたが、先に来たのは、足を踏み締める感覚。
俺はもう、異世界の地に立っていたのである。
何故だか体に力が上手く入らず、その脱力感を埋めるように、空気中の何かが体内へ取り込まれていく感覚がある。
給油中のガソリン車にでもなったようで、気持ちが悪い。
健康管理は徹底されていたため、風邪や病気の類とは無縁であったのだが。
「あなた、誰?」
「ひい」
急な呼びかけに、格好の悪い声が出てしまった。
反射的に開いた瞼の奥には、青々と生い茂った植物が形成する、一面の緑。
こんなにも、小鳥の鳴き声が降ってきていたなんて。
耳を塞いでいた訳ではないのに、今更気づいた。
都会に住んでいた俺にとっては珍しい景色だが、じっくり味わっている余裕は無い。
破裂しそうな心臓を手で抑え、扉があるはずの方、つまり声のした方へ恐る恐る振り返ると、銀髪の女の子が、不思議そうにしていた。
「ちょっと、大丈夫?」
透明感のある青い目が、細まる。
固まって動けなくなってしまった俺に、呆れているのだろう。
微かに近寄り難さを抱かせる、綺麗な顔立ち。
同い年か、少し年上、くらいだろうか。
大きな杖、紫色のローブ。
光が跳ねているかのような純白の肌も、銀の長髪も、浮き世離れしている。
俺はその幻想的な姿に半分驚いて、半分、見惚れていた。
「グルル…」
「そこ、危ないわよ」
呼吸を忘れていた俺だったが、促され、唸り声の方へ視線を動かす。
すると、茂みの中から現れたのは、セイウチの様に発達した牙を震わせる、人間と同じくらいの体長まで成長した熊。
少なくとも日本の森には生息しない、凶悪な外見の生物は、明らかに俺を威嚇していた。
思考が、鈍化する。
すぐさま行動しなければならないと、分かっているのに。
四肢の脱力感は消えず、体が言うことを聞かないもどかしさに気が急いて、ぐるぐる、ぐるぐると、世界が回って止まらない。
もしじいちゃんがこの場に居たならば、どうする。
土壇場で、そんな考えが頭を過った俺は、腑抜けた体に、気合いという名の鞭を打つ。
「お前だけでも、逃げてくれ…!」
両手を広げ、一歩前に。
俺は、彼女だけでも逃がすため、囮になると決断した。
もっと上手い方法があったのだろうか。
それでも、何の行動も起こさずに死ぬような馬鹿は、じいちゃんなら絶対にしない。
率先して弱者を救ってきた、じいちゃんならば。
子供の眼力になど恐れもせず、猛った熊が突進してくる。
死を悟った俺の意識は、侘びしく、プツンと途切れた。
◇
重苦しい鐘の音に目を覚ます。
知らないベッドの上だ。
まあ、生まれてこの方、自室以外のベッドに乗ったことなど、無いが。
高性能な機械に囲まれたあの部屋とは違い、家具や建物から来る木の匂いが優しい。
起こした体は、ステンドグラスから差し込んだ青白い光に、照らされていた。
横に置かれたテーブルの上で、銀髪の女の子が寝息を立てている。
彼女も俺も、一緒に死んでしまったのか。
そうではないと、思いたい。
見ると、彼女の口元から、滝の様な涎が。
悲しい事に、首に下がった十字架が、水たまりに浸かってしまっているではないか。
「…罰当たり」
つい、口を突く。
信心の欠片も持ち合わせていないため、彼女が信じる宗教にどんなルールがあるかなど、想像も付かない。
でも、十字架を涎まみれにされて喜ぶ神なんて、居ないだろう。
こうやってまじまじ見ても、やはり顔立ちは整っていたが、目の下にクマ。
僅かに、頬もこけている。
そんな減点要素があった上で、初対面の相手に美しいと感じさせるあたり、恵まれた風貌だ。
「もう食べれないかも」
寝言を聞くに、現在進行形で十字架が浅漬けになっているとは知らず、呑気な夢を見ている。
ツンとした目鼻立ちも、蕩けて形無しだ。
此処が天国でなければ、熊に襲われて気絶した俺を、彼女が運んでくれたという事になる。
あの獰猛な獣をどうしたのかは不明だが、おかげで九死に一生を得た。
美人には悪人が多いから気を付けろと、家庭教師に教わっていたが、改めなければ。
礼くらいは、言っておくべきだろう。
そう思った俺は、彼女を起こそうと手を伸ばした。
「おかわり…むにゃ」
肩に触れそうになった指を、諦める。
できる限り、ゆっくりと引っ込めた。
やつれた恩人から、至福の時間を奪ってしまうのは、あまりに忍びない。
俺は汚れた十字架を、自らの服の袖で拭いてから、音が出ないよう、ドアノブを慎重に捻った。
「…なんとまあ、随分嫌味な」
扉を一枚挟んだ先は、広々とした礼拝堂。
最奥のステンドグラスを背負うように、巨大な女神像が陣取っている。
これだけ堂々と見下ろされると、親父と喋っている時の身長差を思い出してしまい、勝手ながら、非常に不愉快だ。
「珍しい服を着ていますね。新入りの信徒さんかな?」
無意味に女神像を睨み返していると、物柔らかな声がした。
此方へやってくる、小太りの中年男性のものだ。
聖職者だと一目で分かる、白を基調とした衣服。
整った髭の上で、如何にも私こそが善人であると主張する、巧みな微笑み。
何方をとっても、胡散臭い奴だ。
「いえ…倒れたところを、銀髪の女性に助けて頂きました」
「そうでしたか。これも、アポレイン様の導き、でしょうな」
「アポレイン様、ですか?」
「炎を司る命の象徴、女神アポレイン。我々が崇める、偉大な神の名です」
「成る程…命の象徴ねえ」
紹介された女神像は、細部まで丁寧に彫られており、まるで名高い芸術品のような高級感を漂わせていた。
何度見ても、薄っすらと浮かんだ笑みが、憎たらしい。
心中では、人間など端た存在だと、馬鹿にしているに違いない。
像に限らず、煌びやかな装飾品や、高級なインテリアに彩られたこの礼拝堂自体が、神聖な教会というより、富豪の資産。
男の作り物の様な表情と相まって、気分が悪い空間だ。
「私は教祖のセドリクです。あなたもアポレイン教に入信すれば、勉学が実り、魔法の才は目覚め、人生が豊かになる。良いことづくめですよ」
「あーはいは…魔法?魔法だって?そんなものが、実在するんですか?」
「…その年で魔法を知らないだと?…もしかしてコイツ、転移者か」
聞きなれない単語に思わず質問すると、セドリクの細い眉が、ピクリ。
怪しがる声が、俺が軽率な発言をしたのだと、物語る。
初対面だというのに、敵意すら感じられる。
何が不味かったのかは知らないが、吐いた唾は呑めない。
こうなったら、開き直るしかない。
「優太といいます。良ければその、魔法とやらについて、ご教授願えませんか?」
頼み事をされたセドリクの顔は、面倒そうに歪んだ。
それでも、他の信徒の存在を気にしてか、表情をすぐに繕い、説明を始めるのだった。
◇
この世界、グランシア大陸には、神に与えられし力である『魔法』が存在する。
かつて、大陸を脅かしていた強大な竜ですら、魔法という武器のおかげで一撃。
そう伝説になる程に強力な、奇跡の力。
そんな風に有難がってはいるが、ある程度の原理は解明されている。
魔獣と呼ばれる害獣や、大陸に植生する植物が放出する、魔素と呼ばれる光。
コレが、魔法の原料だ。
環境中に漂うこの魔素を、人間の体内に眠る魔力というエネルギーを使って圧縮、変換することによって、魔法が繰り出せる、といった寸法である。
イメージ次第で様々な形状に具現化できるため、本来自由度は高いが、効率化が進んだ現代の魔法使いが扱う魔法は、固定されつつある。
炎、水、風など、幾つかの属性の枠組みが常識となり、その中で、威力と速度の兼ね合いが取れた、汎用性の高い魔法を、皆が使用しているのだ。
昔は個性的だった野球選手のスイングや投球フォームが、歴史を重ねるに連れ、似たり寄ったりになったのと同じだ。
そして、説明の最後には、信仰すればどうのこうのという、根拠の無い勧誘文句も付け加えられていた。
下らない詐欺が成立し、ここまで儲かっているという事は、このグランシア大陸に、インターネットは通っていない。
「教祖様!」
「おや、今日も元気ですね、リリィ。今月も、あなたの寄付が一番の高額でしたよ。これからも、努力を続けて下さいね」
「ありがとうございます、教祖様!」
セドリクの講義を受け終えたところに、銀髪の女の子、リリィが駆け寄ってきた。
寝ていた奴が目を覚ましてもおかしくないくらいには、時間が経ってしまったらしい。
腹の中で小馬鹿にしている俺とは異なり、彼女の眼差しは敬意に溢れている。
香ばしいやり取りを繰り広げるものだから、吹き出してしまいそうだ。
太腿をつねって我慢している俺と青い瞳で、ふと目が合った。
目の下のクマに苛々したが、それも隠した。
「倒れたときは心配したわ」
「助けてくれてありがとう。で、熊はどうやって?」
「魔法は得意なの。杖さえあれば、あの程度の魔獣はイチコロなんだから!」
リリィが胸を張れば、首の十字架も嬉しそうに跳ねた。
熊ですら退治してしまうのだから、魔法の威力はかなりのもの。
民間人が、そこまでの力を気軽に行使できるとなると、旅路の治安が不安でならない。
とはいえ、いつまでもこの場に留まっているわけにもいかない。
俺には、大切な目的があるのだから。
「…では、そろそろ失礼します。日が暮れるといけない」
「アポレイン様のお導きがあらんことを」
軽く頭を下げてから歩き出した俺の背後で、セドリクが手を合わせた。
馬鹿馬鹿しい。
無断で祈られるむず痒さを犬歯で嚙み砕きながら、大聖堂を後にした。
靴裏を叩き付けて、ストレスを発散する。
速足で階段を降り、広間を抜け、大袈裟な出入り口を押し開けた。
扉の間から外気と赤い光を浴び、足取り軽く飛び出しかけた俺だったが、突如呆然。
如何ともし難い事実を、思い出したのだ。
「…金が、無え」
垣間見えた夕日の姿は美しかったが、無情にも、扉がぎいっと自重で閉じる。
宿も金も無いひもじい俺を、嗤っているかのようだ。
野宿をしようにも、武器すら持たない俺が魔獣に襲われれば、抵抗できずに殺されてしまう。
明日の夕刊に載るのは、勘弁だ。
新聞がこの世界に存在しているのかどうかは、疑問だが。
「…よし、神様の靴でも舐めるとするか」
今は形だけでも入信し、この教会の寝室を貸りて朝を待つ。
それが無難だと判断した俺は、大胆に踵を返した。
胡散臭い聖職者にだろうと、存在しない神にだろうと、宿のためなら媚びて見せよう。
プライドなんて、煮ても焼いても食えないのである。
◇
「教祖様、おばあちゃんの病気は、いつになったら治していただけるのですか!」
悲痛な声。
大聖堂へ戻ろうとスキップしていた俺の足がびっくりして、咄嗟に物陰へと身を隠す。
様子を窺うと、座り込んだリリィが、セドリクに縋りついていた。
痩せた腕を、躍起になって伸ばしていた。
「大丈夫。アポレイン様は、あなたのおばあさまをちゃんと見て下さっています。今も生き長らえているのは、アポレイン様が手を差し伸べて下さっているからに、違いありません。…望み過ぎてはいけませんよ、リリィ」
「分かっています…でも!おばあちゃんは衰弱していくばかりで、いつ死んでしまうか…」
「祈りと感謝を形にし続ければ、いずれ必ず、神は応えて下さります。ですから、安心なさい」
そう言ったセドリクは、銀の頭をそっと撫でた。
コテコテの指輪を、幾つも幾つも填めた手で。
疲れ果てた彼女が顔を上げないのを良いことに、気色の悪い笑みをニタニタ、ニタニタと垂れ流している。
あの十字架を拭いてやったのは、大間違いだった。