始まりのオレンジジュース
まだ残暑が厳しい2000年9月。僕は慎二おじさんの事務所にいた。
でかいソファの上で寝転がって蜘蛛の巣が貼った天井を見てる。景観に飽きて顔を右に向けると、ブラウン管のテレビがジーッととても低い音を立てながらニュースを垂れ流してる。机には競艇?なんか賭け事専門の新聞と、ガラスで透けてる筈なのに向こう側が見えない程に山になった吸殻が乗る灰皿。床はなんかよく分からないガラクタで足場は殆どない。こんなに窮屈でタバコ臭いから窓をあけても、生ぬるい風が通るだけでなんの気晴らしにもならない。
夕暮れの日差しが窓から伸びるこの部屋に清潔さはない。
すると油の薄いシミがところ着いた白衣の袖が視線に入り込んで、硝子のグラスに映えるオレンジ色の飲み物が机の上に着陸した。
「おじさん。オレンジジュースなんて買う余裕あったんだ。」
「可愛くないぞクソガキ。俺にだってそれくらいはあるわ。」
「では有難く。」
「おう。最後のオレンジジュースだ。有難く飲むがいい。」
「やっぱり余裕ないんじゃん。」
善意は有難く受け取れとの母の教えに従い、寝転がりながらグラスに手を伸ばした。想像を下回る生ぬるい感覚に驚くこともない。おじさんの所に来ればこんなのはいつも通りだ。
「全く可愛げがない甥っ子よ。もうそろそろ夕方になるけど、帰らなくていいのか。」
「____うん。」
ぬるくてヌメリがある舌触りが喉を通ると、ちょっとした緊張感が体の奥に逃げ込んだ。
「お前、あゆみさんになんて言ってきた。」
あゆみさんとは僕の母親のことだ。なんと言おうか迷ったけど、ここは正直に話すと展開はいい方向に進むかもしれないと思った。心根を知るもの同士、正直にかたらおうじゃないか。
「おじさんの仕事を手伝うって言った。」
「馬鹿ッ!!ふざけんなッ!ーー〜っ!!!クソテメェ、宿題サボりやがったな!絶対心配してるぞチクショウ!!んんーーー...仕方ねぇ。連絡してやる。兄貴に迎えに来てもらうから待ってろ。」
「ゲンザイチチハ、シゴトニデテイルタメ、イエニイマセン」
「港湾作業者は大体夕方には終わってる。言い訳考える暇があるなら観念しろ。」
ダメだったか。慎二おじさんはぶつくさ文句を言いながら固定電話に向かっていった。あーだるい。こうなるなら宿題をやっておくべきだった。
「いや、まだ逃げられる可能性はあるか。」
もう僕は5年生だ。なんでも考えられる歳頃だし、避難地帯なら用意してる。そこで時間を稼げば今日のところはサボれるかな。
オレンジジュースを一気に飲み干して勇気を奮い立たせる。
「よし行くか。」
グラスを机の上に置いて、汚い床の継ぎ目を塗って足をつける。それから力を入れた瞬間だった。何故だろうか。足が滑った。
「お?」
滑り込んだ右足が空を舞い、綺麗な宙返りが世界を反転させる。綺麗に視界がひっくり返る。
「な、なんで?」
穏やかな時間で後悔の念が流れる。ちゃんとやっていれば良かったなんて思うのは後の祭りだ。意識と視界は床に叩きつけられると事切れた。
次に目を覚ますとまた見慣れた薄暗い天井だった。その雰囲気と匂いで自分の勉強部屋だと分かった。
唯一違うのは怒りマークが顔に現れるが、それを抑え込むために笑顔を作る父の大きな顔だ。スキンヘッドのイカつい顔立ちに笑顔は似合わない。
「大河。」
「ゲンザイオカケニナッタデン___」
「たちなさい。」
「はい...」
終わった。僕の生涯は10年で幕を閉じます。ありがとうお父さんお母さん。ありがとう地球。
揺れるようにぐらつく頭を起こして、ベッドから立ち上がる。すると目の前に立っている巨漢で筋肉モリモリの壁が僕を見下ろしている。鳩胸の前で腕組みし、眼光を浴びせている。もう後悔したところで遅い。
「なんで逃げた。」
「おじさ」
「嘘は言うな。」
「...宿題をやりたくなくて」
「ほう。それだけなのか?」
「後おじさ」
「大バカッ!!」
まるで大木のような腕が空に掲げられた。家では嘘はご法度で、それをすると頭を叩かれる事がお決まりだ。いつものようにゴツゴツの凶器から繰り出される打撃に身構えて目を瞑った。
「兄貴待てッ!!」
その瞬間、背後のドアが開いて光と共に慎二おじさんの冴えない白衣が現れた。でも遅い。振り下ろされた手がもうすぐ僕を鞭打つ。ありがとうおじさん。冴えない顔が見れなくなると思うと寂しいよ。
止まらないまま僕は痛みと衝撃に備えた。目を食いしばって痛みの到来を待っていた。だがいつまで経ってもそれらは来ない。
「...あれ?」
瞼を開いてみると、親父の大きな手は振り抜けた後だった。父親の唖然とした顔で察する。頭は叩いたのに何故なんの衝撃もなく、振り抜けたのか疑問に思っているのだ。
「兄貴、大河にもだけど話したいことがある。」
薄暗い部屋の中で慎二おじさんの声が僕らの視線を集めている。