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お元気でしたか、同志ジェルジンスキー?(三十と一夜の短篇第44回)

作者: 実茂 譲

1.


 やあ、同志ジェルジンスキー。お元気でしたか?

 ええ? わたしを忘れた? それはないでしょう、同志ジェルジンスキー! あなたはわたしと契約をしたじゃありませんか。1898年、シベリアのあの雪深い十字路で。あなたはご自分の優しさが革命の成功を妨げるから、その善良さを封じ込める鋼の意志をくれとわたしに言われたではありませんか。赤い外套を着た男が証人ですよ。

 ああ、思い出されましたね、同志ジェルジンスキー。そうです。あのときの魔王です。しかし、驚いたものですな。あなたと初めてお会いしたとき、あなたはシベリアのそよ風に消えてしまいそうなくらい繊細で弱々しかったのに、そのあなたがいまは全ロシアの秘密警察のトップなのですからね。さぞ、たくさん殺したことでしょう。――いえ、そのことであなたを責めたりはしませんよ。むしろ、あのとき受け取った鋼の意志が非常に役に立っているようで、わたしとしても、とてもうれしいです。いまのあなたは革命の剣、労働者の騎士、プロレタリアートのメリケンサックなのですから。わたしも革命には大賛成ですよ。特に神を否定するのはたまりませんな。あの独善的な阿呆あほうはわたしよりも人間のほうばかりかわいがって、それをわたしがちょっと指摘しただけで、あの狂犬みたいなミカエルをわたしにけしかけて地獄送りにしてくれたんですからね。ところが、その人間どもがですよ、神なんていない、くそくらえとこう来るわけですから、わたしとしてはとてもスカッとしましたし、これはもうこの革命を全力で応援しなければいけないとこう思ったわけです。

 しかし、同志ジェルジンスキー。細いですねえ。ちゃんと食べてますか? ソヴィエトにおいて、もっともご飯をたくさん配給されるのは秘密警察チェカの職員でしょう? その秘密警察のトップであるあなたは全ロシアにおいて、もっともたくさんご飯を配給されているはずです。そりゃ、同志レーニンよりは少ないかもしれませんが、あの方はどのみち食べられません。社会革命党エス・エルの馬鹿女に撃たれた傷が引き起こした病気はひどいようです。ちょうどここに来る途中よってきましてね。ヘロインをたっぷり処方して差し上げました。奥さんのナデジダ・コンスタンチノヴナはわたしのことをすごい目で睨んでましたけどね。あの人の目つき、怖いですよねえ。魔王が言うんだから間違いありません。でも、わたしは革命を応援してますからね。ぶすっとしたばあさんに怖い目つきで睨まれるくらいではへこたれませんよ。臭化カリウムなんかでは痛みはとれません。ヘロインしかないんです。そりゃ中毒にはなるでしょう。でも、同志レーニンほどの立場にいれば、まあ、ヘロインの一キロや二キロ、簡単に調達できるでしょう。禁断症状が出る前にね。

 それより、同志ジェルジンスキー、あなたのことですよ。どうして、そんなにお痩せになっているんです。まさか、ご自分の配給食料を他の人に渡してないでしょうね? ああ、やっぱりそうだ! あなたは、あなたが銃殺した反革命政治犯たちの孤児に食べ物を渡しているんですね! ダメですよ、同志ジェルジンスキー! そんなことをしたら、鋼の意志がボール紙の意志になってしまいますよ。そんな子どもたち、飢え死にさせればいいんです。だって、反革命政治犯の子どもなら、これはどうしたって反革命政治犯になりますよ。今度からあなた自身で子どもを撃つようにするんですね。そこまでしないと革命なんて、うまく行きっこないですよ。

 同志ジェルジンスキー。わたしはちょっと厳しいことをいうかもしれませんけど、それもこれも、あなたに立派な革命家として革命を成功してもらいたいからなんですよ。だって、あなたがた革命家ボルシェヴィキほど神に激しく中指を突き立てた人たちはいないんですからね。そりゃあ、神は怒ってます。怒って天罰下すのがあいつの仕事なんですから。全員地獄に落とすって張り切ってますよ。地獄にはね、同志ジェルジンスキー、あなたのための場所もちゃんと用意してあります。でも、あなたとわたしの仲ですからね、過ごしやすいように工夫の上にまた工夫を凝らしました。ジノヴィエフやカーメネフのような中途半端な極道がどうなろうが知ったことじゃありませんが、わたしはいつだって、あなたの味方ですよ、同志ジェルジンスキー。地獄につくったあなた専用の部屋には撃っても撃っても弾がなくならないモーゼル拳銃と撃っても撃ってもいなくならない反革命政治犯、それにたっぷりのコカインがあります。ええ、同志ジェルジンスキー。知ってます。あなたが1898年にシベリアのあの雪深い十字路で根こそぎにしたはずの優しさがときどき復活しかけてあなたを苦しめることをね。それで、コカインなんて始めたのでしょう? まあ、ほどほどにしておくことです。それと間違ってもヘロインには手を出さないように。廃人になるのは同志レーニンだけで十分です。

 実はコカインをお持ちしてるんです。スウェーデン製の医療用コカインで歯医者なんかが使うやつですが、差し上げます。これをきめて、反革命政治犯をどしどし銃殺してください。あなたはいいましたよね?『たとえ一人の無実の人間の頭に剣をふり下ろすことがあろうとも、百人の反革命政治犯を見逃すよりはよい』と。このスローガン、ぞくぞくしますねえ。あなたが考えたんですか? よかった、これでわたしもざっくばらんに話せます。あなたが今朝サボタージュの疑いで銃殺させた二人――えーと、ちょっと待ってくださいね、いま調書の写しを探してます――あった、これだ、錠前工のイヴァン・ペトロヴィチ・サヴァトフとその妻ソフィア・チモーフィエヴナ・サヴァトヴァ。この二人は無実です。ただの善良な労働者ですよ。あっ、あっ! 同志ジェルジンスキー! そんな傷ついた子犬みたいな顔をなさらないでください! ほら、『たとえ一人の無実の人間の頭に剣をふり下ろすことがあろうとも、百人の反革命政治犯を見逃すよりはよい』でしょ? スローガンを思い出してください。ついでに教えると、二人のあいだには七人の子どもがいます。あ、だめですよ、同志ジェルジンスキー! 食料をあげに行くつもりでしょう? 鋼の意志を思い出してください。それに三か月前に銃殺されたフィンランド共産党員、スパイ容疑だそうですが、彼はフィンランドの軍事法廷で銃殺刑を宣告され、命からがら逃げてきた気合の入った共産党員でした。同志ジェルジンスキー! だめだと言ってるじゃないですか! 同情は禁物ですよ! ほら、スローガン、スローガン。『たとえ一人の無実の人間の頭に剣をふり下ろすことがあろうとも、百人の反革命政治犯を見逃すよりはよい』。さあ、くだらない連中のことは忘れて、コカインをやりましょう。鋼の意志に高圧電流を流すんです。もっと銃殺しないといけないやつらがいるんですからね。おっとっと。ダメですよ、同志ジェルジンスキー。コカインを鼻から吸い込むだなんて、売女のやることです。あなたのような重責を担う方は是非、静脈注射を試すべきです。効果が違います。持続時間が短いのが珠にキズですが。まあ、数打てばいいんです。下手なコカイン、数打ちゃオーバードーズ。

 そういえば、同志ジェルジンスキー、どうしても確認しないといけないことがありまして。いや、気になってしょうがないんですけど、秘密警察の正式名称が『非常委員会』だってのは本当ですか? なんと! 本当なんですか!? 同志ジェルジンスキー、あなたはなんてお馬鹿さんなんですか! 非常委員会ってことは非常時でなくなったら解散しないといけないってことじゃないですか。ダメですよ、同志ジェルジンスキー。あなたともあろう方が秘密警察にそんな寿命をつけたりしたら。そりゃ、ずっと非常事態だって言い続ければ、非常委員会は存続できますが、それじゃ党の指導部がマヌケぞろいだと白状するようなものです。だって、ずっと非常事態から抜け出せないって言ってるようなもんですからね。とにかく非常委員会はなしです。もっと永続性のある名前に変えないといけません。え? 自分だって、ずっと秘密警察のトップをやるつもりはない? 反革命政治犯が絶滅して、革命が完成したら、教育分野の仕事に携わりたい? ああ、同志ジェルジンスキー! あなたともあろう方がなんてことを。人民を教育!? 人民が利口になったら、共産主義の矛盾に気づかれてしまうではありませんか。どうして秘密警察職員は普通の労働者よりたくさん食料が配給されるのか? どうして党幹部の親戚は五部屋以上ある大きくてきれいでピアノがあるアパートを優先的に割り当てられるのか? どうして党幹部たちは自分の仕事部屋で少女を手籠めにするのが許されるのか? 人民を教育するということは、人民がこうした矛盾に気づくってことですよ、同志ジェルジンスキー! そして、あなたはそういう疑問を持った反革命政治犯どもを銃殺するんですよ。それもこれもあなたが人民を教育なんかしたからです。あなたはね、銃殺する必要もない人間を自分で銃殺へといざなうわけです。そうしたら、あなたにとっても身の破滅ですよ。だって、あなたはそれに耐え切れず、ヘロインに手を出すのが目に見えていますからね。同志ジェルジンスキー。教育はやめましょう。人民には赤いものを見たら万歳ウラー!と叫べ、とだけ教えておけばいいのです。鋼の意志に教育は似合いません。せいぜい寮監になるくらいです。

 さあ、コカインをもう一発打ちましょう。そうしたら、タンボフ県の反抗的で思い上がった百姓どもを毒ガスで皆殺しにする命令書にサインするんです。革命のメリケンサックを侮るとどうなるか思い知らせるんです。想像してごらんなさい! 赤色勲章をつけた飛行士が空から毒ガスをばらまく光景を! 百姓どもが青くなって女子どももまとめてバタバタ倒れる姿を! ついでにコサックどもも逮捕して銃殺刑にしてやりましょう。ええ、確かに彼らはいま革命のためにポーランド戦争に従事しています。でも、だからなんだっていうんです? コサックっていうのはずっと同じ土地に住みつく保守反動なんですよ。戦地から帰ってきたら、家族もろともひっ捕らえればいいのです。そして、あなたにはそれができる。コサックだとかポーランド人だとか民族の垣根を取っ払い、これみな全てに銃殺刑を宣告するのです。でも、いまは、まあ、せいぜい戦わせておきましょう。どうせポイ捨てするとはいえ、使い物になるうちに兵士を捨てられるほど、ソヴィエト・ロシアは豊かではありません。なんせ、非常時ですからね。ハッハ!

 さて、とりあえず今日はこのへんでお暇しましょう。コカインは置いていきます。もし、なくなったら、アルバート通りに住むスウェーデン人にわたしの名前を出してください。いくらでも供給するように伝えておきますから。いいですか、同志ジェルジンスキー。鋼の意志ですよ! お忘れなく!


2.


 いやあ、同志ジェルジンスキー。演説ききました。素晴らしいですな。トロツキーとカーメネフなんてのは演説しかできないクズです。自分の手を汚す度胸もない。あなたとは大違いですよ、同志ジェルジンスキー! ええ、そうです。魔王です。また現れてしまいました。いえね、将来有望な人材がいるというので確かめに来たのです。同志スターリンというあばた面のちびのグルジア人ですが、なるほど彼はなかなかやってくれそうです。ですが、彼にはあなたみたいな葛藤がないので、その点、つまらない。で、このまま帰ったのではつまらないから、同志ジェルジンスキーに会いに行ってもいいんじゃないかと思ったわけです。おや? 相変わらずコカインは手放せませんか。あれから五年になりますね。あなたがまだ秘密警察のトップをしていることにホッとしています。相変わらず銃殺に励んでますね。昨日撃ち殺された人たちのうち、無実の人間が何人混じっていたか、ききたいですか? アハハ、言いませんよ。しかし、同志レーニンも冷たい人ですねえ。だって、あれだけ革命のために手を汚したあなたを後継者に指名せず、トロツキーみたいな口だけ野郎をのさばらせるなんて。彼の気に食わないところは自分は汚れ仕事なんて一度もしたことがないみたいな顔をすることですが、それなら革命のスローガンを素直に信じたクロンシュタットの水兵どもを吹っ飛ばしたのは誰の命令だったんでしょうねえ。

 あ、同志ジェルジンスキー。相変わらず、教育への夢はあきらめないんですね? じゃあ、歴史の授業でもしましょうか? 昔、世界の半分はわたしのものだったんですよ。ところがある日、クリストファー・コロンブスがやってきて、カリブの島をインドだなんて言い張って、そうしたら、次々とキリスト教徒がやってきて、わたしの世界を『発見』し、めちゃくちゃにしてくれました。疫病や鉱山奴隷制度を持ち込むのは構いませんが、キリスト教を持ち込むのはひどすぎる。これじゃあ、わたしはどこに行けばいいのやら。毎朝、お天道様を無事に拝むには人間の心臓を生きたままえぐり出し、神さまに奉げなければいけないと信じていた無邪気な人たちはキリスト教徒どもに殺されるか奴隷にされるかキリスト教徒にされるかしてしまうし。気づけばアメリカ大陸は神の植民地ですよ。でも、捨てる神あれば、拾われる魔王あり。世界の半分が悪魔みたいな連中を指導部としてくれたおかげでわたしもこうしてホッと息をつけるのです。あ、そうだ、絵を一枚差し上げようと思っていたんです。これ、わたしが描きました。題名は『終わりの始まり』。カリブの島の原住民が海の彼方からやってくる赤い十字の帆船を見ている絵です。すごくいい天気ですな。大量虐殺が起きるときは決まっていい天気です。誰だって嵐のなか、ナタをふりまわしながら走りまわりたくはありませんからな。しかし、同志ジェルジンスキー。あなたはこの絵のどちらにつきますか? 原住民? それともヨーロッパから来た征服者コンキスタドール? とても興味があります。 え? もう疲れた? 鋼の意志も今では揺らいでいる。もし、生まれ変われるなら原住民のほうについて戦いたい? でも、そんなこと、あ、あ、ダメですよ、そんな高濃度のコカインを動脈に打ったりしたら――、あーあ、死んでしまった。


3.


 お元気でしたか、同志ジェルジンスキー? マイナス四百年ぶりですね。いま、わたしはあなたの孫だと名乗る二百人の老人のうちの一人に案内されて、あなたの墓の前にいます。まったく、イスパニョーラ島にキリル文字を使う原住民だなんて、のちの言語学者が半泣きになるような謎を残してくれましたね。あなたとしては教育で成果を残せたのだから本望なのかもしれませんが。覚醒効果のある植物が生い茂るこの土地で、あなたが麻薬に頼らなかったことが信じられません。まあ、カリブの島はあなたにとっては優しい世界だったということでしょうか。経済の仕組みは原始的な共産主義で、あなたはそれを守るために仲間の粛清をせずに済みました。人よりも多く取るという考え方がもともとない連中ですからね。同志ジェルジンスキー、いまのあなたはコカインいらずだし、あなたはあなた自身の優しさと鋼の意志を矛盾せずに両立させる方法を思考の繰り返しの末つくりあげた。魔王としては自立したあなたがただの英雄に成り下がってしまったことをつまらなく思い寂しさも募る一方、この世界線において、南北アメリカ大陸がいまだわたしのものであることを考えると、キリスト教徒を追っ払ったあなたにはお礼を言わないといけないようです。ねえ、同志ジェルジンスキー。やろうと思えば、わたしはあなたを破滅させることも可能でした。でも、しませんでした。トロツキーやスターリンのような連中がどうなろうが知ったことじゃありませんが、わたしはいつだって、どんなときだって、あなたの味方でしたからね、同志ジェルジンスキー!

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― 新着の感想 ―
[一言] 寡聞にして、ジェルジンスキーを知りませんでした。 実茂さんの博識には驚嘆させられます。 革命の名を冠する事変はすべて怖ろしいです、血腥いんで。 ソヴィエトの誕生にはわが国も一枚噛んでおるので…
[一言] いつも楽しく幻視しております、アナタ様こそ稀代のイリュージョニスト。ジャンル歴史かあ。とかつぶやきつつ知らん人ばっかり;で0から妄想させられるのが面白かったのです。このヘンな語り手は一体………
[良い点]  知っている人名が出てきても、ジェルジンスキーを知りませんでしたので、検索して、再度作品を拝読いたしました。  あああ、そういう人間っているんですねえ。自分の思想・理想の為に過激になり、残…
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