第16話 夜の町
リリィと二人の朝食。
幾ら寝ぼけていたって、彼女の注文は三人前だ。
つまり、脳よりも先に胃が目を覚ましているのだ、この女は。
体の造りを研究すれば、意味のない発見があるに違いない。
「…ありえない!なんでコイツがペンダント付けてるのよ!」
甲高い声に、酒場が揺らいだ。
今の今まで、瞼を擦りながらパンを齧っていた奴から、笛のような音がするもんだから、たまげてしまう。
リリィがビシッと指した先には、あくびをしながら階段を降りてきた、ジェシカが居た。
その首に、赤狼の角のペンダントが掛かっているのが、バレてしまったのだ。
しまった。
昨晩リリィがペンダントを欲しそうにしていたのを、完全に失念していた。
中央で売るまで隠しておくよう、ジェシカにはお願いしておくべきだったが、そもそも彼女に渡したのも、その場でふと思い立っただけ。
そこまでの気を回すのは、俺には不可能である。
やかんの如くピーピーと鳴り出したリリィの頭は、もう真っ赤。
俺はすぐさま、弁明に努めた。
「魔獣に止めを刺したのはジェシカだし、まあ良いかなと…」
「貴族に売るって話だったから諦めたのに、よりにもよってこの女に渡すなんて…!」
「…ジェシカ、昨日は要らなそうだったし、リリィにやってくれよ、そのペンダント。機嫌が悪くなると、大変なんだ、コイツ」
俺の頼みを聞いたジェシカは上の方を見ながら、赤狼の角の先端を、指でくるくる、くるくる。
そうやって、暫く考える素振りをした彼女の答えは、聞かずとも、いたずらな笑みが物語っていた。
「絶対に嫌だね。…良いだろリリィ。昨日、ユータの部屋で、貰ったんだ」
「な、な、なんですって!?」
意味深なアクセントで煽られた結果、遂に爆発してしまったリリィの銀髪は、喧嘩中の猫の様に逆立っている。
そこまであのペンダントが欲しかったなら、最初から、素直にそう言って欲しい。
片や、リリィにも謝りたいとしおらしくしていた、昨晩のジェシカの面影は皆無。
寧ろ玩具にして楽しんでいるあたり、不安定だった精神面は、快復していた。
あとは、怪我の心配だけ。
脱臼は癖づくと面倒だし、痛みが長引く場合もある。
「肩は大丈夫か?」
「ああ、おかげで絶好調だ。道中は俺に任せろ」
「信頼してるよ、剛剣」
頭の後ろで腕を組んだ俺がそう呼ぶと、少しムッとしたジェシカ。
同じテーブルにどかんと座った彼女は、店員に注文を済ませて。
すぐに横目で、不満を告げる。
「ユータ、お前はもう友達みたいなもんだろ。ちゃんと名前で呼べよ」
「友達…! 分かったよ、ジェシカ!」
目を輝かせた俺がそう呼び直せば、納得したジェシカが頷く。
かっこいい通り名を、一度呼んでみたかっただけなのだが、どうやら今のが、最後の機会だ。
しかし、突然二人目の友達ができてしまった俺はそれどころではなく、テーブルの下でガッツポーズが止まらない。
そうやって喜んでいる様を見たリリィは、尚更不服そうに、唇を尖らせた。
「あんた、別のテーブルに座りなさいよ」
「別に良いだろ?ツンケンしないで仲良くしようぜ、リリィ」
「人に刃物向けておいて、何なのこの女…!」
ジェシカにひらひらと手を振られ、リリィのこめかみに血管が浮かぶ。
馬車の中での一件を考えれば、ジェシカがここまで歩み寄ってくれたのは、意外だった。
車中で冷や汗を掻かされたリリィの気持ちも、決して理解できなくはないが、中央まで少しの間一緒なのだ。
仲良くとは行かずとも、程良い距離感を保って欲しい。
ジェシカはジェシカで、逆撫でするような言い回しは、そろそろ遠慮してくれないだろうか。
自分勝手さで言えばリリィもかなりのものだが、ジェシカはそれを上回って豪放。
何とも、協調性に不安の残る顔ぶれである。
ジェシカは行儀など気にせず、運ばれてきた骨付き肉に、齧り付く。
一日の初めからコレとは、彼女も胃袋が強い。
横では、山のように積まれたサラダをリリィが頬張っており、朝の食事とは思えない光景だ。
似たもの同士、なんて言ったら、二人とも噛みついてくるだろうから、黙っておこう。
「しかし、ほんと変な奴らだよな、お前等は。中央の魔法使いは、もっと偉そうにしてるぜ」
「何を威張れることがあるって言うのよ。ゴリラみたいなあんたと比べて、か弱い乙女である代わりに、魔法が使えるってだけでしょ。一長一短よ」
「それでも、人間同士の殺し合いで魔法に軍配が上がるのは、俺だって認めてるんだぜ?ま、狩りなら負けねえけどな」
魔法と剣、異なる能力の価値について、か。
ジェシカは対人戦闘において、魔法使いの優位性を支持したが、俺の意見は違っている。
根拠は、ダラクでの戦いだ。
化け物じみた強さだった、ステナ。
一番の武器は、要所でのみ使用した魔法などではなく、人並み外れた身体能力だった。
ガルダさん程の魔法使いですら、後手を取らざるを得ないのだから、俺が知っている限り、大陸最強は彼女。
つまり、魔法が優位、なんてことはない。
別に、魔法が劣っていると思っているわけでもないが。
結局のところ、傑出することが重要なのだ。
武器は何でもいい。
突き抜けて、誰も届かないところまで行ってしまえば、無敵になれる。
ああいった、抜きんでた力を得られるのは、専ら、特別な障害を乗り越えて、殻を破る事に成功した場合。
あるいは、禁忌を犯した場合のみだ。
その点、積み重ねてきた努力と、何度も死線を潜り抜けた経験の、両方を持ち合わせるジェシカは、ステナに近づける戦士かも知れない。
「身体能力は、極めれば最強の武器になる。魔法が使えるだけじゃ、届かない世界もあるんだ…きっと」
「…やっぱ、変な奴らだ」
呆れたように言ったジェシカはその言葉とは裏腹に、微かな喜びを頬に溜めていた。
この様子であれば、誤って多少の失礼を働いたとしても、馬車の中で脅されずに済みそうだ。
「そういえばお前等、何の用があって中央なんかに?」
ジェシカが次の話題に選んだのは、何の変哲もない疑問。
それに答えて良いものか、分からなかったリリィは、俺に目配せ。
判断を仰ぐ。
ふむ、正直に話すべきだろうか。
もしかしたら、傭兵の中で名が広まっている彼女であれば、仲間内で聞いている情報があるかも知れない。
俺は、収穫に期待して、言った。
「数年前現われた伝説の賢者を探すために、アシュガルドへ向かってるんだ」
「伝説の賢者ねえ…。そんな胡散臭い話、真に受けてるのかよ。お前らも」
「万能の薬って代物を探しているんだけど、手掛かりが無くてな。大怪我を一瞬で治せるって話の、賢者とやらに聞いてみれば、何か分かるかもと思ったんだ。何でもいい。ジェシカも、薬について知ってる事があったら、教えてほしい」
「悪いがそんなもん、聞いたことがないな。…ただ、賢者の方なら、最近獣伐区で噂になってるぞ」
「噂?」
聞き返すと、ジェシカは一度周りを見渡してから、テーブルの中心へと身を乗り出す。
それに全員が付き合ったのを確認して、再開だ。
「…その賢者って奴を崇める宗教団体が、ギルドの傭兵や、ならず者に声をかけて回っているらしい。特に問題が起こっている訳じゃないが、気味の悪い連中だ」
「その、声を掛けられたって奴ら、みんな転移者なのか?」
「はあ?そんなわけねえだろ。この国で生まれた奴が、殆どさ」
「そうか…一体、何が目的なんだ…?」
ジェシカの言う宗教団体が愛されし者の事であるならば、おかしな話である。
転移者への差別に抗うのが目的である彼らが、転移者以外を集めて何を企んでいるのだろうか。
理念に合致しない、この大陸で生まれた人間。
それも、資金面のメリットに乏しいであろう、獣伐区の人間に働きかけてまで。
テーブルのカビと睨めっこして悩んでいると、宿の出入り口が空いて、馭者が此方へ手を上げているのが見えた。
馬車の準備が終わって、俺たちを呼びにきたのだ。
俺とリリィは食事を終えていたが、遅れて降りて来たジェシカの料理は、まだ残っている。
「今の内に、この女を置いていくのはどうかしら」
「まあまあ」
真顔のリリィは意地悪を言ったが、なんだかんだ、ジェシカの食事が終わるのを待ってから、三人一緒に馬車へ乗り込んだのだった。
◇
以降の旅は順調だった。
初日のように、特別珍しい魔獣が現れることもなく、道中で魔獣に襲われれば、怪我の影響を感じさせずに、ジェシカがあっさりと討伐。
日が落ちる頃になったら、付近の村に寄って宿泊。
この、繰り返しだった。
変わった事と言えば、毎晩毎晩、酒に酔ったジェシカが俺の部屋に訪れては、意味もなく絡んできた事くらい。
俺は面倒な振りをしてあしらってはいたものの、夜が賑やかだった事などそう無かったため、内心、嬉しかった。
そうやって日々を送る一行が、中央近辺の町へと辿り着いたのは、当初の予定通り、九日目の日暮れ。
「あれがジェシカの言っていた、壁か」
元の世界と比べて建物の背が低いため、北を見るだけで、中央を囲む圧倒的な壁が嫌でも視界に入ってくる。
余所者の俺でさえ、無機質な灰色に拒絶されている感覚が、間違いなくあった。
辺りの住人は、あれが常に視界に入ってくる生活に、疲れてしまわないのだろうか。
「美味しいご飯が…私を待ってるわ!」
景色などには目もくれず、全速力で宿に飛び込むリリィの様子を見ていると、食事の優先度が無意識に高まり、無性に腹が減ってしまう。
ああいった能天気さは、ストレスから精神を守る盾。
態々見習おうとは思わないが、彼女の長所だ。
影響され腹を鳴らした俺も、宿の看板を潜ろうと、歩き出す。
しかし、後ろから大袈裟に肩を組まれた驚きによって、空腹の幻影は吹き飛んで行ってしまった。
「なあ、たまには酒を浴びてえよな」
藪から棒に、ジェシカが。
話の内容より先に、背中に触れる柔らかさが厄介だが、こんな感触、目を背けてしまえ。
相変わらず、距離感の近い奴である。
心の内に隠した動揺を、悟られないようにせねば。
俺は、ただ呆れて見えるよう、演じた。
「お前は、毎晩酒浴びて寝てるだろうが」
「そうだよな、たらふく飲みたいよな」
「そもそも俺は飲んだことも無いし、飲みたい訳でも無い」
「そう言うなって。いい加減、部屋に籠ってるのもつまんねえだろ?」
「…まさか!」
反論を繰り返していた俺は、怪しく笑うジェシカの含みを持たせた言い方に対し、ハッと息を飲んだ。
彼女が何を言いたいのか、やっと察しがついた俺は、人生初の経験の予感に、身震いする。
「もしかして、夜の町に…!?」
「いや、そうだけどよ…。何でお前が、そんなにそわそわしてんだ?」
何を隠そう、深夜の病院を全力で駆けずり回るという特殊な経験を除いて、俺が夜に友人と出かけたことは、一度も無い。
夜中、家の前を騒いで歩く学生の集団を見る度に、恨めしく思ったものだ。
それ自体に、何の興味もなかったスケートボードも、ちょっぴり欲しくなったくらいだ。
そんな憧れの時間が、手を伸ばせば届く場所にあるという事実に興奮し、体は武者震いが止まらなかった。
格好悪いのが嫌で、態度だけはやっぱり、繕っていたが。
「…仕方ないな、付き合ってやるよ」
「俺が誘ってるんだ、当たり前だろ」
当たり前と言い切った割に、ジェシカは達成感を、向日葵のように咲かせている。
こうして俺たちは、夜の町へ向かう運びとなった。
◇
周りには、ある程度人の流れがあるものの、それは、メドカルテのような活気づいた明るさではない。
それでも、ダークムーディーな店の数々には好奇心が擽られ、浮足立って。
漂う娯楽の匂いに、胸が高鳴っていく。
すれ違う人々の瞳が輝いているのは、煌びやかな看板が放つネオンライトの反射だけが理由ではないと、分かる。
「何処か行きつけでもあるのか?」
「実は行ってみたい店があるんだ。高い酒が置いてある」
「お前の飲み方で高いのは無理だろ」
俺に指摘されるとニヤリと歯を晒したジェシカは、またも肩に腕を回してくる。
そのまま至近距離でチッチッと人差し指を振られたせいで、絶妙に腹が立った。
もう既に、酔っ払っているのではないだろうか、この女は。
「俺じゃなくて、ユータが飲むんだよ。どうせ、大した量飲めねえだろうしな」
「成程」
酒自体に興味が無かった俺の返事は至極簡潔だったが、とはいえ、いざ飲むと決まれば、初の経験に心は弾む。
燥いでいたら子供っぽいかと思い、大人しくしているだけだ。
高揚をひた隠しにした俺は、ジェシカの横を暫く歩く。
すると、寂れた区画にポツリと立った、雰囲気のあるバーに到着した。
「此処だ。良い感じだろ?」
「確かに良い感じだが…良い感じ過ぎないか?」
「ビビるなよ、男だろうが」
促され、恐る恐る重々しい鉄の扉、その取っ手に触れる。
しかし、俺が力を込めるより先に、扉が向こう側から押し開けられた。
「失礼」
店の中からゆらりと顔を出した、黒いローブを纏った男が、落ち着いた若い声で、一言挨拶。
背後に数人の戦士を引き連れて、店を出た。
集団は、ふらりと町へ消えていく。
この獣伐区で、魔法使いと戦士が仲良く飲んでいるとは、珍しい。
彼らの姿が見えなくなってから、ジェシカが耳を貸すよう、指で合図した。
俺が身を寄せると、こそこそと小さな声が、耳を揺らす。
「…多分、例の宗教団体の信徒だ。俺の知り合いも、黒ローブの奴に、ありがたい話をされたらしい」
「ありがたい話って?」
「神に等しい存在である偉大な賢者と、選ばれし五人の転移者が、獣伐区の不幸な民草を救ってくれる…とかいう、無責任に幸せな話だ」
「転移者って、余所者として差別されているんだよな?そんな相手に救われたい奴、居るのか?」
「それが今、壁の外ではそこそこ好かれてんだよな。転移者」
ジェシカの言葉に耳を傾けながら、今度こそバーの扉を開けると、ドアベルの音が小気味良く俺たちを迎えた。
店内は、薄暗さと赤を中心にした色使いによって、艶やかな雰囲気に仕上がっており、そこに飾られているアンティークな品々の陰影が、更に空間を深いものにしている。
こういった場に慣れない俺は、敷き詰められた絨毯の深紅を瞳に映しているだけでも、酔ってしまいそうだ。
不相応な空気に気圧された俺とは対称的に、堂々とカウンターに座ったジェシカ。
それを見た俺も、急ぎ足で横の席に着く。
「大人っぽい酒。二人分」
「かしこまりました」
成立するのか怪しいくらいの注文を受けたバーテンダーは、何の文句も言わず、酒を作り始めた。
シェイカーを振る姿、グラスに酒を流し込む動きなど、きびきびとした所作を見ているだけで、感嘆してしまう。
素人には、真似できない技術だ。
プロの仕事ぶりに見入っていた俺の横で、カウンターに頬杖を突いたジェシカが、途中だった話を再開する。
バーテンダーは居ないものとしているのか、さっきよりも声は大きい。
「二年くらい前、壁の中に忍び込んだ転移者が、大暴れしたんだと。単独で王城に突っ込んで、衛兵を数十人、国王に選ばれた最高位の魔法使いを、五人も殺したらしい」
「…魔法使いを殺した犯罪者が、壁の外では英雄扱いって訳か」
「刑は、二年間の拷問と、斬首。中央に行けば、あと一か月かそこらで、公開ギロチンが見られるぜ」
話が本当の事であるならば、もはや壁の中と外で、敵対する隣国の様だ。
敵の敵は味方。
だから、転移者は獣伐区の人々にとって、味方という事になる。
同じく被差別者であるという境遇も、後押ししての事だろう。
鼻を鳴らしたジェシカが話を纏めたところで、丁度カウンターに酒が置かれた。
床を彩る絨毯の色に似た、重い赤色をしたショートカクテルだ。
制作過程の美しさも相まって、芸術品にも劣らない輝きを放っており、グラスを触る事ですら躊躇ってしまう。
「乾杯」
グラスを持ったジェシカが、此方を見ている。
彼女のオレンジ色の瞳は普段よりも潤んでおり、手も僅かだが、震えていた。
どうやら、背伸びした一時に緊張しているのは、俺だけではなかったらしい。
「…乾杯」
優しくグラスを突き合わせると、ジェシカは宝物のようにそれを眺めてから、一気にカクテルを飲み干す。
首の角度を戻した彼女は、一瞬で空になったそれを、不満気に見つめていた。
俺は面白くなってしまって、敢えて、問い掛ける。
「どうだ?」
「…全然足りねえ」
「だろうな!」
透明なグラスを前にしたジェシカの、寂しそうな感想に、俺は声を出して笑った。
酒に口を付けていなくて良かった。
きっとすぐに噴出して、高級な絨毯を汚していた。
いや、この酒の色であれば目立たないだろうし、思い出としては、それも良かったか。
「笑い過ぎだ!お前も飲め!」
恥ずかしがったり怒ったりと忙しいジェシカが、声を荒げた。
おかげで気が楽になった俺は、可愛らしいカクテルグラスに口を付け、味わえる。
これは中々、美味しい。
グラスの縁に塗られたレモンと砂糖、またカクテルの中にあるベリーの甘さが酒の香りと織り交ざっている。
あのジェシカが、こんなにも繊細な味を、理解できるのだろうか。
想像するだけで、またもや笑いが込み上げてきてしまう。
「何が面白いんだよ」
「いや、初めての酒がジェシカとで良かったと思ってさ」
「…そりゃ良かったな」
涙を拭きながら俺が誤魔化すと、ジェシカはそっぽを向いてしまった。
誤魔化したのと同時に本心でもあるのだが、それが伝わっているかは怪しいところだ。
もう一度カクテルを口に含んだ俺は、ジェシカの膨らんだ頰にお願いする。
「こんなに美味しいなら他の酒も頼んでみたいな。色々、ちょっとずつ味見させてくれよ」
「なら、今度はあの、偉そうな酒にしようぜ!今日を忘れられない日にしてやる!」
大胆に宣言するジェシカの表情には、常の天真爛漫さが戻っていた。
気が緩んだ今の方が、カチコチになりながら格好付けている時よりも、余程彼女らしくて、魅力的だ。
こうやって、時間をかけて折角解けた緊張は、強引に、引き戻されることとなる。
その場に響き渡った、耳を塞ぎたくなるような怒声によって。
「俺の好きな酒だけは、絶対に切らすなって言ったよなァ!?」
カウンターの、一番奥。
バーテンダーが、襟首を掴み上げられていた。
二メートル程の長身、オールバックの青い髪、黒いスーツ、サングラス。
そんな、迫力のある姿をした男の乱暴に怯えてしまい、客は全員、黙り込んでいる。
庇おうとする者など、一人も現れない。
「ヘマした馬鹿のせいで、クソつまんねえクソ田舎に来て、好きな酒を飲むことすら叶わない。こんな不幸な俺が、可哀そうだとは思わねえのかよォ!」
「がはッ…!」
持ち上げられていたバーテンダーが、いとも簡単に、バックバーへと叩きつけられた。
その衝撃によって、綺麗に並べられていた酒瓶が次々落下し、ガシャン、パリンと、無残に割れていく。
先程ジェシカが指差した、バックバーの中央に鎮座する巨大なボトルも、一際派手に、粉々。
水の泡となる悲しみを、炭酸の弾ける音が奏でていた。
瞬間、恐怖に支配されていた空間を、唸るように吹き飛んだカウンターチェアが、切り裂く。
弾丸の如く撃ち出されたそれは、グラサン男の頭部に向かって、一直線。
発射台は、ジェシカの右足だった。
「…あァ?椅子が歯向かってきやがった」
男は、致命傷を防いでいた。
当然、無傷ではない。
間に入って緩衝材となった前腕は破壊され、青黒く折れ曲がっている。
だが、彼が見せたのは、痛みはさておきといった、鈍い反応だった。
ジェシカの表情は、此方からは見えない。
が、空気をがらりと変えた殺気のせいで、想像が付く。
頭の後ろに垂れる赤い髪は美しく、自信に溢れた立ち姿には、長身の男を遥かに上回る威圧感があった。
「…おい、カマキリ野郎。手前が台無しにした物の大きさ、痛みで理解させてやる」
ジェシカが啖呵を切った、この時。
ようやく俺は、気が付いたのだ。
彼女の髪型が普段とは違い、ポニーテールになっている事に。




