恋と愛
日本のサイトでも、たまに話題になる恋と愛の違い。
この間は、翻訳まとめサイトで、外国人が日本語の恋と愛の違いについて尋ねている、というのを見かけた。まあ、いずれも訳すとloveになってしまうから。
恋と愛の違いについては、検索かけるといくつものサイトが出てくる。その内容はおおむね
・恋は一人でするもの、愛は二人でするもの
・恋は一方向で、愛は双方向
中には
・恋は奪うもので、愛は与えるもの
というようなものもある。
秀逸に思ったのは、「実った恋が愛」というもの。いずれも、恋は愛の下位の存在、あるいは過程であり、目指すのは恋ではなく愛、という主張が多いように思われる。
これについて、ちょっと考えてみたい。
まず考えるべきは、カバレッジの問題である。有名なギリシャの4つの愛。アガペー、ストルゲー、ピリアおよびエロース。ここで、恋が取り扱うのはエロースのジャンルだけである。しかし、愛は4つ全ての訳語となる。
アガペーやストルゲーは、まさに与える愛、無償の愛の傾向を持つ。愛という言葉が、その概念を内包しているからと言って、愛が与えるものでありそれゆえ高尚なものである、という議論は間違っているだろう。恋と比較するなら、あくまでエロース分野の愛について語らねばならない。
有名な「惜しみなく愛は奪う」にあるように、エロースの愛が与えるだけ、というのはけして一般的な結論とは言い難い。むしろ、恋は見返りを求めずに行えるが、愛は与えた愛に見返りが無いと心がすり減っていくと思う。
恋と愛を語る場合には、その愛にアガペーやストルゲーが混在していないか、注意しないとならない。
もう一点、考えるのは、愛はその一言(一文字)でそのまま性交を意味しうる(例: 愛を交わす)、ということである。実った恋が愛というが、実った結果成立するloversの訳語は「恋人」であり、「愛人」ではない。
愛は肉体関係を伴うものである。ならば、恋はより精神的なものであるだろう。つまり、肉体的なつながりが愛(ただし、エロース分野に限る)であり、精神的なつながりが恋である、と。もし、婚外の肉体関係を持つ間柄を「愛人」と名するならば、現代は恋が成立した後に婚姻関係に至る前に、恋人段階から愛人段階を経由している、と考えるべきであろう。
肉体関係を前提にすると、愛が二人でなければ成立しない、というのも自明である。では恋が一人でしかできないものか、というと「片恋」という言葉があるのであるから、「片」でない「恋」も存在すると考えるべきである。
この点、恋が一人で、愛は二人で、というのもあまり説得力を持つものでは無い。
ずっと昔、新聞のコラムで、教育評論家か何かの女性が「若いうちの恋愛は積極的にすべきである。失敗できるうちに失敗しておいた方が良い。ただ、失敗した場合に撤退できるようにしておかなければならない」という(感じの)意見を載せていた事が有った。
当時のPoint of no return, ルビコン川は明示されては無かったが、性行為であったと思われる(現代では妊娠になってしまうのだろうか)。そして、「肉体関係なしに愛情を確かめ合えるのは、若いうちだけである」とあったような。
「愛人」に進む前の「恋人」という関係。また、愛ではない恋という感情は、もう少し大切にされて良いように思う。
恋は愛の下位互換ではないのだ、多分。