実験
慎二おじさんを先導にゴミ屋敷未満ゴミ処理場以下な事務所を進む。
先導するおじさんは転がって広がる新聞紙やまだ汁気の残る空のカップ麺を足で払いながら道を作り、僕が後に続く。薄暗い部屋の中でよく躊躇いもなく進めるものだ。
「いやぁ疲れたなぁ大河。」
「疲れた所じゃないよ。こんなゴミ屋敷、歩くのだって疲れる。」
「そうじゃない。説得するのがだよ。」
「まぁそれは...そうだね。」
父親の説得、母親のヒス。言葉が荒らしや波のように激しく打ち付ける中で、慎二おじさんは彼らが納得のいく言葉を拾って文に変えていく。話自体は纏まったことがほんとありがとう奇跡のようだった。
僕が唯一おじさんの尊敬出来るところは頭のいい所、そして人を丸め込ませる所だ。
おじさんの唯一の取り柄に感心していると、ガチャガチャと物音を立てる中でおじさんは口を開いた。
「大河が生まれた時、ある事がきっかけで俺は遺伝子を確認することにしたんだ。」
「あること?」
「ある事ってのは兄貴との約束で話せない。すまないな。察しはついてるだろうけど、兄貴から聞くまでは待ってやってくれ。」
言葉の通りだ。僕には何かしらの察しがついている、だけどそれを言葉にはできない。分からないからだ。多分お父さんにはお父さんなりの考えがあっての事で、それを話してくれるまで僕は待つつもりでいる。
「人は沢山言葉を知っている。でも文や口にすると途端に伝わらなくなる。感情や考えが目の細かい網になって、大事なことが相手に届かなくなる。だから、ちゃんと待ってやれ。大河には難しいこと____」
「おじさん。この赤いシマシマのツボなに?大っきいね。」
「人がいい事を話してる時にお前は___えっ。シリコンホール知らない?」
「しりこんほーる?あっ裏に穴___ちょっと!」
たまたま僕が拾った赤い下地に白の横線が入った壺は、おじさんが横取りしたあとあらぬ方向に投げ捨てた。
「ねぇなにしりこんほーるって!ねぇねぇねぇ!」
「お前には教えたい事が山ほどある。けれどあの蠱毒のことは忘れなさい。」
「ぶー。」
「それでだ!俺は大河に特異性のある遺伝子があることを知った。だから準備をしてきたんだ。」
おじさんの足取りが止まって、僕も止まった。大きな白衣の背中が遮っているものは、小学生である僕より少し小さいツードアで一人暮らし用の冷蔵庫だった。
「なにこれ?冷蔵庫に秘密があるの?」
「冷蔵庫は排熱能力が命、機械の作動熱と冷媒によって排出される熱は部屋の空間内に発散されて発揮するんだ。こういう熱の変換はエントロピーという。」
「??」
「んで、これが、家の冷蔵庫が万年不調だった理由だッ!!」
するとおじさんは冷蔵庫のてっぺんを掴んで左側に薙ぎ倒した。床に響く衝撃と舞い上がる茶色の埃、冷蔵庫に冷やされたビールや色んな物がなぎ倒されて音を立てる。それからゆっくりと僕を包むのは生ぬるい風だ。
壁にはドアがあったのだ。金属製の両扉。その横には上と下と書かれた2つのボタンが縦に並んでいる。
「エレベーターの、扉?」
「そうだ。これが大河の超人遺伝子が覚醒した時の準備。この建物の地下には俺のラボがある。」
小さくて狭いエレベーターの扉が開くと、学校の体育館程の広さがある白い空間にでた。
「うわ大っきい!!」
思わずでた声が白い床と壁、高い天井に響いて渡る。
「広さは大河が通ってる小学校の体育館とほぼ一緒にしてある。これならどこまでどう動いていいか勝手が掴みやすいだろ?」
「ほーお金かけたんだね。」
「当たり前だ。俺は前進じゃこっちサイドの人間だったからな。それなりの金銭と材質には融通も効けば頭も回る」
そう言えば僕はおじさんの職歴だけは知らない。聞こうと思えば聞けたんだろうけど、何故か聞くなという雰囲気があって聞けずにいた。
「材質は高熱にも耐えるセラミックタイルとポリイミドシートを採用。床はどんな高さから落ちてもいいようにハニカム構造の熱可塑性樹脂が任意の場所に突き出るようになってる____なんだよ。口開けてポカーンとしやがって。」
「もっと分かりやすく言ってよ。」
「_____スペースシャトルの中にいる。細かくは違うけどな。だからどんだけ全力で殴っても壊れない。高い所から落ちてもクッションが出てくる床になってる。」
「すげぇ...」
「色々察するくせに、そこですげぇってなる所は子供だな___いよしッ」
パンッ!と手を叩いて僕の注意を引いた。
「こっからは大河の力についてだ。」
「きたきた!!やっと話が聞ける!!」
「さっきも言ったけど摩擦係数ってわかるか?」
「わかんない!」
「わかんないな。そうだな。小学5年生だもんな。」
おじさんは僕のことをなんだと思っているんだろうか。
「まぁ簡単に言えば、大河に触れる物は全て滑って行くという力になる。」
「うわ地味だなぁ...」
「言葉にするとそうなるけど、物理学的にはそうでもないんだぞ。」
おじさん曰く。事象の観察と分析をした結果、僕は直接力を発揮できないそうだ。
「わからない事があった時はまず分析だ。お前が最初に転けたとき、あの床にはほんの少し、転けるほどではない海藻から出来たケロイドが零れていた場所だ。その時何を考えていた?」
「ケロイド?_____うーん...えーっと...その場所から逃げようとした。」
「ケロイドは聞き流せ。そうだな。それから目が覚めて兄貴に殴られそうになった時は身構えてたな?」
「うん。だって痛いもん。」
「よしよし。なら何故あゆみさんのビンタは効いた?」
「あっ。」
何となく話が見えてきた。そうだ。僕の力が全てを滑らせてしまうなら、何故母親のビンタは効いたのか。
「視野の外からの攻撃だったからだ。意識下にないものは受け付けるという事。大河の力には指向性___条件によってはコントロールできるはずだ。だがそれには条件があると思う。」
「条件...」
「まず心的要因。何かやろうとした時に、大河に力が寄り添うんだ。」
逃げようとした時に足が滑り、殴られると思った時はその部分に力が発動した。やりたい事と力が自然に現れる。これがおじさんの言う指向性って意味らしい。意識の向きが力の向きになるってこと。
「次に外的要因。まず転けた時には足の裏にはローショ___ケロイドがあった。」
「ローション?」
「寝起きなら寝汗をかいてたはずだ。つまり力の発現には媒介がいると思うんだ。肌の上に乗った界面エネルギーを発生させる物がいる、という仮説。これを実証したいと思う。ほれ。」
おじさんは僕に白色のボトルにくっついたスプレーを手渡した。
「なにこれ?」
「中身は水だ。顔と上半身、それから腕全体に沢山掛けてみろ。」
「え...」
「服は脱げよ。肌を濡らさないとダメだからな。」
「まじか。」
僕は言う通りにシャツを脱いで、肌に水を吹きかけた。冷ややかな雫が気持ちいいが、全身が濡れて気持ちが悪い。
「よし、じゃあ始めるか。アイリス!」
[はい。プロフェッサー。]
おじさんの声に呼ばれて、どこからともなく声が降ってきた。女の人の声だ。だが人間と言うにはどうも単著で、温かみがない。
「なに!今の女の人の声!」
「このラボの管理AIだ。キャノンボールを出してくれ。」
[了解。a18ブロックにキャノンボールを展開します。]
するとおじさんは距離を取った。その場所の足元すぐ横の床が開いて、バレーボール部がよく使うボールを打ち出す機械が現れた。
「あー。僕何するかわかった。」
「そっかならはじめるぞ。やれアイリス」
「まって心のじゅん___」
打ち出されたのはバレーボールだ。赤と緑のラインが線を作って僕に真っ直ぐ飛び込んでくる。避けられない。当たってしまう。踏み込みきれない足の代わりに、僕は目の前に両腕で壁を作った。これで防げる。痛みなんてないに等しいはずだ。
するとどうだ。痛みは全くない。衝撃もない。ただボールは僕の腕にぶつかってまっすぐ下に落ちていった。
「えっ。なんで跳ね返ったりしないの?」
「アイリス。今のを分析してくれ。俺には理解するには難しすぎる。」
[___摩擦を失ったボールの運動エネルギーは0になった事を確認。勢いを無くし、重力に引かれて落下したようです。物理学的に有り得ません。]
「おじさんどういうこと?」
「俺も聞きたいよ。」
おじさんは僕に駆け寄って、腕を見てホッとした。
「大丈夫だよ。ボールだよ?」
「ボールはいいんだよ。静摩擦係数までゼロにすると分子結合が解ける可能性があるんだ。それを見てる。よし何ともないな。」
「それがゼロになると、どうなるの?」
「多分体が溶けてスープになる。」
「今なんて言った?」
ホッとした顔を見せた後、おじさんは僕の前に人差し指を立てて小難しい説明を始めた。
「いいかよく聞いてくれ。摩擦係数をゼロにした場合、ボールの跳ねたら回転方向に落ちるか跳ねるかだ。摩擦しない訳だから、運動エネルギーを保持したまま、コリオリエフェクトに従って下方にスリップするというのが予測だった。」
「いや、そもそも摩擦係数が0ってどういうことなの?」
「摩擦しないってことだ。どんな物が当たっても滑って行くって意味だ。氷の上で滑るみたいにな。運動エネルギーを持つものなら、摩擦のない世界ではどんなものも動きを止めることが出来ないんだ。」
「つまりなに?」
「物理学は数学だ。保持数値がある限りゼロにはならない。でも今のボールはゼロになった。動いてた事が無かったみたいにな。これはもう超人なんかじゃないぞ。物理学が編み出した数値を操れる存在なんて___まるでマクスウェルの悪魔じゃないか。」
僕にはよく分からないことだけがわかって、おじさんの好奇心に火をつけた事を感じた。今夜は眠れそうにない。